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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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WS形骸化の中でリアリティを

福島駅近くの岳陽中学校の放射線量。毎時で0.123マイクロシーベルトという数値は、基準の6割ぐらいなので、基準内だが高い。

 

福島原発事件から6年半あまり、フクシマからの距離に応じて記憶も切実感も薄れる傾向がある。

他方で、教育実践は、ALの流行・ワークショップ(WS)的活動の流行がある。その中で、ALやWSの形骸化すなわち学習者の感想・認識表現の定型化が進行している。

 

これに対して、リアリティの回復が喫緊の課題。これがあるかないかが教材研究の当否と並んで実践の質を決定する。つまり、定型化されたWSを反復する実践は問題外なのだ。

 

そういう立ち話を福島の教師とした。福島でも、リアリティを生み出す取り組みを新たに織り込んでからでなければ、福島の柱となる学習活動は成立しない。これは、だから、学習者の学ぶ時と場所と状況と切り結んだ変換が必須だということである。

定型化された学習、マニュアル化された進行では学びの不成立といっていいのだということ、だからフクシマから遠くても成立するとも言えるし、近くても成立しなくなるのだと述べた。

 

今日は、静岡。

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 06:53 | comments(0) | - |
感想か振り返りか

近年、学校の授業のおしまいに学習者に書かせる短文を感想と呼ばずに、「振り返り」ということが多くなった。

授業のスタンダードを推進している地域の画一的パターンにも終わりを「振り返り」としているところが多い。画一大好きの面目躍如といった風情となっている。

 

これまでにも、授業のおしまいに「感想」を書いてもらうことあるいは口頭で言ってもらうことを行なう実践は存在してきた。これが呼び方がなぜか変わった。ワークショップの流入と関係があるのか、一昔前の心理主義の隆盛と関係があるのかなどと疑うことがある。

 

内容が変わらなければ、呼び方は何でもいいのだが、私のようなまなざしを持つものは、「振り返ってばかりいないで前を向け!」と一度書いたように思う。

 

とはいえ、「振り返り」に何を書くのかは問題だ。そこでまずポイントは、誰に向けて書いているのかである。

振り返りというなら、自分に向けて書くものとなるはずだ。

「感想」は、授業を受けた感想であることが多かったから、教師に向けて書くものとなる。応答的だ。

振り返りといいながら、教師に提出することが多い。すると誰に向けて書いているのだろう。

教師に向けて書く振り返りは、振り返りか?と大いに疑問なのだが、これが実践世界では多い。

そんな場合、私の嫌いなタイプの中身は、その授業で学んだことを反復してあるタイプだ。誰に向けて書いているのだという点で、唐変木だ。授業を行った教師は、そんなこと知っている。知っていることをあらためて書くのは、管理に応えようとする精神を生みだしているからだ。そんな「振り返り」は、「私は授業を聞いていました」という弁明としか見えない。

 

教師が読むことを前提にするなら、自分の意見や疑問を記して始めて意味がある。

それなら「振り返り」というより、「感想」という方がずっといい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:22 | comments(2) | - |
経験と学問
デューイは高く評価されていい。

ただ、学問を経験に等値されるとやはり私はそこに差異を見てしまうのだね。
この辺りの議論を展開して、そうして評価するとどこに位置するだろう。考えて見たいものだ。

デューイをワークショップの起源に位置づけるのも悪くない。
これをアートと関連づけるのも悪くない。面白い。

ただ、それってあった発想だ。ずっとずっと昔から、アートはテクネー(技術)と同じでありながら、今日では分化したことが何人にも取り上げられてきた。私が院生の頃にも聞いた。
さらに、アートもテクネーも経験なしにあり得ないことも指摘されてきたことだ。でも取り上げて展開しかけているのはいいなと思う。

けれども、経験がテクネーとなりアートとなるのは、そのトレーニングを受けた人々を通じてであった。
20世紀初頭の合衆国のワークショップの取り組みでさえ、美術教師たちが雇用されてであった。市民が単に経験したのではないだろう。

何を批判しているのかっていうと、興味深い議論を展開している本があったから。
実に興味深い本だと言っておきたいのだ。記した点を除いて。

それが何かは関心のある人はすぐにわかる。























 
| 教育 | 00:01 | comments(0) | - |
はやり言葉批判へ
2月に事業報告会のような場ではやり言葉だけが続いていた。
試しにそれらの報告書から言葉をつなぐと次のようになる。文字の色を変えておこう。

小学校英語の導入など教員養成の高度化質保証が求められている。これに対してトップマネジメントチーム力によって、21世紀型スキルならびに異質な者同士のコミュニケーション力などのコンピテンシーを養成するカリキュラムに組み換え、方法としてワールドカフェ方式のコア・チームによるワークショップなどのアクティブ・ラーニングを推進し、それらを支える共通プラットフォームの構築ならびにFDSDの設定、それらを通じたデータ収集によってエビデンス・ベースの改革を」なんていう調子だ。

ひどく空虚に聞こえた。

関連書籍が書店にも並びはじめた。それらの言葉の使い手やエピゴーネンの本だ。今は、それらの言葉を流行らせたい人々の本がならびはじめた所。ちょっとぼかして表記すると、マニュアル本系統では『次期学習指導要領対応アクティブラーニングのつくり方』みたいな本、理論系の本も並びだした。
ごく一部にそれらを批判的に検討する本もなくはないが皆無に近い状態のようだ。

そんな中、『知識社会の学校と教師』というのが翻訳刊行された。
はやり言葉の中で、学校と教師の多様化や創造性を強調されながら、多忙化と画一化といった逼塞状態に置かれることになっていく原因や関連を描こうとしている。
協同学習やアクティラーニングと知識の暗記学習の二つが同時に走る状況の説明として興味深く読める。
ただ、対抗戦略というか現状を越える方向について、「その方向はどうかな?」と読んでいる。
若干の学校の取り組みが高く評価されているのだが、教科内容や教材づくりを重視しつつ授業づくりを考える私の見地からは「どうかな」となりそうだ。アクティブラーニングなる言葉の形式性や、チーム力あるいは協同学習論に乗る人々の形式主義に批判的な私のまなざしがそう予感させている。
とはいえ、学校が画一化する現在の仕組みを考える点においては参考になる数少ない一冊。
















 
| 社会 | 07:37 | comments(0) | - |
幕が上がる
高校演劇部の部活映画。
弱小演劇部にプロをめざしていた新任美術教師がやってきて、演劇の全国大会をめざすことになっていくプロセスを画いたももクロ映画。
素っ気なく記すとそういう映画で、楽しめる。

原作が平田オリザなもんだから演劇を教えたがるというか、演劇のワークショップやそれについて書いたものが生身の高校生を使ってストーリーになった感じ。
(私は平田の本を数冊読んでいるのでそう思うだけかもしれない。ただ、戯曲集はちょっと眺めたが少ししか読んでいない。作品はDVDとテレビをそれぞれ一つだけ見たことがある。思いだしたが、演劇も小さいホールで観たことがある。)

この映画の主題は、最後に宮沢賢治の銀河鉄道の夜を演劇にしていることと関わりがある。
なんどかそれがリフレインされている。
銀河鉄道のセリフや解釈に引っかけてのところでは直接に語られる。銀河鉄道は果てしない宇宙に続いているから、誰もそこ行き着くことができない。しかし誰も銀河鉄道に乗る切符を持っている。だから、銀河鉄道に乗って行けるところまで行ってみよう。行き着く先がどこか、行く途中に何があるかわからないし、不安だとしても行ってみよう、と。
青春の無限の可能性を高校生の演劇部で表現している。
(宮沢の本の解釈としては夜というよりは昼の感じ)

くちびるに歌をもそうだったが、部活の指導者がこちらも「できる人」。できない人だったスウィング・ガールズと違う所。
メイキングも映画で公開だそうだがそちらはたぶんパス。












 
| 映画 | 07:18 | comments(0) | - |
形の向き
「読む道徳から考える道徳へ」などと言われると、馬鹿な!という印象が強い。

日本の道徳教育のやり方は、読み物を使うことが多かったのは間違いないが、かならずしも考えないということではなかった。
読んで、葛藤場面をつくって、学習指導要領の期待する徳目の方を選ばせるタイプの「道徳」の授業が支配的であった。ここでも葛藤場面ではいくらかは考えさせるのが普通だった。

このあと、コールバーグ理論に基づくジレンマ教材(これも読み物であることが多いが)なども導入されるようになり、「考える」ということがそこに挟まれていた。

その後に、ワークショップの体裁を取った取り組みが入り込むようになった。ここでも「一応」振り返りという「考える」ことが織り込まれていた。

少なくとも外形的には、「考える」ことがこれまでも内在していたのだ。だから、「読むから考えるへ」というと馬鹿なことを言うなということになる。

にもかかわらず、考えてなかったというなら、それは、一番最初のタイプが典型的だが、国家公認の徳目が先に決まっていて、読み物が示唆する徳目の方向、登場人物が選択すべき行動が決まっていたという意味でなら、「考えない」道徳教育だったと言えるだろう。「正直に言いましょう」「約束は守りましょう」などと言うしかないお話は多かった。
これを新学習指導要領にもとづく道徳は越えられるだろうか?

多様に「考える」などと言っても国家公認の徳目が決まっている中で、そんなことは実現しないだろう。
評価付きの「特別の教科 道徳」でそんなことはおこらない。
「考える」道徳型の考えない教育が始まる。

もっとも、多様に考えた振りをしなければならないから、「フリ」発言の形は一定程度普及するに違いない。
そうした取り組みを始めている国の経験が、そのことを教えている。

そこでこれを越える方向を考えることになる。そこには、国家公認の徳目基準とは違った、評価のまなざしとは違った、自由な空間・関係づくりと共にという三つの指標に沿って取り組むことになろう。















 


 
| 教育 | 07:54 | comments(0) | - |
決めること決まらないこと
教育という営みは、教える側が決めることだと思っている人が多い。
教育目標、教育内容、授業の進め方や授業方法など。どれをとっても、教える側が決めるんだと思われている。プランは先行世代が決める事柄が確かにある。だが、それは、せいぜい半分なのだ。

教える側が揺らいでいるように見えると、教えている教師がなっていないなどと言い出す人がけっこうな数に上る。

しかし、そうではない。
学ぶ側、たいていは子どもの側が、その内容や方法について、「たしかにそうだな」と同意することもあれば、「違うと思うな」と判断したり、「何いってんだか」と思ったりするものだ。最後は、この点なのだ。
だから、教える側が何をどう決めようと、その通りに終わるものではない。頭の中まで、つまり「わかること」まで強制はできない。いや、強制したとしても、そのようにはならない。

決めたとおりに「同意しなさい」などと命令しても無意味な営みが教育というものなのだ。
このことがしょっちゅう忘れられる。
だから、「わからない」と言わせない教育、「分かったつもりにさせる」AL、思いを強制するワークショップや構成的エンカウンターが流行るのだ。

今の教育の目標と内容の中には、国家や学校が決定してはいけないことがらも含まれているが(例えば、「愛国心」など)、そればかりが問題というだけでなく、決めてもけっして決まらないことがあるという当たり前のことが忘れられている。
「思い」や「わかること」は決められない。
それは、子ども自身が決めること。
子ども自身が決められるように教えることが教育。










 
| 教育 | 06:43 | comments(0) | - |
パフォーマンスと言語世界の切断を越えて
外に見える、形として残る行動がなにかあるとアクティブラーニングとする、おそろしく水準の低い教育が推し進められようとしている。
確かに拝聴だけさせる教育・講義は長く問題だった。だが、外形だけ活動的な形式のそれも同じように、繰り返すが『同じように』問題だ。

なぜか。
知識も認識も感情もすべては人の活動の結果という意味では、その源泉は活動の遂行(パフォーマンス)にある。
しかし、パフォーマンスの中で生まれた言語は、時と場所に拘束されたパフォーマンスを越えて、パフォーマンスできない世界も表現する。これには重要な長所がある。パフォーマンスの時間拘束性を越え、また空間拘束性を越えていく側面を持っていることだ。
このおかげで、人間の世界は拡大した。
拡大された言語の世界は、絶対ではない。人のパフォーマンスを基礎としている上に、そこには錯誤がつきものだからである。錯誤を打ち破るのも基本はパフォーマンスだ。
だから、一方に還元したり、一方だけを重要だなどということはできないばかりか、一方を他方から切り離すこと自体ができないのである。しかし、それぞれの自律性もないわけではないので、切り離す錯誤が時々生まれる。

冒頭の動向は、パフォーマンスが知の生産のすべてとする見方と、知識の集積こそ要とする見方の単純化された錯誤の一つの形なのである。
一方が他方を切り離して捉えている点で誤りだ。

私はだから、ワークショップさえ行っていればという動向には、これを批判して行く必要があると考え、他方で、アカデミックな結果至上主義や権威主義的知の絶対化も批判していく必要があると考えている。
いま、どちらかというとパフォーマンス重視側に振れている。表の世論的にはそちらに傾いた報道が多くなっている。もっとも、到達点を決めているものが多いので、極めてこころの狭いパフォーマンス論が流行らされようとしている。そういう意味ではもっともダメなパフォーマンス論が台頭していると言えよう。
 
パフォーマンスと言語世界を切断してはならないだろう。













 
| 教育 | 07:00 | comments(0) | - |
イベント的取り組みの多いいじめ事例集
先月、文科省は、「いじめ問題に対する取り組み事例集」を公表した。
以下のアドレスにある。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1353423.htm

中を見ると、小中学校ともイベント的取り組みが目立つ。
全校集会でいじめについてお話や劇をしたり、各クラスの取り組みの発表をするなどというものが並ぶ。

次は、ワークショップやアンケートの実施が目立つ。
「「ふわふわことば」、後者で使うものを「ちくちくことば」と言いますが、とりわけ「ちくちくことば」はトラブルのもとになります。」などと言って言い直しを求めたりしているらしい。言い直せば、形の上では「ふわふわことば」に変換される。だが、言い直しだから、実際には「ふわふわことば」だが、実際の意味は「ちくちくことば」だ。
「君はすばらしい」ということになるが、その意味は「だめだ」と言っているというこの単純な演劇の手法を知らないかのようだ。シェークスピアの戯曲にも多用されている手法だ。これを見る観客はそれが逆に意味だと知っている。これを知っているから楽しめるのだというのが、ブレヒト演劇の異化体験を観客にみせる手法の一つだ。
外側だけを気にする人には、言葉の外皮だけでいいらしい。

ほとんどが対症療法で、なぜいじめが生まれたのか、という問いがない。
子ども相互の関係を問い直すことこそ重要だ。それに近い取り組みがないではないが、新たな関係を作っていく視点が弱いように思われる。








 
| 社会 | 00:02 | comments(0) | - |
きちんとの行方
二人の閣僚が不法行為で辞任したが、最後の決着にはまだいたっていない。大臣辞任で放免という法律はない。だから、きちんと決着をつけることが必要だ。
ところで、BBCは、まだ問題の閣僚がいると報道している。
それは、山谷恵理子北朝鮮の拉致問題担当大臣が在日韓国人コミュニティに対するヘイトスピーチを行った被告人である超国家主義グループのメンバーと写真に写った問題がある。」と報じている
http://www.bbc.com/news/world-asia-29684631

きちんと決着という時に、上記の違法行為のような場合は、定まった形で終わっていくのが一般的にはよいことだ。
しかし、教育の場合には、定まった形に終わるのは、よいことでないことが多い。
機械的対応となってしまうからだ。例えば、子どもの様々なわかり方をしていても同じ説明を繰り返すような対応はよくないだろう。

この点で、問題点として検討されるべきは、ワークショップ。
一定の認識や感情を引き起こす仕掛けがそこにこめられていることがある。
仕掛けから外れる保障がないと危険だ。
しかし、他方で、仕掛けのない教育活動というモノも存在しないといえば存在しない。
すると、仕掛けの妥当性基準を変えていく必要があることになる。
この問題は、今後検討する予定。

こういうのが、問題設定とか考えるアイデアというのだと思う。
これらの源泉の一つはやはり読書から。
もう一つは、人もしくは現実との対話から。




















 
| 教育 | 07:20 | comments(0) | - |
主催者主導のWS
つい先日、「へー」と思う文字列を見た。
「ワークショップは主催者主導で進行」すると。
少々驚いた。

いや、驚いちゃいけないのかもしれない。
なぜなら、多くのWS(ワークショップ)は、主催者主導で遂行されていると見るべきなのかもしれないからだ。

なぜ驚くのかというと、私が1999年に『「学び」の学校』を書いた時、WSについて、その理論問題に論及していた浅野や楠原らを参照した。二人は、そのようには規定していなかった。参加者主導で進めるのがWSだとしていた。ファシリテーターはいるが、それはアクティビティティの進行役だと考えていた。だから、本の中に参加者主導がWSの特質の一つと記した。そういうものと考えてきた。だから冒頭の文字列に驚いたのだ。

所が、そうでないものもWSだと自認するものが現れた。
いや、そう言わないだけで、実際は、主催者主導のWSがたいへん多いと捉えるべきなのかもしれない。
最初からWSがそもそもそういうものなのか、そうではなくて、一部のWSが変質してそうなったのかはまだわからない。
だから、WSの再検討が必要だ。無垢に賛同するのは誤りとだけは断言できる。
感情まで強くコントロールするタイプのものもあり、WSは慎重な検討が必要だ。

















 
| 教育 | 06:19 | comments(0) | - |
読解対ワークショップ
道徳教育部会の議事録を見ていて思ったこと。

「これは審議か?」 各委員がそれぞれの意見を述べているが、多数の不一致点が放置されたまま、論点だけが移動していく。 その後、論点が整理されると、採決もなく、一定の方向でまとまったかのような文書ができていくようだ。

道徳教育のあり方について、一方では、心情主義的な読解の授業が批判される。この場合は、ワークショップ的なスキルトレーニング的な取り組みがよいとされる。
他方で、小中の取り組みの一つとしては、心情主義的な読解にも一定の意味を与えることを前提にした発言がある。 委員によって、どちらかに比重をかけているように読める発言がある。
私には、どちらも間違いを含んでいるように思われる。 心情主義的読みは、視野の狭い思い込みを生み出し、コールバーク風に言えばひどく低レベルの道徳水準にとどまる。そればかりか、状況の正確な分析を欠くために知的退廃を生む。危険な道徳教育に思われる。
他方、ワークショップ的、スキルトレーニング的道徳教育も、擬似的心情への追い込みが知的退廃と行動の単純化を生む。その意味で「楽しげな」危険な道徳教育に堕しているように思われる。

そうでしかないなら、取り立てての不道徳教育がそこにある。





 
| 教育 | 08:51 | comments(0) | - |
ほおづき
いつもの公園に数本見つけた。
草むらのような所だが、色づいたのですぐにわかるようになった。
実家にも自生していたのだが、ここ2年ほど見ていない気がする。今年はどうだろうか。
理由は知らないが、盆棚に飾ることになっていた。
藁でつくった馬や竹を編んだ飾りはもう何年もしなくなってしまった。
もう少し夏を余裕ある日程で組む生活に変えていかないと習俗というもの自体が消えていく。

送られてきた『歴史地理教育』7月増刊号を読む。
こんな時期だから特集となったのだろう「日本国憲法の力を学ぶ」が特集となっていた。
立憲主義、9条、人権など現在の動向とかかわらせた内容論的解説と実践を配置する構成は一つの見識というものだろう。
ただ、個人の尊重関連の話題と実践がもう少しあるとよりいいかなと思う。憲法はいろんな領域にまたがるから無理か?

ずっと昔から思っているのだけれど、授業実践記録をどう書くかという点で相変わらず課題。この雑誌に限らないが、近年はスペースがない雑誌が多いからよけいに困難。

以前は、生活綴り方的記録の仕方に否定的だったのだけれど、私の中ではそういうのもあるかなと思う部分も出てきた。ただし、相当中身がよくないと相変わらず否定的。

プラン風ならプランに必要な資料と問いや課題等をワークショップ運営風に書いてくれるのが良い。
授業記録風なら、教師の問いと子どもの応答をきちんと書いてほしいもの。
二つが混じった形で教師の主張が多い形のものは、頁が少ない雑誌の記録としては読みにくい上に参考になる事柄が少ない。
江連記録、杉内記録は、内容も興味深いが、授業進行が子どもの発言と共にもう少しわかるとさらにいい。










 
| 暮らし | 06:23 | comments(0) | - |
手法としてのランキング
このところ、次の学習指導要領の方向に関する批判的検討を一つの作業課題としている。その中で見つけたのが以下の取り組み。
21世紀型スキルの例題と思われるものとして、以下の状況設定と課題が提出される。飛行機から14の物を持ち出す。持ち出す順をグループで決めなさいと言うものだ。

10月5日午後2時半、あなたの乗っている飛行機がケベック州山岳地帯に墜落し、救命ボートでローラ湖に浮かんでいる。パイロットは事故時に死亡してしまったが乗客は全員無傷である。岸辺には問題無く到着できそうであるが、全員腰まで水に漬かってしまった。
現在地は予定されていた空路より約48km南にそれていて、目的地のシェファービルからは、約35km東と思われる。シェファービルはセントローレンス川より480km北、ハドソン湾より724km東、大西洋沿岸地方より480km西に位置している。墜落地は小さい常緑木(直径5cm)の丘に囲まれており、谷間は雑木林の生えた沼で覆われている。周辺一帯は細長い南北に走る湖に囲まれている。たくさんの川がそれらの湖を結んでいる。(地図参照)
10月の平均気温は年により−4°Cから−1°Cの間を推移する。日によっては最高気温が10°C、最低気温が−18°Cにまでなることもある。通常は曇っており、10日に一度しか晴れる日はない。平均13〜20cmの雪が積もっており、ところによっては45〜75cm積もっている。風速は平均5〜7m/sで北西から吹く。
全員、厚手の下着、靴下、毛のセーター、ズボン、手袋、帽子、羊毛のジャケットと皮のブーツを着用している。所有物はその他全員で:現金$1,530、硬貨で50c2枚、25c4枚、10c2枚、5c1枚と1c3枚、アーミー・ナイフ1つ(刃渡り6cmのナイフに突きぎり1つ)、鉛筆1本。
パイロットは航空当局にSOSを出せなかった模様。出発地であるラブラドールから「遅くとも10月19
日までにはシェファービルに到着する予定である」とのみ連絡が航空当局へ送られている。

ワークショップによくあるランキングの手法が採用され、グループでその順番を決定することが要求される。
状況を判断し、考えること、しかも集団的に物事を決めることが求められている。21世紀型スキルの諸項目のいくつかを満たしそうな構成となっていることがわかる。
手法は、定番を採用しているようだが、どうだろうか。

通常のワークショップよりも設定が複雑だ。その理由は置かれている状況が詳細に規定されていることにある。これまでのワークショップのアクティビティの多くは、規定要因となることはあまり示されずに自分自身の考え方を前面に出すことが多い。そうなったのは、内容のない心理系のエンカウンターの転用であったり、ねらいに対して直接的応答を求める傾向があったためなどその原因がいくつか考えられる。


しかし、これでよいだろうか。
条件を決めて、それに対応した正解を要求するということになると、結局、唯一の正解を導き出すだけとなる。
多くの変数があるために知的困難度は高くなるが、「正解」への誘導の色彩が強い。実際、レンジャーの判断が正解例として示されている。ここは、検討が必要な部分の一つとなる。

グループによる決定の手順や原則も示されているが、その手順ははたして妥当かという問題もある。

このアクティビティとは別の所だが、基調報告の池上彰の提案は相当に偏っていることがわかる。カウンター報告がないなど、多彩そうに見えて、そうでもないように思われる取り組みがありそうだ。
良さは、現実に近い問題を取り上げている点だろうか。
今しばらく考えたい。









 
| - | 06:21 | comments(0) | - |
憧れとしての複数解
感想を読んでいると、答えの決まらない授業への憧れが表明されていることがよくある。
ワークショップ的活動が取り入れられた授業にはそうしたことになるものがほとんどだ。
子どもそれぞれが意見を表明する授業はどれが正解ということはないが、そういう授業事例が示されると「いいね!」とスタンプが押される。

ホントかなと感想を読むことがある。
どうも表層にしか見えないことがある。

いや、たしかに、単純にこれが正解ですみたいな教科書記述と授業を受けて、テストで脅されてくると、複数の解のある授業はずっと興味深いに違いない。例えば、「日本固有の領土である竹島」なんて教科書に書かされてしまう世相であれば、やむを得ないかもしれない。つまり、近代国民国家の領土について「固有」なんてことがあるはずがないにもかかわらず、唯一の答えを強制され続ければ、これがそうとも言えない説得的理論と現実に出会えば興味深く映るのもやむを得ない。

だがしかし、憧れとしての複数解には、どこか知的怠惰に思えることがある。追求をそこでやめているのではないかと思われることがある。
先日また紹介されていた、ヘレン・ケラーが鶴見俊輔に言ったという「ラドクリフで懸命に学んだ後、その後は懸命にアンラーンしています」というような重さが必要なように思われる。解を得るということにはそういう追求が必要ではないかと思う。

憧れとしての複数解には、反対に、解の単一性や単純さに拘束されたい心性があるように思えてならないことがある。
本当の複数性を認めるということは、表層的理解としての「みんなちがってみんないい」ということではないと思われる。きちんと詰める必要が他方にある。それがなければ複数の一つさえつかんでいない可能性さえある。
内容を考えよう。



















 
| 暮らし | 07:11 | comments(0) | - |
反・断捨離
昨日の名城公園。
昨日・今日・明日あたりまでが満開となりそうです。

事務書類の提出要望がいくつかきていたので、やむを得ず大学へ行く。ついでに昨年度までにたまった資料を廃棄する。

廃棄したものは、会議資料、広報資料、講義資料、学生レポート。
先に記したものほどためらいなく廃棄。

講義資料は一つ一つ今年度も使うかどうかを考える。去年だから使ったなと思われるものは廃棄。
動詞の部分が決まっていて、理想の自分を描くワークショップの資料は迷う。(○○がすき。○○がしたくなる。などとロマンティックに並んでいて、○○にそれぞれ記入してもらうもの)
結局残し、自分の論文は廃棄。

学生・院生のレポートや卒論の下書きが過去5年分くらい出てきた。
これは迷う。
今年度の卒論にそのテーマがあったなと言うもので、資料が多く載っているものを残す。
次に、今頃もっともダメだった言われた学生ともっと良いとされていた学生のはじめと終わり頃のレポートを残す。学部生がそれをみて、安心したり不安になってくれることを期待してのこと。
次に、データ一覧が含まれているレポートは使う人が出てくるような気がして一部を残す。
躊躇なく残したのは、現職院生の授業記録。当時それを検討したのだが、当時よりより良い記録だったかなと思った。

断捨離と言って歩いている人のTVを見たことがあって、この人はこだわりを持って生きることにこだわりがないと思った。
使うものや必要なものは残すというのだが、その基準を忠実に実行すると、どの人の暮らしも平準化されて同じようなものになってしまう。こだわりとは思い出なんかではない!ということが分かってないと思った。
それだけでは人生をつまらなくする。
だから、断捨離ではなく、他方に集め続け、貯め続け、出会い続けることがなければならないのではないか、と思う。
反・断捨離で行こうと思ったものだ。

あまり整理ができなかった言い訳かもしれない。
しかし、それがないと人でなくなるような気がした。











 
| 暮らし | 07:52 | comments(0) | - |
研究の枠組み
教育方法学会に遅れて参加。
何人かの発表資料を見たりもらったりした。

研究発表として良い悪いの私なりの基準があるらしいことに気づく。
私の基準であって、他の人の基準は知らない。
以下は、重要さの順番ではない。

1)問題設定の社会的・学問的意義が鮮明なもの

2)研究の枠組みが哲学の思考枠組みと接合しているもの

3)データを集めてあるもの

4)主張の新しさのあるもの

そんなところがあげられる。
1)の観点からだめな研究というのは、「学習指導要領sagt das」みたいな論文がだめな典型。研究の意義を権威に求めているだけのものは、問題外ということ。

2)どの哲学の流派でも良いけれど、主体と客体、アートと技術といった哲学の問題設定の伝統を知っていて、それらと同じでなくても良いけれど、それらが背景に感じられる発表がよい。

3)と4)は言うまでもないでしょう。言うまでもないけれど、これが困難だ。
過去の研究は膨大で、それを知らなかったり、見落としの可能性がさけられないからだ。人文・社会学の世界はその可能性がとても高い。
例えば言葉一つをとっても知らないことは多い。
今朝もTVの番宣で「宇宙船地球号」という言葉は50年前にアメリカで提唱されたということを恥ずかしながら初めて知った。この発想を使ったと思われるワークショップがあることを思い出した。ということは、この発想・思想とワークショップは関係があることになる。同じ運命共同体だという枠組みをワークショップの背景程度にしか考えていなかったが、社会思想的な検討が必要なことに思い至った。私は、それを見過ごしていたことに気がついた。
こうした見落としが研究にはあるものなのかもしれない。

だから、もう一つ必要なことに5)として「勇気」がみえるものということが言えるかもしれない。








| 暮らし | 07:36 | comments(0) | - |
参加という閉塞
私は、参加型の授業というものにこのところ批判的スタンスをとっている。

大学生がワークショップ的な講義にそれほど乗り気でないという報道がしばらく前にあったが、その乗り気でない理由の半分ぐらいには「それでいいんだ」と思う。

活動的な学びと言われるものの一部には、特定の気分と認識に閉じ込めるものがあるからだ。
「活動的学び」なるものの内容への批判的まなざしだ。
内容的に外部に開かれていない。
獲得されるべき認識が定まっていて、これを批判的に捉え返すことが許されていない。
むしろ排除されている。
参加は閉じ込められに行くようなものとなっている。

また、わかった気分、楽しい気分にさせるが、言語化の点でスローガンにとどまっていることがある。

それよりは、むつかしく、わからなさを抱えて考え込む時間が貴重だと思う。
わからない本の論理を、飲み込めない言葉をあふれさせながら辿る時間が必要なのだと考えている。

そうした時間とともに、活動的と言うより、実践的世界を対象化することが必要なのではないかと考えるようになっている。
この二つをどう具体化するかはなお不明なままなのだが、言葉と論理を今は優先させるところからはじめようと思う。

簡単に枠組みに収まるよりずっといい。











| 社会 | 06:41 | comments(0) | - |
振り返り
これまた振り返っているブロンズ像。タイトルは「ダンスのステップ」だったような?
とにかく振り返っている。

本論の部分を書き上げたので、全体を思い描くために散歩に出かけたのだが、内容的に振り返ることはできなかった。

デューイの反省的思考というのは昔から有名な概念。
それと関係はなさそうだが、学校でも振り返りが流行だ。

学校の振り返りは、ワークショップや種々の心理操作が流行っていることとの関係の方が深いような気がしているのだが、証拠があるわけではない。
だが、とにかく振り返りが流行っている。

振り返りが多いので、時々思う。「振り返る前に、前を見てみたらどうか」と。

もう一つ思うことがある。
「振り返る前に、前に進んでみたらどうか」と。










| 暮らし | 00:11 | comments(0) | - |
学校における実践研究の持続性について
見出しは、昨日のシンポのテーマだ。
松下佳代(京都大学)、高木展(横浜国大)、八田幸恵(福井大学)の3氏が報告。これに私と牧田秀昭(福井県教委)氏が指定討論という構成。

松下さんと八田さんは、学びの共同体論的なワークショップの手法での京大と福大の試みを話し、高木さんは国語教育研究者として学校に入っての実践研究の経験から報告を行った。

私が調べた限り、小中高校の学校は、学校を単位として研究が法的には位置づけられていない。文科省の審議会答申などには研究に言及するものはあるようだが法的規定は見当たらない。研究開発学校が学習指導要領に依らなくてよいという根拠規定が学校教育法施行規則55条にあるのみだ。

教員は、教育公務員特例法21条と22条に、「絶えず研究と修養に努めなければならない」とか「教育公務員には研修を受ける機会が与えられなければならない」という規定がある。だから、個々の教員には研究と研修が求められている。

だから、学校を単位としては研究は義務的なものではない。研修は義務的なものとして職務の範囲として存在しうる。個々の教員は努力規定としては研修も研究もしないといけない。
とうぜんこれは、現状の法的な位置づけだけの話し。

学校の実態としては、私の見聞する限り、学校を単位とした実践研究は研修的なものがおおい。私は、ここで研修と研究を区分している。報告では、「普及啓蒙的な」「ゴールの定まった」ものと表現したが、それが研修。そうでないものを研究ととらえている。また、学校単位の取り組みと個々の教員の取り組みを区別している。個々の教員の取り組みには、私の知る限り実践研究がいくつもあるからだ。

学校単位の実践研究が持続しないのは、権力的な研修であることが多いからだ。ほかにも要因はあるが、それはここではパス。
ほかにもいくつか指摘したがここではそれもパス。

多忙化をもたらすのとは異なる研究に変える必要とワークショップ的な取り組みに部分的な疑問もしくは深化を期待する意見を述べた。
それは、答えが用意されている取り組みがありはしないか、それが研究へと発展する必要があるのではないかということ。
それがないと教育実践研究の自由は創り出せない気がしている。
回答が決まっていない取り組み・活動であることと研究であることは異なるように思われる。










| 教育 | 05:14 | comments(0) | - |
指導案が書けないと非難するけど書けてるの
すぐる日、教育実習で「学生が指導案を書けない」という声が寄せられているとあった。

私の記憶によれば、わたしが大学に勤務し始めた頃にも聞いた。
その頃、書けないと言われていた学生もすっかりベテランになっただろう。
その世代が実習生に向かって言っている。

おそらく、実習生が指導案を書けないというのは、事実だ。
学生に授業の構想を描く作業をしてもらうことがあるけれど、それを見ていればすぐわかる。
書けないだろうなと。

しかし、「指導案が書けない」と、このように言う人の多数派は、自分の勤務する学校の指導案に合わせた形に「書けない」ということではないか。そう思われて仕方がない。
いわく、目標は4観点を必ず入れる。文末の表現は行動にする。などなど。
はっきり言ってしまえば、些末な事柄にこだわって「書けない」と得々としていることはないかと。
それは違うでしょう!と強く思う。
本末転倒でしょう。
転んでいる人は起き上がってほしいもの。

かつて、指導案を極めて詳細に書く動向が日本に生まれた。
それは、まさに授業を研究するあるいは求道者的生き方をめざす時にはあってもいい。
しかし、指導案の目的は授業を実施するためのプランだ。

だから、授業を研究している人なら知っているように(ここはイヤミで書いている。「書けない」という人は研究しているの?)、ワークショップ的な授業を実施する人は、まったく違う形の指導案をつくる。仮説の授業書も指導案だ。一部で流行らしい「学びの共同体」の指導案は、数行だ。
指導案にいろいろあることを知っているだろうか。

「書けている」人は、書けているだろうか?
指導案をつくると言うことは、構想することだ。
その構想は、教える内容として今日の時代に対応しているだろうか。
教科書準拠のままじゃないか。
それは、構想が欠落しているということじゃないか。

形式への不適応を書けないと言わないのが、ベテランです。
皆そうだったではないか。
自分の信じる形式を絶対化しないのが、前を向いている専門家としての教師です。

指導案づくりに無駄につかれるより、授業自身を良くすることに時間を割く方がいい。
教える内容とその教える構想の輪郭が描けていれば、指導案なんてそれでいい。

転倒したものは元に戻す。
立ちなおってほしいもの。






| 教育 | 05:59 | comments(0) | - |
肯定の否定
あじさいが綺麗な時季でカメラの放列ができている。
消費税がなぜか不思議な政治的構図で上がりそうだ。他の改革と一体だといっていたが、一体となって改悪の方向らしい。改革というのは、よくなることを指すと思っていたのだが、この政権と自公の多数派の人達の概念では、現状より悪くなることが改革らしい。
大飯も再稼働の報道が流れている。ここでも「安全が確保された」という。これは、「危険が放置された」というのが正しいだろう。
肯定の肯定が否定となるのが脱構築だが、この事態は普通に乱暴な乱暴な詭弁。

同じ詭弁というつもりはないけれど、これは議論として否定したのか肯定したのかちょっと分からない危うさがあるかもしれないと思ったのが模倣をめぐる佐伯の議論(ワークショップと学び1)。
それは「わざ」の習得をめぐる部分の一部。ワザについては、生田の研究が多くの場合参照される。佐伯も生田を引用する。
生田は機械的模倣とは違ったわざの意識的な習得過程を論じた。
これに対して佐伯は、新しい型の習得過程について、一方で意識的な思考発現の過程としながら、他方でこれまでの頭の働かせ方を停止する思考停止を伴っているとする。(61頁参照)
私は、佐伯のこの論じ方に危うさを感じる。
学習者の心理活動を述べただけとみれば、その叙述は妥当性を持つ局面があるだろう。
しかし、型がそれを教える者との関係で習得されていくことを考えると、不用意な叙述に見える。わざの習得における諸問題の棚上げ、従属の肯定、現状の追認となるように思われる。
教育学的には指導の改良の余地が何も出てこない議論に見える。
伝統芸能も含めて、その熟達過程とその指導について、今までの行き方でいいのだとだけ説明することになる。それは違うのではないだろうかと私は思う。
佐伯の側に立てば思考停止ばっかりを言っていないというだろうが、そのようには機能しないと思われて仕方がない。




| 暮らし | 06:19 | comments(0) | - |
高名なお坊さん
私の話の仕方についての評価?感想に見出しのようなものがあった。
何も悟ってなんかいない。
けれど、話の内容がそう思わせたような気はする。
というのは、鷲田や上野、ガーゲンや城丸、あるいは物語論のわくぐみを使った話しをしたからだ。
話し方も変えた。テーマについて否定して否定するのではなく、肯定してもう一度肯定してひっくり返すように心がけてみた。

変えてみたのには、いくつかの動機がある。

ワークショップ的な活動が流行る中で、取り組みのいくつかは定型化され、そこに生まれる認識水準の定型化の兆候があるから。そういうものに強い不満を持っているからだ。

先日、学生にも述べたのだが、「子ども主体」を野放図に考えすぎている。
子どもはほっておいて一人主体として立ち現れることはないのだ。
あたかもそうなるかのような教育論が一方にあり、他方に教師の言うとおりにさせようとする独裁「教育」論がある。

欠けているのは、働きかけることや問いかけること。
この動詞への丁寧なまなざし。

交わるということの意味の再考も必要かもしれない。



| 暮らし | 06:30 | comments(0) | - |
見消し版
12月27日の中教審の教員養成の特別部会の『審議経過報告案』の見消し版を見ると、前回との相違がよくわかる。
そもそもおかしいと思っていることを除いて、気になった見消し版の箇所を列挙する。
数字は、見消し版の頁番号。

1「天然資源に恵まれない」などと旧い言説が繰り返された。こういう言説を読むと、アジア太平洋戦争の免罪論を想起させる。

1、2「マネンジメント手法」「コミュニケーション技術」「ワークショップ型の学習手法」がさらにはやらされる。必要な部分があるけれど、換骨奪胎されて悪い方に機能する恐れがある。中身を問わない動向と心の支配の動向が気になる所。

3「一斉指導を行うだけでなく」個別化や協同的な学習とすべてが並んだ。すべてが並べば、昔に返る。良かったか悪かったか、いろんなことを思い浮かべる。
これは、並べてくれた方が特定の形態だけを特別視しないという方向で考えることもできるけれど、個々の言葉と関係の深い教育関係者の顔を思い浮かべもした。良いんだか悪いんだが。

3「学力の向上への対応」が入ってしまった。ない方がよかった気がする。

6「教職実践演習の確実な実施」この関連項目について記述が増えた。その論旨は実施して検討しようだ。このくだらない科目について、外部的批判の声が届いているけれど、この委員会じゃそのまま言えないという中で、建前が言語化された感じがしなくもない。

12免許制度について「本質に立ち戻った議論から出発しなければならない」という趣旨の加筆が増えた。だから、これについては時間がかかるということだろう。

最後の時間をかけて論議するという点だけは賛成だ。
でもその分、更新講習は続く可能性が高い。
マニフェストを後退させて、自民党政権時代と同じ方向を取っている他分野の政策と文教政策も同じになってきている一つの証し。

気分転換に買い物でも行こうかな。
| 社会 | 07:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
WSで教えるはない
 ワークショップ(WS)で教えるイベント案内があって、ひどく違和感。

WSは、問い直しを課題として試みるものだと思う。

やり方だけまねて特定の何かを教えようというニュアンスが案内からしてきたことが違和感の根源のようだ。

そう思ってしまう理由は二つだ。
ひとつ。
語弊があることを承知で書いてしまうと、教える内容を問い直す発想の人は少ない。そこは前提になっている人が多い。事実を指摘すると、「あっ」という人も多いけれど、なかなか批判的に事実を見ることは難しいらしい。最近特に、手法だけまねたものが多い。

ふたつ。
アクティビティティは、一連のセットとなって意味を持つのだけれど、一連とまでなっていないようだ。これは時間の制約から推測されることがら。

WSは試みたらいいと強く思う。
けれど、それで特定の教科内容を教えよう、と考える発想は危険だ。
単なるマニュアルに転落してしまう。

「問い直す」これこそWSの生命線。
私はそう思う。

| 教育 | 07:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
詰め込まれた一日
朝一コマ目から講義。
グループでワークショップを始めようとしたら、多数派から関係の切れている学生が教室から出て行く。一人の学生が追っかけてくれたけれど見失ったと戻ってきた。
今日から、そういう関係の外側にいる20人あまりが教育実習でいないために緩衝材がなくて、グループワークということで出ていったことは明らかだ。そういう関係らしいことを知っていたけれど、内容優先で講義を準備してしまった。周りの学生は分かっているからテンションがぐっと下がる。
私は原因を知らないが、きっと来週も欠席するんじゃないかと心配。

二コマ目は他講座の教員の要望を聞く時間。学内改革に関する懸案で、不満がいっぱいだから厳しい言葉も出るけれど、私からみて積極的な気持ちから発していることが分かったことが収穫。

昼休みに講座会議と教室会議。
終わって3時近くに昼食。
すぐに大学改革委員会の会議。個別には反論や批判をしたい意見がいくつか出されていたが、立場上、聞き流す、じゃなくて聞き置くように努力。

6時近くに終わって、メールチェック。
夜は、学会要旨の作成。
これは、期限を若干過ぎて迷惑をかけている。
ということで目処のつくところまで作業。

ほんとに仕事が多かった。
けれど、なんか片付いた気がした。
実際には終わってないことも多いのに、そして展望が開けているわけでもないのに、なんだか見えている感じ。
この見えている感じさえあれば、良いのだと思ったという話し。
多忙というのは、客観的な時間の問題として重要な問題だけれど、見えている感じがあると主観的には心は亡くさないですむようだ。
| 暮らし | 06:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
ランキングという手法
魅力的な町の一位が函館という記事は、要するに人気投票によるランキング。
函館はいい町だと思うけれど、確たる根拠のある数値ではない。
けれど、ランキングという手法は流行っている。この手法はいいのか疑問を持っている。

保護者に一番人気のない番組は「ロンハー」だったと思うけれど、これもランキング番組。不人気は、個人を根拠無くとはいえ傷つける会話の応酬だからだろう。

ワークショップの手法にもランキングというのがある。前にも触れたかも知れないけれど、この手法には内容によっては適切でないというものがあるように思われる。熱気球ゲームのランキングは、どうだろう?
人は複数の価値について行動が一つしか取れない時、価値に大小などの何らかの順位付けをしている。だが、価値そのものの順位と行動選択の順位は同じでない。自身を取り巻く条件を勘案して選択するのが普通である。だから、価値としてより重要としていたとしても、実際の行動選択において優先されるとは限らない。

つまり、ランキングできないものをランキングさせる危険、そしてランキングがランキングを意味しない可能性があるなどと考えると、疑義が浮上してくるのである。
とりわけ、教育活動に取り入れるとそれなりに盛り上がることが多いので、少なくとも疑問を感じながら実践している人であり続ける必要がある、と思う。
| 教育 | 06:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
ランキングという手法
 ワークショップの定番の手法にランキングするというのがある。
これってどうなのとときどき思う。手軽さに負けてときどき使っているんだけど、無理強いするよなと思う。

例えば、「あってはならないちがい」と「あってよいちがい」に分けて、その程度をランキングするもの。班をつくってランキングをつくり、発表する。配置がうまくないけど以下みたいに□の中に下記の短文の記号を入れていく。
             □       あってはならない違い      
     □  
 □  □ 
     □
      □    あってよい違い
1 ジョンは肌の色が黒いがトムは白い。
2 日本生まれの在日朝鮮人の朴さんは常に外国人登録証を持たなければならないが、イギリス生まれの日本人渡辺さんは持たなくてよい。
3 日系ブラジル人なら日本で働けるが、他のブラジル人は日本で働けない。
4 日本では食事の時にハシを使うが、インドでは指を使う。
5 イスラム教徒は豚肉を食べず、ヒンズー教徒は牛肉を食べない。
6 日本では自己主張をするとでしゃばりと非難されるが、アメリカでは自己主張しないと低く評価される。
7 日本では高校生のアルバイトは禁止されているが、オーストラリアでは積極的に進められる。
8 日本には死刑制度があるが、フランスにはない。

以上は、『シチズン・リテラシー』教育出版にある事例からの引用だ。

日本と諸外国と機械的に分けているから「ほんとか?」と疑うに足る項目もなくはないけれど、そういう項目には「どちらかというと」という言葉を補って考えてもらうといいだろう。
それでも、ランキングと言った途端に無理に順番をつける気がしなくはない。これをつくった側はそうすることで「意識化」し「顕在化」させようとしているのだろう。
でも、どうなんだろう。
順番のその間のような部分が消えていく、そういう思いがどうしても残る。
| 教育 | 05:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
学会準備
次の金曜日から学会がある。
土曜日には、学会の全体会で報告をすることになっている。その準備をたらたらと続けている。雑用をこなしながら強調点を考える。何ともてきぱきことが進まない。どこに意味があるか、どこまで断定していいのかその境目をあれこれ考えて時間が過ぎる。

学会名:日本生活指導学会 第26回大会
場所:北九州市立大学(北方キャンパス本館3階)
日時:9月6日〜7日(私の発表は6日の午後)
内容:課題研究A 生活指導の専門職の育成
         報告者 永井優子、住野好久
   課題研究B 親(保護者)とかかわる
         報告者 米沢久美子、田中敏政、浅野誠
   全体会   生活指導研究におけるナラティブ・アプローチ
         報告者 田中昌弥、子安潤、菊池美智子
         コメンティター 片岡洋子 高垣忠一郎
   課題研究C 深刻な課題を抱える少年に対する生活指導実践
         報告者 土井高徳、酒井裕樹、櫻谷真理子
   課題研究D 働くことと若者の自立支援
         報告者 村澤和多里、乾彰夫
   他に自由研究発表、ワークショップなど

私の発表内容の要項にのせた文章の出だし。

同化としてのアイデンティティから対象との関係選択へ
1 社会的同化圧力の時代
 各種のナショナリズムの台頭によって、個人を関連する集合的アイデンティティへと同化する圧力が強まっている。具体的には、一連の道徳教育の強化など教育の世界においても従来以上に本質主義化された集合的アイデンティティへの同化が紐帯の復活・再生などとして目論まれている。
 他方、個人の意識・認識・行動のレベルにおける自己物語の囚われから抜け出すことができず、自己との和解・他者との和解ができにくい事態がある。こうした事態に対して、アイデンティティというものの捉え方の転換が必要であることを提起してみたい。
   以下略
| 暮らし | 08:10 | comments(2) | trackbacks(0) |
指導案の書式
普通の学校では、なぜ、あの指導案の書式を用いるのだろう。
授業を構想し、授業の流れを把握するという目的を考えると、さほど優れていると思えない。しかし、かなりの年月続いている。

教材や子どもの見方に関する叙述項目、単元目標やその計画などは、その書き方と内容・量はともかく、それなりに必要ではある。特に問題だと思うのは、役に立たないことも多いのに力を入れて書く、本時の学習過程を記す部分だ。
これには略案と細案があるが、どちらも教師側の活動と子どもの側の活動を二段に分けて書く場合が多い。一部には生活科などを中心にマンガの吹き出しが並んでいるようなフローチャート風のタイプがあるが、これも有意義とは思えない。手間ばっかりかかって、わかりにくい。良いところが少ない。

普段、授業を構想し、メモ書きとして教室で実際に使いやすいのは、開発教育などをワークショップ的に進める人たちが作成することが多いタイプのものだ。仮説実験授業の授業書に近い。それぞれの内容が良いか悪いかではなくて、その書式を問題にしているだけだ。教師が何をするのか、子どもの基本的活動がわかりやすいのだ。

それにしても、20年前、「教師の指導案じゃなくて支援案だ」といった人たちは、風向きが変わって、やはり風見鶏なんだろうか。
実は、勤務先の『教育実習の手引き』のこの指導案の一般的解説の部分は、私が書いた。担当者が変わって一部に字句訂正があるかもしれないが、昨年確認したところでは変わっていない。そこにいろんなタイプがあるよとは書いたが、支援案などとは書かなかった。
あの書式は止めればいいのに、と思う。
| 教育 | 06:24 | comments(4) | trackbacks(0) |
琵琶湖
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朝、夜明け。
宿から水車小屋のちょっと先まで走っていって帰ってきました。
普段のコースと違って、街路灯などがほとんど無く暗い。

滋賀だけどほとんど参加者は大阪。
若い人も多くて確かに「明るい」。
いつもブログで訪問している司法書士の方にも初めてであった。
元気だ。

私の話はワークショップを既にいくつもやってきていることを前提に、高校の授業の改変動向を見越して課題を提出するつもりで話した。
これは、高校生活指導の原稿のモチーフでもあるので、春になったら読んでやってください。
| 暮らし | 08:25 | comments(4) | trackbacks(0) |
濱崎実践
『家庭科再発見』開隆堂(1800円と税金)の中に、濱崎タマエさんの「集まって住まう」という実践記録がある。
実践の概要は以下だ。
1,私にとっての住宅:1枚の紙を使って自分の思う住宅を5分で造る。
2,お菓子の家を造ろう:クッキーでお菓子の家をつくってアピール。
3,住みたい家をつくろう:牛乳パックを使って、生活するために必要な機能を持った家をつくるようにいう。実践では、必ずしもそうならずに、ほしいものが並んだ家、コンビニ、プールが住居内にある家がつくられたり、お仕置き部屋までができたとある。
4,つくった家に段ボールの土地をジャンケンで勝った順にあげる。(広さが違う)
5,住みたい家のエネルギーを体感。
6,集まって住まう:それぞれの土地と家を集めたときに必要となる日照問題、防災・防犯、景観や公園などの問題を検討する。町づくり行政官を教室に呼び町に必要なものを明らかにする。
7,地域の撮影:町を残したいスポットという視点から撮影しインタビュー。
8,自分たちの町についての提案づくり:町づくり協議会の人へ提案。

だいぶ端折ってあるが、空想的なところから始まり、その空想に子どもたちの現実の生活と欲望を見て取り、さらに、これを現実そのものと突き合わせながら、公共的な空間をつくり出していかなければならない点を浮き彫りにしていく。

実践は、小学校5年生のものだ。
無矛盾な町づくり実践が横行している中で、なかなか刺激的な実践だ。

ところで、この本の編者とも若干の意見交換をしたが、ワークショップの手法は、濱崎の試みにも含まれているのだが、濱崎の場合は、現実との照応関係を実践に組み込んでいる。これをしないと、シミュレーションはまさに擬似的なシミュレーションのままに留まってしまって、リアルな問題として掴まれていかないのではないかなどと思われた。
他の中高の実践もなかなかだし、検討してみませんか。
| 教育 | 06:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
怪しいと
安倍が強制「ボランティア」構想。画一的行動が好きな人らしい。
怪しい。
石原が「怪しげな外国人だ」。いいところを突かれると「あいつは生意気だ」と吠える。
怪しい!

さて本当は、もっと難しい話し。
意味の生成について。
意味についての情報としての知識の理解。これをAとする。
具体的関係と状況において発生する個人の意味。これをBとする。
AからBは発生するか?
BからAは発生するか?
あるいは、同じか違うか?
シミュレーションは、媒介となるか?
何が捨象されるか?

以上、体験、ワークショップ問題でした。
解けた人は教えてください。
| 社会 | 07:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
ワークショップづくり
淺野さんの新しいWS本が届いた。(『ワークショップガイド』アクアコラール企画、1400円)

実は、私の講義もWS風を取り入れている。
また、今二つの講義でWSづくりを行うことにしている。
WSをするのはこれまでも結構長く取り入れてきた。
しかし、WSをつくるというのは今年が2度目。以前一度試みたのだが、できがよくなかったので中止していた。
今年は、グループエンカウンター(GE)の危ないWSが流行っていることがあって、それとの比較を私が(学生ではありません)考える素材として無謀に試みている。もう後1回分しかないから時間切れに終わる可能性が高い。
淺野さんは、WSの危ない動向との違いを共同創造などの点においている。この点もさらに実践と絡めながら見ていきたいところ。

なお、私が危険だと思っているのは、GEなどの場合、人と人との関係を問題にしているのに具体的社会関係を対象化できず、心とスキルに終わる傾向を持つこと。
WSの中にはモノゴトの世界の内容的把握に向かわないで終える構成のものがあったりして、学びのプロセスの部分として位置づけることが必要だと思ったりしている。
| 暮らし | 10:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
似たもの
キーワードを考えているが、タイプは違うのに同じ問題を抱えているので異なる言葉が出てこない。

内容を歪めて恣意的回答を引きだすタイプ。(マニュアル好きのあの人たちです)

一定の視点を排除して活動させるタイプ。(リベラリストのワークショップ派。金があるから全国どこへでも出かけてるみたい)

内面に枠組みを作って操作するタイプ。(現実の関係を無視した心理派。人を騙しちゃ行けない気がするけどね)

どれも同じ問題を根底に抱えている。そこだけに注目すると同じ仲間になってしまう。近くで違和感ない人もいるだろうけど、同じに括られるとイヤな人もいるだろうから分けてあげたいもの。
| 教育 | 07:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
プログラム
オオイヌノフグリ。雑草で毎年毎年しぶとく咲き続けます。調べたら名前がわかりました。
さて本題。ワークショップについて。
世間に広がっていることは前にも記し、その中のある種のプログラム動向については疑義を持っていると書いた。
疑義の一つは、心の操作に使われている点にある。強制と感じさせずに強制を生み出すことと言ってもいいかもしれない。
二つには、行動の技術・スキルに社会関係や対人関係を矮小化する点にある。
これらは、いつも自己のバージョンアップをめざすので、人との関係の変革に向かうことがない。いつも自己の側を、自己の気持ちの持ち方を変えて適応しようとする。だから、具体的な人との関係の場面になると無力にならざるを得ない。
三つには、知識もしくは言語との関係の問題がある。
上二つについては見えた。三つ目は、結構厄介だ。

| 教育 | 11:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
片づけ
年度末ということで、研究室の片づけを会議の合間にすることに。
必要かもしれないととっておいた会議用資料。(必要になったことはほとんどない)
講義の資料のあまり。
各種機械とソフトのマニュアル。
基本を廃棄とし、来年度も利用価値がありそうなものを選り出す。

その中から最近講義で使わなくなった資料がいくつか出てきた。
毎年少しずつ素材を変えているのだが、そこに傾向があることを発見した。
表向きの傾向と、深層の傾向というかメタな構造というのかそんなものがあるような気がした。

表向き取り上げなくなったものの一つが教科外活動の中でしばしば取り上げられるゲーム的性格の強いもの(そういう講義を担当しなくなった事もあるが、ある種の評価が私にあるからだ)。ワークショップの若干のタイプ。

深層の傾向は、これは昔から変わらないのかもしれない。
最近、調査発表学習、体験主義的な傾向が大学内でも増えたので、そういうのを減らそうとしている。学内でアンケートが増えたので、アンケートは原則的に引き受けないことにした。利用のされ方が間違っているだけでなく、意図が間違っている事も多い社会状況なので応答しないことにした。
だから、流行や傾向から外れようというのが深層なのだと思う。
それが研究者の存在意義だと教えられた昔を雨降りの前の彼岸あけに思い出した。
| 暮らし | 11:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
WSの検討
WS(ワークショップ)の位置づけ、内容、構成、それぞれについて広く議論すべき時がやってきたのだと昨日は思った。

授業の構成(作業はすべて7人ほどの班で進行。高校二年)
A 三つのデータがそれぞれ記された世界地図を配布。
B 各データが、環境問題、子どもの権利、ジェンダーどのデータか?
C 具体的データの推測とその推測理由を聞く。(正解は、二酸化炭素の国別排出量。大人の識字率。国会議員の女性占有率。)
D ポストイットに各データから読み取れるキーワードを記入。
E それらを新しいネーミングで5つ前後に分類するように指示。
F 分類毎に対策を相談するように指示。
G 分類と対策のグループ発表。
以上通常の時間にして約2校時分。

この授業、いくつかのよさを持ちながら、基本問題を抱えていると思われた。
一つは、この授業は、これまでに13回行われてきて「まとめ」の始めに位置し、残り3回から4回だという点から発生する懐疑だ。データが三つの領域に別れていたように、生徒はこれまで三つのどれかを主要に学んできた。とすれば、なぜ改めてキーワードを出させるのか?あるいは思いつきのような対策を書かせるのだろうか?
単元構成にミスがあると思われた。WSの常套手法が並べられているが、授業構成上の知見がそこに不足していると思われた。

二つには、WSの手法でよく使われるポストイットの限界ということ。キーワードとして書き出させるメリットはある。しかし、その後のグループ内での対話も、意識的に追求しないと、コミュニケーションが単語的になってしまうように思われた。これは、教師の役割にも係わることのように思われた。

三つには、授業後の分科会での報告者の発言。
その第一の批判は、教師の役割でなくファシリティターの役割をという主張に向けられる。教師の役割を知識伝達だと誤解しているところがそもそも大きな間違いだ。
第二の批判は、生徒の発言への介入の弱さ。生徒の発言の趣旨をより明確にさせる指導が必要だ。個々の教師はグループ内を見て回っているときにはそれが部分的に存在するのだが、全体に反映しない。授業プランのミスなのだ。単語発表の段階からその先に行って、その認識そのものを討論する段階を設定する必要があったのだ。また、グループ内の討論でも対話を発展させる指導を組み込まないと認識の深化は望めないことも見えたように思われる。

こうしてWSもその内容とその構成によって、当たり前だが、意義あるものと問題なものとがあることが見えてきた。その判断をどこでするのかのヒントが昨日は見えた気がする。
| 教育 | 10:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
検証について
多分、愛媛新聞の記事に、つくる会の教科書不採択の運動を取りあげて、教科書を読みもしないで反対しているなどと言わせて満足している大学教員の記事があった。
自らの判断を権威に一切委ねていることへの批判としては、成立するが、では、逆に、一切の判断を自分自身がすることがあるかというと、そんなことはありえない。だから、この東大工学部出身のその人は、部分的妥当性を普遍性に不当に拡大することによって、「よく分からないのに判断するな。運動などするな」というメッセージを送り、つくる会教科書批判の人々への批判に荷担しただけだ。

ここで問題となるのは、検証の問題だ。何を最低踏まえると検証された認識や判断となるのかということ。科学的検証が不可欠だということを普遍化するのは、科学主義だ。そこに権威主義がある。他方、自分の目で見たことだけを信じるという主観主義もある。こうして、あらゆることが判断できないなどと言い出して、自信喪失に陥る人までいる。
あらゆることを同じ程度まで検証する必要などない。物事には軽重があるし、慎重な判断をしなければ重大な結果を招くものもあるし、試行錯誤のなかで修正していくことで十分な事柄もある。
判断は誤ることもある。だが、行動には結果が付いてくるから、修正していけば良いだけのこと。絶対視することが問題だし、判断しないことが問題なだけだ。

ここでは、ある程度の検証が必要な問題と考えられることについて結論だけ記しておきたい。これを話題とするのは、地域的なMLでのピアサポートの報告、ワークショップ的な学習における検証の不在がゼミで話題となったからである。

擬似的な体験は、体験によって生まれる認識を知的に検証するプロセスへと展開される必要があり、逆に、言語的な結論や判断は、体験的情報と接続される必要がある。
もう少し、言語的認識優先派に批判的な見方を私は持っているのだが、別の機会に。
| 教育 | 09:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
お話
鎌ヶ谷の研究会でお話をしましたが、実践イメージの語りはうまくいかなかったようです。
個別実践を説明するには短く、短いと分かりにくく。最初からワークショップ的な取り組みを体験してもらった方がいいのかも知れません。なかなか割り切れない。

話した内容は、塩崎さんがコメントでまとめてくれてた通り。

どんな実践を作るかについて、複数のイメージと複数の観点があると今のところ見ていて、それを整理することなく話したのだろうと思います。
失敗は繰り返すもの。人は面白いですね。

| 教育 | 21:49 | comments(2) | trackbacks(0) |