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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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コロニア

エマ・ワトソン主演のチリの史実に基づく映画。

1973年、アジェンデ大統領政権に対して軍事クーデターが発生し、ドイツのジャーナリスト・ダニエルとその恋人であるレナが捕まる。ダニエルは大統領派のポスターを画いたため、コロニア・ディグニアに送られ拷問を受ける。彼を救出すべく、解放されたレナは表向きはオカルト教団のコロニアに入り込む。

そこは元ナチス党員のパウル・シェーファーが暴力で支配する教団で、裏ではピノチェト大統領と結託してアジェンデ大統領派を拷問し殺害している。

オカルト教団の洗脳手法は、日本にあるいくつかのオカルト教団の手法と同じだなと思いながら見た。教皇への帰依、暴力と絶対の服従、考えさせずに追い込む、歌とシュプレヒコール、無力感の創出などと組み合わされていた。

 

二人はここからの脱出し、コロニアが拷問と虐殺の施設であることを国際的に暴く。そこに至る映画。

教皇と呼ばれたシェーファーはピノチェト独裁政権が倒された後逮捕され、アルゼンチンで服役中に死亡したとエンディングで説明されていた。だが、服役理由は拷問と殺害ではなくて、コロニアでの子どもへの性的虐待だったと説明書きしてあった。つまりこの映画は、この施設で何が行なわれたのか、その責任ある加担者たちがそれにふさわしく罪に問われていないことを告発している。

 

ワトソンは、この映画について、女が男を救出する映画となっていることを高く評価している。監督のフロリアン・ガレンベルガーは日本の観客に向けたメッセージで「一人のリーダーを支持し、自分で考えることを放棄するとどうなるか、これまで様々な国でこういった歴史が繰り返されてきました。私たちは、特に若い人々に、自分の頭で考える、自分の考えを持つ、そして自分の指導者に疑問を投げかけることの重要さをリマインドする必要があります」と述べているようだ。

誰を想定して述べたのかがわかるように思われた。

 

ハリー・ポッターのエマ・ワトソンしか知らない人は、彼女が国際女性の日を推進する国連の親善大使を勤め、ジェンダーの平等を追求する活動をしていることを踏まえるとこの作品に出演した理由がわかろうというものである。ネット上に国連での演説がアップされている。

https://www.youtube.com/watch?v=jQbpLVI6DwE

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 07:10 | comments(0) | - |
クハナ!

タイトルの意味が一番気になって寄った映画。タイトルの由来だけは見逃さないようにと見始めた。

 

内容は、廃校が決まっている学校に通う桑名の小学生のジャズ部活の話。

人口減少や産業の衰退にともなって廃校が決まっている。親たちの生活も苦しい。

子どもの暮らしにもそれが反映している。

そこに、ジャズプレイヤーを志して挫折した先生が赴任してきて、ジャズのビッグバンドをやることになる。映画案内にあるように「 大人たちのゴタゴタや、海斗の突然の転校などを乗り越え、真珠たちのビッグバンドは県大会を勝ち東海大会へと突き進む快進撃を見せる」という映画。

 

「仰げば尊し!」の小学生コメディ版映画という感じ。

設定が、部活で、指導者がどこかダメで、本番直前のトラブルという既視感が強くて、もう一歩の地域創生映画。演奏の音の水準は高いけど音源は見逃した。本人たちがやっていたとしたらこれは大変だったろう。

 

気になったタイトルの「クハナ」は、映画の中のセリフでは、「9人の華」つまりの9人の小学生の女の子からなるバンド名と説明されていた。

しかし、映画の説明サイトによれば、「クハナ」は桑名の昔のカタカナ表記とあった。原作は読んでいないので知らないが、ハングルだと「クハナ」は「あなた(彼女ら?)の一番」とならなくもないらしい。

 

仕事の都合で女性映画祭の見たかった作品は見られなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 06:57 | comments(0) | - |
奇跡の教室ー受け継ぐ者たちへ

原題は、副題の方の相続者。

貧困地区の多民族的高校の実話だそうで、その時の生徒も一部出演しているそうだ。

ゲゲン先生は歴史と地理と美術史の高校の先生。

冒頭は、スカーフをかぶっているために高校の敷地に入れてもらえない卒業生と教師の言い争いのシーン。教育関係者なら知っているように、フランスには公共の場での宗教的示威の禁止という法律がある。だから学校ではスカーフやブルカなどが禁止だ。政教分離の原則にしたがっているということになっているが、これは圧倒的にイスラム教徒に不利だ。

ともかくやる気のない高校生が集まったクラスを担当するゲゲン先生、厳しく要求もするが生徒を守ったり信じたりもする教師のようだ。調べたことを発表するコンクールに応募することにする。アウシュビッツ絶滅収容所のことを調べることにする。その一環で、そこから生還した数少ない人の話を聞くことにする。これに証言者本人が出演している。その証言に衝撃を受ける生徒たち。それから調べる活動の水準が上がる。

 

この映画は、問題の多い高校生も歴史に学び変わっていくことを描いていると同時に、ナチスの犯罪と悲劇を若者が継承していくプロセスを描いている。

ナチスのような民族差別をなくす課題の継承を考えているわけだが、その取り組みの困難さとともに、受け継ぐことの意味も考えさせる映画となっている。

 

また、生徒を信頼するとは何かも描いている。例えば、フランスの学校評議会の様子が一部描かれていた。この仕組みも興味深い。保護者代表が服装が問題だという。服装では生徒を処分しないと断言する校長、生徒代表の発言、そして担任のゲゲン先生の発言が興味深い。処分するのかしないのかをめぐって、生徒を守る側の発言をしていた。

 

教師を志す人は、この映画も観ておくべきだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

| 映画 | 07:05 | comments(0) | - |
トランボ

1940年代に始まっていたアメリカの一連の反共法。

50年代にはハリウッドに襲いかかる。

ローマの休日やスパルタカス、栄光への脱出などの脚本家のダルトン・トランボは、共産主義者。赤狩りが冷戦下で吹き荒れるとき、議会での証言を拒否して投獄される。

脚本を実名で書けなくなるが、偽名で執筆し、上記の二つの作品はアカデミー賞を受賞する。

米国は一応自由の国となっているが、自由を認めなかった汚点の一つをトランボの実際に起こった出来事で画いた作品。汚点の一つというのは、汚点をたくさん持ち、今も生産し続けているから。

 

この作品は、最初から最後まで飽きさせることなく見せる。共産主義者への迫害を加える側こそが、脱税をしていたり、戦争には行かずに安全な側にいたりしたと批判して見せたり、なんの証拠もなく暴力を振るう姿を描いている。

自由な表現が抑圧される時代となりつつある日本の現実を考える上でも、この夏見逃せない映画だ。


トランボの子どもが、自分も共産主義者かどうかを父に尋ねる。トランボが、持たざる者と食べ物を分け合うか?と判定のための質問をしていくシーンなど脚本家らしい対話となっている。

ローマの休日の真実の口のシーンは、真実の口は塞げないしだませないともとれるなど作品とトランボをつなぐ映像となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 06:51 | comments(0) | - |
ブルックリン

溜まりに溜まっていた原稿が一段落して、久しぶりに出かけた映画らしい映画。

アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞にノミネートされた作品。

 

ストーリーは、単純なのだが、何通りかの隠喩がそこにある。

1950年代のアイルランドに住むエイリシュ(シアーシャ・ローナン)がブルックリンに移住する。しかし、仕事にも暮らしにもなじめずホームシックになる。だが、やがて恋人もできる。そこに姉が突然亡くなり、アイルランドに戻る。

そこには、もう一つの人生があるように見える。ブルックリンに戻るかどうか迷う。

 

映画の中にあった隠喩、対比の一部。

海を渡るということ。1回目と2回目の対比。

アイルランドの商店の売り方とブルックリンのデパートの売り方。

主人公のエイリシュという名前は、アイリッシュ(アイルランド人)からきているだろうが、ブルックリンは多民族的。

ホームに住む者、ホームレスとなるもの。

1950年代の移民が、ホームを捨ててホームを見つけるということとは何か。

人生を選ぶとはホームを捨てること。

身体に染みついたホーム。

しかし、出入国管理所の青い扉の先に行くこと。

 

この映画の始まる前に、予告で秋からの上映作品が流れていた。これが良かった。

語る口と言葉が押さえ込まれた時に、ハリウッドはたたかった。

しかも巧妙に。一つは「トランボ」。ローマの休日の本当の原作者だ。

もう一つは「ニュースの真相」。

そんな時代の一つの行き方がそこにあるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 映画 | 06:58 | comments(0) | - |
すれ違いのダイアリーズ
久方ぶりのタイ映画。
原題は、The Teacher's Diaryというらしい。

チェンマイから6時間の水上生活地区に赴任した新米のソーン先生。彼女に働くようにいわれて就いた非常勤の先生。
学校が再会したとボートで行って回って集まった生徒数は4人。
どう教えていいかもわからない。
棚の上に前任のエーン先生の日記を見つける。

日記には、電気も水道も携帯電話の電波も届かない水上校舎の学校での暮らしや教え方が記されている。
1年前にここで教えていたエーン先生の日常が描かれる。
交互に二人の教師の水上学校での暮らしぶりが描かれていく。

物語はおくとして、タイの地方の学校の様子がわかる。
写真の子どもたちはすべて学年が違う。皆やがて漁師になるという。
月曜から金曜まで教師も子どもここに宿泊するらしい。

また、タイも知識を覚えるための教育が普及している中で、この映画はそれに批判的。
汽車の駅間の距離を問う問題が出ていると、子どもは汽車を見たことがないという。ソーン先生は現実の汽車の代わりにボートで校舎を引っ張ってみせて、問題の意味を教える。
他方には進級試験に合格させる授業がある。

また、当初は押さえつける対応をするソーン先生が、共に暮らしながら子どもを見て応答するようになっていく。

システム化されたPDCAなんてほんとにバカバカしいと思わせてくれる。
教育に希望を抱かせる。















 
| 映画 | 05:53 | comments(0) | - |
スポットライト
実話に基づく映画という見出しから映画は始まりました。
ストーリーは、2002年1月のボストン・グローブ紙にカソリック教会のスキャンダルが掲載されるまでの記者たちの取材過程のドラマです。

神父たちによる子どもへの性的虐待を隠蔽してきた事実を暴いていくわけですが、逆に言うと、誰がそれを隠蔽してきたかが見える作品となっていました。

誰が隠蔽したか、その理由は何であったかを考えることは、今日の日本を考えることにつながるように思いました。

さて誰でしょう、枢機卿、カソリック教会の弁護士、信者たち(警察、裁判所、学校)、そして被害者も声を出せない。地元ということで隠蔽したり、教会ということで隠蔽したり、その心性が所々におりこまれています。
ずっとおしまいに行くと、さらに驚くべき事実が語られます。
取材チームの一員にかつて、この事実に関する資料が送られてきていたにもかかわらず、無視して取り上げていなかったことが明らかになります。ここが重要かもしれません。

ずっと緊張感をもって見続けることができた映画でした。

真実を報道させない国家、しないジャーナリズムが拡大している日本への警鐘として見ることができます。
ただ、映画の中で隠蔽のシステムを告発するというセリフがありましたが、報道記事としてシステムは直接には描かれていなかったのがちょっと残念な気がしました。取材過程のドラマがそれを示しているでしょう、ということなのでしょう。

4月はじめに映画を見て以来のミリオン座。














 
| 映画 | 06:53 | comments(0) | - |
蜜のあわれ
室生犀星の晩年の同名小説の映画化。
二階堂ふみを観る映画か?

私の場合、犀星のイメージは「ふるさとは遠きにありて思うもの」という例の詩でつくられていて、このような作品を残しているのが意外に思える。しかし、生い立ちを考えるとありうるのかもしれない。
(養子に出され、以後実母とは会ったことがなく、養母ともうまくいかなかったという。)

ダンディズムというらしいが、なんだか素朴(普通は素朴といわないのだろうが、素朴に思える)で生活臭がなく、言葉に定義があるようでない世界の会話が続く。

話に幽霊が途中から登場する以外は展開がなく、ストーリー重視の私には少々物足りない。
幻想が続く。
映像を見るとわかるが、時代設定に揺れが見えるように思う。いつなのかわからない。
コーラの看板があったから、1960年代に見えるが(コーラは戦前からなくはないが、戦後米軍対象にはじまり、50年代後半から60年代に一般化した)、登場する作家の名前で考えるとそれより前だ。

いわゆるファンタジックな文芸ものと考えればいいのかもしれないが、なんかちがう。












 
| 映画 | 00:12 | comments(0) | - |
独裁者と小さな孫
この映画は、独裁国家の大統領とその孫が、その権力で町の明かりを点けたり消したりしている場面から始まる。ちょうどその時に反乱が起こり、独裁政権の崩壊が始まり、逃亡することになって、自らの独裁政治と暴力が何をもたらしたかを明るみに出していく物語。

映画の舞台となった国家を明らかにしないが、カダフィやフセインの中東かチャウシェスクの東欧の国家を想起させる。あるいは今の独裁国家・団体あるいはそれを目指す極右政権の国家を確かに想起させる。
逃避行は、独裁が引き起こした悲劇の政治を描く。無実の者の投獄と虐殺、貧困と児童労働、腐敗そして混乱。

独裁者を捕まえたときにどうするかをめぐる議論に、この映画のメッセージがある。独裁体制を打倒する側の虐殺や無秩序をも映し出していくが、それでは独裁者と同じだと主張する。
独裁を打倒する勢力の暴力にも批判のまなざしを向けている。
暴力の連鎖を断ち切る形で民主化を成し遂げなければならないという明示的なメッセージが映画にはある。だから、独裁政権に反旗を翻した新参者の反体制派には「昨日まで体制側に居たではないか」という批判が投げられている。

















 
| 映画 | 06:42 | comments(0) | - |
母と暮らせば
この12月に必見の1本とみなして出かけた。
残る必見は、杉原千畝、独裁者と小さな孫、ホワイト・ゴットだが、そんなには行けない。

公式サイトやPRには、家族を描いたこと、『父と暮らせば』のオマージュだということが書かれていることが多い。また、戦後70年の年に、戦争法が作られたことへの映画による批判でもあるだろう。

そうした作品であることは間違いない。だが、映画のもう少し中に寄って眺めると、私は他に描いたことがあるように思う。井上ひさしに代表される先を逝った者と共にあり続けるという決意なのだろう。死を他者と共にあり続けるものとして描いた作品。
死を別れと描くのはよくある形だが、別れとして描きながら、宗教的観念に乗りながら別れの先に生まれる再会として描いた作品なのかなと受け取った。

亡くなったがゆえに思いだし、思い出す過去はあるのに今とその先がない。
亡霊となった浩二は現れたがゆえに、今があるが、生きているものにしか先がない。
しかし、その先を死によって、先に亡くなった者たちとの共同を実現する。

亡くなった者たちとの共同は、共に同時代と社会を生きた者たちとの二度目の連帯。それが死を迎えるということなのではないか。そんなことを思わせた。















 
| 映画 | 07:18 | comments(0) | - |
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