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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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主張しない防衛機制

レポートを書いてもらったり、報告をしてもらったりすると、学生は講義室に座っている時よりずっとまじめに取り組み前に出てきて話しをする。

 

惜しむらくは、その報告の仕方。

「○○でした」

「△△とも考えられますし、××とも言えます」

と、事実風の文言を並べたり、並記だけする傾向がある。

 

もう一つは、きわめて曖昧な形容詞や形容動詞を結論や理由に挙げることである。

「わかりやすい」「考えやすい」「楽しい」「自由に考えられる」などと言う。

なぜ「わかりやすい」のか、なぜ「自由に考えられる」のか、それがなぜいいのかに関する論及がないことがかなりある。

 

そこで私は、しばしば指摘することになるのが、「事実を並べるだけでなく、だからなんなのかを主張をしてしまいましょう」あるいは、「わかりやすいのはどんな事実と対応しているのか、その論拠はどんなことかを言語化しましょう」と。

 

主張を明示しない理由の一つは、防衛機制が働いているのではないか、そう推測している。特定の自己の見解や主張をして、それを批判されると自己を否定されたと思うのではないか。あるいは、自己の判断ではなく、「正しい答え」を言うことだけを求められ続けた結果であり、自分を表現しない言い回しを強いられ続けた結果ではないかと推測している。だから一方では、正解が単純で決まっている事を覚えればよいのがよいとする見方をしてみたり、他方で曖昧な基準であるにもかかわらず単純に割り切ることができてしまうのではないか。

それらはまた、自分への自信のなさの表現にもなっているように思われる。

 

しかし、学ぶということは、そうではない。自己の判断とその理由を明示し、別の事実や判断に意識的に出会い、理非を確かめ、それらとの距離を自分でつけていくことだ。

長年の慣習を越えていくのは大変なことだが、越える体験をするのは比較的簡単だ。本当かと問い、どの事実と対応しているのかと探せばいいだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:08 | comments(0) | - |
学生だった頃

福島に教育のスタンダード化をメインテーマとする話しをさせてもらいに出かけた。

写真はその会場からの景色。

今年は雪が多い方なのだという。とは言っても、道路は雪で覆われているわけではなく、山も地肌がまだらに見えていた。

 

会場で学生の頃同期だったというお二人がご挨拶に来られた。

専攻が違ってサークルも違ったので、うろ覚えだったが共通に知っている名前が出てくると当時を思い出した。

昨秋には学会が出身大学で開催されたこともあって、見覚えのある道を歩いたが、建物類はほぼ変わってしまって懐かしさのようなものに浸る感覚はあまりなかった。

ただ、人に出会うと当時の自分を思い出す。できなかった事柄や失敗したこと、中心テーマにしていたこと、どれが正しいかをかなり単純に理解していたななどと思い起こした。当時、長い時間を共に過ごした人ほど顔を覚えていると思うのだが、当時の顔であって今の顔ではない。だから、卒業後の人生の途中ですれ違っていない人は顔がほとんどわからないだろうと思う。

 

学生の頃、今はチバニアンと名付けられてにわかに有名になった場所の側を通って山間の地区に出かけることが教養部の学生だった頃の主要な関心事だった。徐々に教育学理論の側に興味はシフトしていったが、今思えば基本文献も読み終えていない有様だった。

 

何が欠けていたのかというと、自分の主要な関心事の世界の起源と現在の世界における位置を考えていなかった。その時の目の前の世界だけを見ていたように思う。今の仕事を続けてきてようやく、その把握が正しいかどうかは検討の余地があるが、世界の中に位置づけようといくらかするようになった。

当時も、社会の中に位置づける議論をしなかったわけではない。しかし、自身とつなげて把握し、かつその現在の位置づけの議論を時間的にも空間的にも相対化して位置づけるようなまなざしを持てていなかった。

 

学生の終わり頃に、位置判定能力こそ最高の能力という趣旨の言葉に出会うが、その意味の理解はまだ表層だった。奥行きは入り込んでしばらく後に理解するものらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 暮らし | 08:00 | comments(0) | - |
若手支援

ここ数年、各学会は若手支援にまじめに乗り出している。

 

若手支援が求められるのは、根底的には少子化がある。各学問領域に優秀な担い手が入ってくるかどうか存亡に係わるとみている。

もう一つは、院生の養成システムの変動がある。かつては徒弟制とまで言われるような講座制がしかれ、その各講座で教授を頂点としたシステムが存在し、そのシステムが研究者を育成するシステムであった。今も部分的に残っているが、大講座制やコース制が導入されて、指導教授はいても複数であったり、単位修得のシステム化がコースごとに設定されるようになっている。研究の初歩を少しずつ教えてくれるシステムのようになっていると言えばいいのだろうか。ちょっとずつは教えてくれるが、特定の分野を専攻して深く、その分野を担っていく研究者になると考えると、それらの単位を履修していくというだけでは足りない、そんな感じが広がっている。

学会も細分化してきているために、所属する大学院に細分化された研究領域を専門とする教授がいない場合もかなりある。すると、所属先に閉じこもっていたのでは研究にならない。

こうして、学会が仕組みとして若手対象の取り組みをはじめている。

かつては研究奨励賞を発行する程度だった。

今は、若手対象企画を学会大会やそれ以外の場面で設定したり、支援金を出すところもある。

昨年、教育学会は若手対象に研究方法論を講義する企画を春に行った。今年も3月17日に予定しているらしい。

どれが有効なのかはまだわからない。

 

このところずっと各学会の投稿論文の査読をしたり、学会大会の司会をしていて有望だなとか期待が持てるなと思う若手の論文や発表を見ていると、二つのポイントがあると思う。

一つは、テーマだ。何よりテーマ設定のおもしろさと問題意識の的確さだ。過去に追求されたテーマだから旧くてダメということは必ずしもない。問題意識・データが更新されていれば有望だ。他方で、単に流行に乗っているだけのものがあって辟易することがある。そうではなくて、臨床的重大さや論理の欠陥をあぶり出すような問題意識となっていると「いいな」と思うものがある。単に、「この部分の研究がない」としか書かれていない研究の多くはつまらないこじんまりとしたもので終わることが多い。

二つは、先行研究の探り方。問題意識がこじんまりしていると、渉猟する研究もこじんまりしたものに終わる傾向があるように思う。堅実すぎてつらまない。

 

こうしたことは、研究方法の手ほどきで生まれてくるのだろうか?

少々違う気がしているのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 08:39 | comments(0) | - |
振り返りの定型

振り返りばやり。

これが嫌い。

なぜか。

 

学校は、昔から反省と決意を日課にしてきた。

入学式から卒業式にいたる行事ごとに反省と決意が語られ記される。

日々も朝の会・終わりの会で目標や反省が語れる。

各授業時間にも目標と振り返りが語られ記される。

これらに部活の目標と反省が加わる子もいる。

 

うんざりするほど振り返って反省している。

 

子どもはその行動様式にあわせて何かを書き、何かを言う。「○○をがんばりたい」と書き「○○はわかった」と書く。

言葉通りに受け取りたい「まじめな私」には、それが言葉通りの意思や判断ではないなと思うことがかなりある。どこかにウソをつかせてしまっているように見える。中には言葉通りと受け取るべき場合もあるが、定式化は定型化が主要なトーンとなる。

 

そうした決意と反省よりも、今、今を学び休み遊ぶことが十全である方がより価値が高いだろう。

自身を突き放して見る位置を獲得することは発達とされるが、従属的位置なのではないか。それが主役の位置に置かれると、本人の人生よりも本人のエスノグラフィーの方が上位となるような転倒が起こる。実践より実践の評価が問題だったり、学習より学習結果の評価が重要だというような転倒と類似している。

 

振り返りはたまにでいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:49 | comments(0) | - |
福島県民教協で講演

年の明けた1月6日〜7日に福島県民教協「2018冬の集会」において話しをさせていただきます。

6日(土)は13時から講演で、その後分科会。7日は分科会です。

 

私の話の内容は、「スタンダード化する教育に立ち向かう」というタイトルからわかるように、『教育』1月号の話しを軸に、『人間と教育』96号の新学習指導要領を検討した論文を加味した感じとなるでしょう。「ALを推進するんだ」という教育政策とその現実態の問題を批判し、そんな形式主義的な動向に対して学ぶということ教えるということを事例を交えて話せたらと考えています。

夏頃に聞いた話では、私は「反AL派」になっているようです。現在の政策的な意味ではそうかもしれません。しかし、普通名詞としてのALについては反対したことがない。むしろ能動的な学習をいかに組織するかをずっと昔から書いてきた。

 

公式案内

日時:2018年1月6日12時30分〜7日11時

主催:福島県民間教育団体協議会、冬の集会実行委員会

後援:福島県教職員組合、福島県立高等学校教職員組合、福島県私立学校教職員組合連合、福島大学教職員組合

場所:飯坂温泉 あづま荘

 

朝早い新幹線に乗り遅れないようにしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 05:55 | comments(0) | - |
虫干し

あまりにも虫に食われていて、もう遅いとも思ったのだが,一日干しておいた。

 

1942年(昭和17年)に発刊された大政翼賛会に居た留岡清男の書いた62頁あまりの本である。20,000部発行とある。

留岡は戦前の教科研のメンバーであったが、本書は各地を訪れた形で皇運を扶翼する教育者の課題を論ずる内容となっている。「国民を、組織のために生き且つ死ぬようやうに、きびしく動員訓練することが足りなかった」ので、企画力、組織力、動員力を訓練することだなどと記してある(47頁)。

 

この本を執筆した当時は法政大学教授、1944年には治安維持法違反で拘束されるが翌春に釈放され、敗戦後は公職追放となり、解除後に北大の教授となる。

この経歴を見ると、よく分からない人だと映る。皇運の扶翼を語っていたかと思えば、治安維持法で拘束される。公職追放され戦後の教科研の中心にいたりもする。

 

人は一貫して生きることなどできない。迷いながら選択し、結果として生き方が矛盾を孕みながら徐々に形成されていくものなのである。だから、この本一点で否定しきることも、これを忘れて評価することも間違いであろう。

 

ホントはどうだったんだろう?

 

虫干し、蒸し返し、虫干し。

 

(ここでも趣旨を露骨に記すと、一つのことで持ち上げたり貶めたりする見方の浅薄を批判することにある。)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 暮らし | 07:07 | comments(0) | - |
捨て時

学生に「失敗をした話しなの?」と確かめると、結論的には「そうだ」という意味で顔を赤くした。誇りがあって青春でいいなと思った。

 

年末なので掃除を兼ねて恒例となった資料整理。

 

会報、各種研究会資料、私信、これらの捨て時がわからない。

会報などは全部揃っていると、活動のまとめを考えたときには必須だと思うが、まとめるだろうか?まとめることにそれほどの価値があるだろうか?まとめるといっても、それは私である必要があるか?別の人がいいだろうなどと考える。

 

例えば、愛知で生活科の検討を2年あまりプロジェクトをつくって検討したことがある。これには参加者が実践を持ち寄ったり、検討資料を作成して研究会を継続的に開催した。その成果は「生活科のすすめ」という報告書になっている。報告書になっているから、主な実践や議論はそこを見ればよい。だが、元の実践はより詳細に紹介され、教材も省略されずにある。そこで悩む。

他に、別の200号に迫る会報などもある。自分がほぼ一人で通信を書いていた少人数向けの会報もある。

この分野の研究を行うかどうかを指標にしようととりあえず思いついたが、機械的にできない。

 

私信類には、少し違った色彩が加わる。例えば、1996年に大分に仕事で行った。その後に仕事とは直接関係ないのだが、そこに呼んでいただいた先輩が病気で亡くなった。闘病生活に係わる私信がある。取り出して眺めるなどと言うことはないのだが、捨てがたい。

研究的な意見を私信の形でいただいたものなどもいくつかある。これらも捨てがたい。

 

単にずぼらで10年以上たまっていると思われる年賀状は、たいていは捨てるんだろう、と思う。

徐々に廃棄の規準をプラスしていることがわかる。来年はさらに何をプラスできるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:43 | comments(0) | - |
雪降り積む外へ

米原駅手前の初冬風景。

昨朝は名古屋も雪がちらついていた。

 

知らない世界に人は投げ出されて誕生する。

「若い院生は孤独」というアンケート結果が話題として持ち出されていたが、既存の世界に投げ出されて誕生するのが人であれば、当然のようにも思われる。

投げ出されることを受苦とし、その世界に違和を抱えながら世界に慣れ親しみ、世界をいくらかつくる(変える)。

受苦的世界に慣れ親しんでばかりいては研究にならない。そこから外へ歩みでなければならない。それを「孤独」と言っていては世界を作れない。

 

大学院に進学することにして知らない世界に入った。

知らない世界は一定の関係の世界を持っていた。だが、さらにその外の研究会にいくつか顔を出した。科学論の研究会や民間研究団体に複数参加した。

その後も知らない人々の世界に顔を出したし、自分で研究会を作りもした。

会費だけ払っているだけのような知り合いの少ない学会の研究会にいくつか参加もしてきた。友達作りのために学会の研究活動や研究会をするわけではないので、「孤独」と応える人の内面の機制が今ひとつ正確につかめていないかもしれないが、研究が評価されないことは大いにありうる。研究の世界とはそうしたものだ。新奇性が打ち出せないとき、データが揃わないときなど評価されないことは多々ある。

受苦的世界を生きるとはそうしたものなのだ。

 

親しい者の間でなごんでいたいの法則(香山リカ)は、研究の世界ではダメなんじゃないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 00:31 | comments(0) | - |
教職コアカリの一覧表の不遜

教員免許の取得の課程を用意してますので認定してくださいという書類の担当分を書き始めた。

勤務先はすでに課程認定を受けているので、今回は免許法の改定に伴う再課程認定申請の書類となる。法改定に伴うものなので全国のほぼすべてのところが書類を作成する。

 

今回の特質は、教職コアカリキュラムと称して、教員免許に必要な科目のかなりの部分に目標と内容の柱の項目が規定され、それとシラバスとの対応関係を示す表を資料として添付することが求められていることである。

例えば「教育の方法と技術」には、基本目標の下に「教育方法の基礎的理論と実践を理解している」とか「学習評価の基礎的な考え方を理解している」などという到達目標が記されている。この科目の場合、合計8つの到達目標がある。15回が講義の回数だとすると、平均2回で一つを終えることになる。複数回にまたがっても1回で終了してもいいことになっている。

 

驚くこと1:

この目標類、文字通りのことを学部生がクリアしていたらすごいことだ。

基礎理論と実践に何を含めるかでひどく異なるが、まさかこの時代に採用試験問題頻出上位ベスト3のキーワードを覚えているなどというのでない限り、まじめに受け取れば到達不可能だろうということになる。そうした類いの目標が並ぶ。そこそこで考えることにならざるを得ない。

 

驚くこと2:

課程認定申請を受け取る側は、理解できるのだろうかと思う。申請する側が記したシラバスの意味を受け取った側が理解できるのかということだ。全くの素人がチェックするとは思わないが、各科目の学問領域の当代の専門家が揃っているとも思えないからだ。その水準にある人がいたとして、各学問領域の様々な動向を熟知しているはずがないからである。

私は、私が担当する「教職入門」「教育の方法と技術」「教育課程論」各学問分野の学会の理事や常任理事を務めているが、様々な研究動向の最先端を知っているわけではない。各学問のあらゆる動向に精通している人などいないだろう。もしいたとしたらそれは研究的には無能であるばかりか、教育者に向かない。あらゆることを知っている人は研究者に向かない。知らないことやわからないことがあるから研究に向かうのである。教育者は決断の連続だが、知っているだけでは選べないからだ。

 

驚くこと3:

文科が無益な仕組みを創設したこと。その中心にいた人を若い頃から知っている。山陰の鉛色の空の下にあれば、と・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:05 | comments(0) | - |
枯れ木と四季桜

1ヶ月前には紅葉した葉をたくさんつけていた。今はすっかり葉も落ち、枯れ木のようになった。

来年のゼミ決め期間だとかで、2年生が研究室に尋ねてくるのだそうだ。何人かの学生の話を聞くと、学校体験が自信を失わせていたり、反面教師的役割を果たすことになっている人もいるらしい。そうでない教師になれたらと言う学生もいた。

明るく笑い、時にのんびりしている姿からは想像できない思いを抱えている。
正門近くの小径には、小さい四季桜が咲いている。
早くに葉を落として先月から咲いていた。生の多様性をそこに見る。
生けるものに注目するのは、死を意識して成立する。単純すぎるとその意識の貧しさに呆れるが、意識形態の豊かさに驚かされることもある。
打ち合わせ時間に少し早かったので、鶴舞の古書店に寄る。一つは定休日だったが、開いていた方には、知り合いの著作が二冊並んでいた。そこそこの値段がついていた。
並んだ本で手にしたものは数冊。旧満州への農業移民のアカデミックな本、それと小沢有作の本。魅力的だったが、その領域に手を出すのか?と自問して棚に戻した。
一度は求められ捨てられた一群の本を眺め、そんな本があったかと迷う時間は、つながりながらもいつもと違う道に入るかもしれないという予感とともにあるのかもしれない。

 


 

| 暮らし | 07:20 | comments(0) | - |
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