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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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天使のいる図書館

奈良県広陵町の図書館が舞台の映画。

新人図書館司書の吉井さくらは、「性欲の美的表現が恋愛」と言ったり、なぜかモノ化して人の精神活動を捉える。あるいは機械的包含関係で対象を分析するために、対人関係がうまくいかない。

 

図書館に一人の高齢の女性が昔の写真を持ってやってくる。その場所を探しに一緒に出かけたりするようになる。ところが約束の日に現れなくて、、、という物語。

 

この映画を見ていると、図書館と図書館司書の役割がみえる。レファレンス係は、単に本を探すだけでなく、ブック・トークをしてみたり、所蔵している過去の新聞で調べたりといった役割があることがわかる。結果的に、TSUTAYAなどの利益中心主義の本販売業の運営する図書館とは異なることが浮き上がる。本業で売れ残った本を買い取ったり、都合の悪い本は並べなかったりといったことをしないのが図書館。多様な期待に応える公共性がほんわかと映し出されていた。

 

印象に残ったのは、本等を貯蔵する施設が図書館なわけだが、先輩司書が「本には読んだ人の記憶が残っている」という台詞。多少厳密さに欠けるが、そういう趣旨の台詞であった。「そうだ」と思った。映画と直接的関係はないのだが、知識のため込みと記憶の区分ができるなと思った。

現代社会を知識基盤社会などと言って、知識をモノ化・無意味化しているが、人が知識と向き合うのはそんなこととは全然違う、と思いついた。人はただ知識を蓄積しない。そのときごとの必要や思い出や理解の仕方と共に「記憶」する。無機質な知識としてため込むのではない。ここに知識基盤社会論の欠陥というかモノのとらえ方の偏りを見つけた。

 

小さい劇場だが7割くらい席が埋まっていた。ヒロインは「あさが来た」に主人公の子ども役として登場していた小芝風花さん。登場人物それぞれに人生のエピソードをもう少し重ねた台本になっているとさらによい映画となる。

 

 

 

 

 

 

 


 

| 映画 | 07:33 | comments(0) | - |
ラ・ラ・ランド

公開から二日目に行ったら満席で断念して、平日に。

なんだか観たことのあるダンスやシーンが連続する感じ。写真の踊りの形も別の映画でいつか観た。ミュージカル映画もあれば、普通の映画のシーンも思い浮かんだ。設定は違うが、シーンが同じだ。ストーリーでも反復という基本を何カ所か使っていた。

 

ストーリーは、俳優とジャズピアニストとしての成功を夢見る二人が、挫折しながら出会い、成功はするものの別の道を歩んでいくというもの。ものすごく盛り上がるとか、感動的だとか、新たな発見があるとか、そういうことはない。

そういうことはないけれど、心地よい音楽とシーンが連なっていく。

 

ところでラ・ラ・ランドというのはLA(ロス・アンジェルス)からきている俗語だそうだが、二人(複数)の夢のロスなのでラ・ラ・ランドとなったのか?もしれない。

夢見る側からのロスしか描かれないのも徹底している。夢を描いてやってくるものの、夢にたどり着くことは難しい。運良く夢は得られるかもしれないが、人生は描いたとおりとはならない。そうでなくてもそこに道(人生)はあると軽めに言っている。

 

今日は東日本大震災から6年が過ぎた日。放射能が漏れ続けている現実を直視する視線があるかないかを指標に一日を過ごす。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

| 映画 | 07:28 | comments(0) | - |
アイヒマンを追え

アイヒマンが登場する映画は相当数見たと思うが、フリッツ・バウアーという検事の存在は知らなかった。上映最終日にようやく見ることができた。

 

ナチスの戦犯アドルフ・アイヒマン捕獲作戦の影の実録ドラマだそうだが、ここでも戦犯をそれなりに裁き続けたドイツと日本との違いをこの映画でも読むことができる。

1950年代後半、検事長フリッツ・バウアーのもとに、アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという手紙が届く。連邦政府が動かないことを知る彼は、イスラエル諜報部にこの情報を流す。映画は、その間のドイツ国内にいる元ナチ関係者の妨害をかいくぐり、戦争犯罪と向き合うことこそが未来をつくるという見方を全面に打ち出している。

 

同性愛者という設定が本当かどうかはわからないが、ナチスがこれを犯罪として処刑していった歴史からみれば、検事がそうだという設定は誠に必然のナチ批判となる。また、戦後も同性愛を犯罪とする法律に従って自首し、そのことでアイヒマン確保を実現するという選択を選ぶ人と、アイヒマンのように戦争犯罪を犯罪と見なさず正当化する人間たちの対比がこの映画の核心部分。

 

今、日本の戦争犯罪を主題とした映画が作成されるだろうか。「この世界の片隅に」は被害のまなざしが支配的で視点が異なる。

次に見たい映画が、今週はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 07:15 | comments(0) | - |
未来を花束にして

イギリス映画。邦題はロマンチックだが、内容は全く異なる。

原題は、SUFFRAGETTEで「婦人参政権論者」となる。邦題は、参政権を花束にたとえて、モード・ワッツらに現代が花束を贈られていると述べたかったのであろう。もう少し普遍化して、未来が花束のようになることを願った人々の物語だといいたかったのかもしれない。

 

1912年のイギリスの婦人参政権運動に参加していく7歳で洗濯工場労働者となったモード・ワッツの物語。

洗濯物を届けに行く途中、ショーウインドウに投石する婦人参政権運動の騒動に巻き込まれる所から始まる。最初は、さほど乗り気でなかったが、劣悪な労働条件、家庭の中でも無権利状態の中で、話を聞きに行く。やがて運動の弾圧に揺れながらも屈しない人となっていく。

 

山場は、モード・ワッツが、7歳の時から洗濯工場で働き始め、12歳で正社員となり、24歳となって「別の生き方があったのではないか」と自己のこれまでを語る部分。モードのこれまでを語ることが、参政権がなく声を聞いてもらえないなかで発生していることとつながっていることを示す。

もう一つは、メリル・ストリープ演じるエメリン・パンクハーストの演説。モードの証言と対をなしている。

 

女性に参政権を与えない男たちの理屈が途中で多数語られる。女には判断力がないなどなど。どう考えてもそれらに根拠がないにもかかわらず、暴言・妄言が100年前までまかり通っていた。人は妄言に騙されやすい存在のようだが、妄言はただされてきた。ただすことに多くの人の声があったと気づかせる映画。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 07:45 | comments(0) | - |
天使にショパンの歌声を

カナダ映画。

原題は、「オーギュスティーヌの情熱」。1960年代、修道院付属の小さな寄宿学校は音楽教育を中心に運営されているが、財政難から廃校の危機にある。

この危機に、校長のオーギュスティーヌは社会に存続を訴え、ピアノのコンクールで優勝を勝ち取ろうとする。だが、転校してきたピアノの才能のあるアリスは親不信の問題児。

 

この映画の見所は、演奏される音楽。コンサートホールの響きとは違った教会に響く歌声。

多くの場面でショパン、リスト、バッハ等の曲が演奏される。ショパンの曲は「別れの曲」、姪役の子は本当に演奏している。

もう一つは、財政的に不採算な寄宿学校学校を廃止しようとする総長と校長のオーギュスティーヌのやりとりの場面。経費の削減や総長に従うよう求める総長が「謙虚はないの?!」というと「志を高くと教えている」と互いに聖書の言葉を持ち出して応酬する。

こうしたやりとりは、女子用寄宿学校がこの時代どんな位置にあったかを踏まえないとわからない。

学校卒業後に働くことは期待されておらず、貞淑な妻となることが期待されていた。これに対して音楽の教育を中心に据えることはかなり異例であったのだろう。

この点を踏まえないと、校長の「情熱」の意味が音楽教育にだけ熱心な教育者ということになってしまう。

 

邦題の「天使」は何をさしてつけたんだろう。天使とは寄宿学校の生徒のことという俗っぽい想像でつけたのではなく、財政問題しか見ない教会経営者ではなく、教会にいる天使に歌声が響くようにつまり存続していくようにということか?誰がどういう意図で邦題をつけたかは調べなかったので不明だが、原題よりロマンティックに響かせたかったに違いない。

 

ところで、一貫した主題の元に映画がドラマとして構成されているタイプの映画が私は好みらしいことはわかった。

他方、今ひとつはっきりしなかったのは、「音楽の力」の具体的な中身。全部聴いていたいなと思ったりしたのだが、「音楽の力」「ショパンを理解している」とは何かは未解明。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 06:46 | comments(0) | - |
皆様、ごきげんよう

フランス映画。

この映画は、映画案内を見てから出かけないと、なんだかわからないと思う。

構成・筋立てを何となく知っておく必要があろう。

 

筋立て。場所は、主にパリ。

時間の最初は、フランス革命の貴族の処刑場面。次は、パリじゃないがフランスと関わりのある場所での戦争場面。戦車や兵士の服装から判断すると第二次世界大戦より後で植民地戦争か。

その後に主人公が管理人を務めているパリの今へと時間は飛ぶ。

これらの時間に直接的な関連はない。だが、それらの出来事の上に今につながるものがあると見ているようだ。

 

その後は、パリの強盗団、のぞきが趣味の警察署長、アパート管理人の主人公と頭蓋骨収集をする友人らが紹介されていく。これらの描き方はシニカルなユーモアで構成されている。管理人とその友人は知り合いだが、それ以外の人々とは直接的な関係がない。強盗団のメンバーの姉妹を住人として知っている程度の関わりだ。

街のホームレスが署長らに公園から追い出されることになって阻止に駆けつけるが、うまくはいかない。住人の日常が少しずつだけ描かれて、ほんの少しだけ関わる場面がつなげられていく。主人公とその友人の関係以外は、わずかな関わりとして描かれ続ける。

通りの途中、塀に普段は見えない入り口が現れるシーンがある。その中は「秘密の花園」のような場所で、そこに携帯が鳴ってしまうとそこに居られなくなる。これは何を象徴しているのだろう。それぞれがそういう時間と場所を持っているであろうに、それが浸食されているということか。よくわからない。

 

織り込まれた意味を読み取り逃していると思うが、一人一人にとっては重大かもしれない出来事とほんの少し関わって一人一人は暮らしていることを描いた作品と見てよさそうだ。

ストーリー重視派の私としては、イマイチの映画だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 映画 | 07:31 | comments(0) | - |
弁護人

盧武鉉元大統領が弁護士時代に、転機となったという釜林事件(1981年、全斗煥軍事政権が民主化運動弾圧のためにねつ造した事件)の弁護を担当したことに題材をとった映画。盧武鉉の実像と同じかどうかは知らないが、経歴は似ているらしい。

 

ストーリーは、高卒で弁護士資格を取って、税務専門弁護士として働いていたが、知り合いの息子が全斗煥政権にでっち上げられて逮捕され、その弁護を頼まれたことから無実を証明すべく、政権の不法行為を明らかにしようと奮闘する話し。

主演のソン・ガンホは盧武鉉と同郷の金海出身。

悪役の似合うクァク・ドウォンも出演していた。ファントムでは主人公を張り合いながらも助ける刑事役だったが。

 

軍事独裁政権というのは、事件のでっち上げ、拷問、嫌がらせなど色々やったんだということがよくわかる。裁判でさえもできレース。都合の悪い証人は逮捕していく。「テレビと新聞ほど信用できないものはない」といったセリフがあったが、日本の現実に重なる。また、法廷の場面で鮮明となるが、持ち出される「真の愛国心」ほどその存在が融通無碍に形をかえ、証明不可能なものであることを示していた。そうした内面の問題は結局、独裁者に忠誠を誓い従属した行動をしているかどうかで無法に決められていくものであることが描かれていた。

映画としてよくできていて、今年のベストテンに入れたい。

映画の舞台は、80年代。それは私が新米の大学教員となった頃。その頃の韓国が独裁国家だということくらいは知っていたが、隣の国で起こっていることをほとんど知らなかった。同時代をどれくらい想像して生きているかは大事だなと思った。

 

映画の前半の終わりに、飯屋の店主が「恩は顔と足で返すもの」と言って、昔の無銭飲食代を返しに来た主人公に「いらない」というシーンがある。以後、主人公はこの店に通い続ける。旧い倫理観もないまぜかもしれないが、一面の真実かもしれない。

 

 

 

| 映画 | 00:17 | comments(1) | - |
君の名は

ヒットしてしまったので、商売柄みておくことにした。

 

若い頃に夢見る映画という印象が残った。

人が入れ替わる原型は、憑依だろうか。

映画で印象に残っているのは「転校生」だが、あれは知っている者同士が入れ替わる。「君の名は」は、知らない者同士という点が異なる。また、二人の時間も微妙にずらしている。でも入れ替わり、やがて出会う。

 

しかし、話のつじつまがあわない。たくさんの人が亡くなった新聞記事などがある一方で、助かっていた話しに終盤はなっていた。

 

RADWIMPSの唄があって作品が造られたのかなと思ってしまうほど、ストーリーは唄の一節に忠実であった。前世からのつながりであって欲しいという願望を映像化した感じが、一部の「若い頃に夢見る」ための作品という私の表現になっている。必然だけの世界に出会いは偶然で、その後の時間の積み重ねに必然を見つけられないとき、必然をどこかにみつけたいがそれがないとき「前世」と言ってしまえば考えなくて済む。

そういう思考停止の映画という見方も可能だろう。(隕石の被害を減らそうと協働したと言えなくもないから、思考停止と言ってしまうと言いすぎなのだが、それは夢でもある。)

 

ところで、ずっと前から思っていたのだが、そして他に指摘している人がものすごく沢山いるように、RADWIMPSはどうしてもBUMP OF CHICKENに曲も声もよく似ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 07:58 | comments(0) | - |
この世界の片隅に

とても久しぶりの映画記事。映画館は朝から行列。ほぼ座席が埋まっていたのは、この映画だけ。

 

アニメはすずの子ども時代から始まる。江波から中島町へ舟に乗って、あるいは江波から草津へ海沿いを歩いて出かけるシーンがある。どちらもなじみの地名だが、私の記憶の風景とはかなり異なる。

やがて、呉に嫁ぎ、戦争の直接的な影響を受けて物資がなくなり、空襲にあい、親戚・近所の人々が亡くなっていく。

すずの日記のように映画は続く。

 

この時期、呉で暮らした一人の生活が細密な画像で描かれたアニメ。一人の人にとっては重大な出来事が起こっていくのだが、その多くは淡々と記されていく。

アニメによるドキュメンタリー風再現ドラマという印象が残った。ストーリー性あるいはストーリーの論理の新しさを映画に期待するわたしには今ひとつだったが、この時期についてNHKの朝の連続ドラマ的イメージしかない場合には見ておく価値はあるだろうと思われる。(そう思う理由は、出来事への日常生活的感情の反応は描かれるが、その出来事に関する広がりのある分析が細かな振る舞いに見えなかった所為だと思う。)

 

 

 


 

| 映画 | 07:37 | comments(0) | - |
聲の形

原作の7巻全部をもっているのだが、出だしの巻しか読んでいない。

映画は、少々わかりにくい気がした。

 

冒頭のカレンダーの×印はその後を象徴している。没交渉な人間の顔には×が付いて描かれている。ただ、カレンダーの手書きの×印が定規で引いたような直線であることが気に入らなかった。ここは揺らいだ線であってほしいなと思った。

 

映画は、いじめの話しと、いじめっ子だった将也がいじめられっ子に転落し、人との普通の関係や信じてもいいと思えるようになるお話し。悪くはないが、どこに問題があったのかをもう少しはっきりさせたい。

 

1)小学校6年生の時の将也と二人の男の子との関係は、遊んでいるように見えて典型的ないじめだが、将也がなぜそうしてしまうのかが描かれていない。

2)硝子がクラスから嫌われる原因となった場面がほんの少ししか描かれていない。障害に対する理解のなさであろうが、それが語り合われない点こそが問題なのだが。

3)クラス担任の竹内は、クラスにいじめがあることをなぜ放置したままなのか。突然、学級で将也の追求をし、他の同調していじめていた子たちのいいわけをそのまま認め、将也の責任にして終わりにしてしまうのか。そういう教師もいると思うのだが、なぜそうしてしまう教師なのかを描いてほしかった。(全生研では、こうした一方的な追求は行うべきでないと考える教師が圧倒的に多いのだが、世間では異なるのか?)

4)硝子はいつも「ごめんなさい」といいだすのだが、そういう風に言ってしまう関係とその歴史が描かれていない。これは将也との関係で後半に重要となるのだが、そこは記されるべきではないか。

そんなことを観終わった後に思った。

原作も3種類あるらしいが、映画のリメイク版をつくるために、個々の場面の読み解き考えるにはいい映画だ。

 

今年できたばかりの映画館で、プレミアムシートに座ったのは二度目。

 

テレビも映画も漫画原作が多い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 映画 | 06:51 | comments(0) | - |
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