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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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論理的思考?

読みかけの本に次の問いがありました。

100%雨を降らせる雨乞いの踊りがあるという。どんな踊りか?
論理的に考えれば、必ず一つの解答に至るといいます。
論理的思考に自信のある方、得意かどうかも考えたことのない方もしばし考えてから以下をお読みください。
育てるべき力として期待されている論理的思考力は、いかに育つのでしょうか?上記のような問題を解いていけば育つのでしょうか?類似のクイズを解いたらいいのでしょうか?
私は違うと思うのです。それは遊びであって、遊びが不要というわけではありませんが、生活を捉え直したり、学問領域を開拓していくような意味での論理的思考力にはつながらないと思うのです。偶然はいつでもあるでしょうが。
さて上記の問いに論理的な解を見つけられたでしょうか?
テキストに寄れば、雨が降るまで踊る、というものです。
なあんだ、と思った人も多いでしょう。言われれば、それはそうだが、何か釈然としないものが残りませんでしたでしょうか。
それは、論理的なだけだからです。すぐ降り出すこともあるでしょうが、踊り続けるなんてできっこないのです。できっこない可能性が高いのですが、論理的にはそれはそうとなる解だからです。
論理は、知っていることに制約を受けるのです。制約を受けない論理は、過剰な一般化や誤適用などの場合に発生します。すると、論理的思考力を育てるとは、筋道を丹念にたどる行き方と、それとは正反対に間違ってみる行き方と二つあることになります。
すると、これが論理的思考力を育てると単純に一つの手法を持ち出すことは誤りとなります。
まだよくわかっていない世界です。
よくわかっていない世界を目標として教える危うさを知っていなければなりません。
| 教育 | 07:49 | comments(0) | - |
社会にこそ道徳問題はあふれている

道徳に教科書がつくられる。

推測では、「お話し」がかなりの量を占めそうだ。

だが、道徳は、人が関与するところ何にでも付いている。

架空の「お話し」より、現実にある出来事、学ぶ人と関わりのある出来事の方がリアリティも切実さも格段にある。

 

例えば、今話題のできごと。

法令の問題は別にあるとしても、「道徳科」の素材、すくなくとも「シティズンシップの教育」の素材に適している可能性がある。

 

防衛省の情報隠しの道徳問題。例えば、以下の道徳が作動していたと考えられる。

南スーダンにPKOとして派遣した政策を擁護するためのやむを得ない行為という見地、法令に抵触するスーダンの事態に対応した処置を厳正に遂行することこそ国家の責任という見地、あるいは派遣された自衛隊員の生命を守る見地など、いくつかの道徳が交錯していると考えられ、議論が可能だ。何を基準に考え判断すべきだったのだろう。

 

あるいは、森友学園問題では、知り合いだと便宜を図るという松井知事の道徳の適否の検討もいいかもしれない。

文科省では、天下り問題で浮上した月に2回勤務で年収1千万の道徳。

針金一本切って5ヶ月間拘束の問題。

社会は道徳問題にあふれている。

道徳は、徳目を唱える中にあるのではない。

現実の人の行動の中にある。その影響がより強い。

 

道徳は、人の行動の判断基準であり、行動の仕方であり、人や物との関係の仕方にある。

しかも面白いことに、自分で選んだものだけが道徳性としてそれぞれの人に残る。強いられた基準、強いられた行動の仕方、強いられた人との関係で判断すると、何をしても不道徳になるという性質がある。

世の中に起こっている出来事と関係者の言動を見るとそのことがよくわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:35 | comments(1) | - |
子ども共通の反応と異なる反応

部屋の資料整理をしていると「日韓歴史教育東京シンポジウム開催要項」が出てきた。

1994年にはじまり、1997年の8月14日、初めての日本開催とある。記憶が薄れているが、神田の明治大学に何となく出かけた記憶がある。その要項の石渡さんの挨拶文に、山本典人さんが韓国の子どもたちにベルリンオリンピックのソンキジュ氏の日の丸抹消報道を教材とした授業を行ったところ、日本のこどもたちと同じ反応をする部分があることに言及している。

なぜ、日の丸をつけて走ったのか、また、なぜ写真から日の丸を抹消したのかについて類似の反応があったという。

 

私は、同じ反応もするし異なる反応もするように思われる。

たしかに、同じ反応がある。それぞれ近代国民国家で暮らしているので、その枠組みが小学生にも作用していて、それぞれの国の人はそれぞれの国旗を国際大会ではつけるものという常識を教えられなくても持っているのが当然なのだろうと思う。たしかに、それぞれの国の子がそう思っている。これは近代国民国家の枠組みで考えるという共通性の一つだが、同時に子どもは自分をそれぞれの国家に帰属させて、その側からなぜか出来事を捉えた見方を開陳する。この側面では異なる反応となる。疑問に思うことなくそれぞれの居住する国家の側から見ていることが多いのである。同じ国家を巡る眼差しにも共通性と違いがある。

これが不思議でこの研究会に機会あるごとに以後参加している。

 

不思議に思わない人に出会うと、不思議に思わないことが不思議で私はひどく驚く。そうなる仕組みはもう解明されているのか!と以前は思ったのだが、近年はそういう人を信じていない。たいてい「当然じゃないか?!」という反応に過ぎないことが多いからだ。

自分を一方の側に躊躇することなく同化できて、そっちの側の眼差しで発言することに違和感を持たないでいられることを不思議に思う。例えば、歴史で言えば、片方の側がいつも正しかったなどということがないなかで不思議に映るのである。もっと別の側面で考えても同じだ。

知り合いの数や親密さ時間など差も大きいのだが、その差を軽々と超えていく人も多い。そんなことを考えると、不思議は続くのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:20 | comments(0) | - |
通じない授業通じる授業

歴史地理教育3月号を読む。

この号の実践記録は粒がそろった感じだ。

私の関心からすればフクシマだが、それを越えて問題提起的なのは浅尾弘子「生徒の本音と向き合う授業をめざす」だ。

転勤した高校で、それまで通用したバナナの授業、子どもの権利条約を易しい言葉に翻訳する授業、外へ出かける授業といった定番が通用しない事態にであう。高校生たちの貧困と隣り合わせの暮らし、つらいことの多かった被教育体験、これらがベテラン教師の定番を通用させない。

 

そこで行ったのが「いじめの授業」。ここでようやく高校生たちが自身の体験を語り始めたという。自身のいじめられ体験からいじめが社会にもあることを語りあう。これですべてうまくいくようになったわけではないとあるが、刺激的な問題提起となっている。

 

この浅尾の指摘は、タイトル通りに「生徒の本音が出てくる授業」づくりをただ報告をしているのではないだろう。

たしかに、高校生のおかれた生活と向き合った授業でなければならないというのが表の主張だろう。

そして、貧困や「学力」の低さといった問題も見ている。

また、学問的正しさを踏まえた内容と教材をそろえれば良いという定型的科学主義を批判しているだけでもないだろう。

それだけではない提起があろう。

 

それは、最近の動向との関連でいえば、活動的で探求的な授業であれば良いというわけではないことを提示しているのだと読めよう。これは、ALが教科内容や生徒の暮らしと乖離していれば何の力にもならないことを実践で証明している。

言い方を変えれば、生活とたいしてつながらなくても学習してしまう生徒の「愚かさ」を批判している。さらに、そんな授業で「うまくいった」などと本を書いている「浮遊の徒」を手厳しく批判していると言えよう。

さらに読み方はあるかもしないと思う。

 

 

 

| 教育 | 07:25 | comments(0) | - |
わかりやすいは普遍じゃない

明治学院で終わりに話したことは、「わかりやすい授業がいいわけじゃない」と断言したこと。

世の中、「活動的でわかりやすい授業は良い!」という考え方が蔓延している。

しかし、わかりにくい事柄をわかりやすくしてしまったら、それは誤りを含むことになる場合がある。

私は、そのことを「批判的アクティブ・ラーニング論」という論文で札埜実践に関わって述べた。

 

札埜実践は、分かりにくい判決文を誰もがわかる文に書き換える課題を法律の専門家と意見交換しながら展開する実践であった。授業の過程で裁判長がその道の専門家の世界に入ってくるように高校生を誘い始める。わかりやすければいいとは言えないという主張に高校生は出会ったのだが、大変重要な世界に高校生は誘われたのだと私は論文で意味づけた。

 

今野真二は、『北原白秋』(岩波新書)において、室生犀星が白秋の詩作を「ちんぶんかんぷん」と述べたのは犀星が新しい言葉にあふれた白秋の作品を読めないことに気づいたからだと見なしている。

犀星のわからないは、右も左もわからないわからなさではない。わからないにもいろいろあるのである。同様に、わかるにも様々なレベルがある。だから、すべてを「わかった」形に落とし込めればいいのではない。

わかりやすいが普遍的によいことではない。

 

ポイントを押さえたわかりやすい授業がよい授業というわけではない。わからなさを残した授業の方が優れている。難しい専門用語を使用しなければわからない世界は、やはり存在している。そこを垣間見せる授業の方が優れていよう。そこに気づく「わからない子」を育てる教育こそより優れていると言える。

私はそう考える。

簡単にわかったつもりにさせる授業が一番危険で問題なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 06:54 | comments(1) | - |
今日の話

今日は、私教連関東ブロックの研究集会にお呼びいただいた。

 

中教審答申と学習指導要領案から何を読むべきかが半分。

残り半分は、学びづくり論。

 

中教審中間まとめから中教審答申、そして学習指導要領案と順番に横文字が減ってきた。

一番最初に減ったのは、コンピテンシー。国研が「資質・能力」と言い換えた。言い換えた時点で欧米的コンピテンシーのニュアンスが変わった。「学びに向かう力・人間性」を3分1として含むことになぜかなった。

 

大流行だったアクティブ・ラーニングの言葉が次に消えた。AL本は売り上げ減少に向かうだろう。

 

次に消えるのはどれだろう。個人的願望で主観的に言えばCMが消えるかな。カリキュラム・マネジメントはもともと不人気だった。理由は私が読むところでは審議途中の把握では何も言わないに等しい、無内容に響いていたと思われる。概説本を読んでも中身のない議論だったからだ。強引に入れ込まれた。CMは強権的トップダウンのソフトなオーソライズだから、一部管理職層にしか広まらないと思われるが、そのオーソライズが一般教員には迷惑となろう。

 

そんな入り口の議論から始めようかと思う。

 

AL批判から学びづくり論へと展開したいと思っている。

学びづくり論の事例は、多数の短時間で何を取り上げるかは難しいところだ。

昨年からの私の定番も解説をまじめにすると、予定より時間がかかる。

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:08 | comments(0) | - |
サークル論1

本日が、西三河サークルを私の研究室で開催する最終日。

この集まりは、最初は富士松駅近くの個人宅で開催していた。1980年代に後半まで続いた。時々、岡崎で開くこともあった。実践の構想づくりが中心で夜の10時頃までやっていた。疲れたが、教師というものが新たな授業を創ろうとする時、どんなことに関心を寄せるかが参考になった。三河的な教育の伝統もそこにあるらしいことを知ったのは数年たってからだった。

 

その後、しばらく休会の時期があったが、20世紀末頃から今度は私の研究室で再開した。最初期の参加メンバーはほとんど入れ替わったが、その後はほぼ毎月一度開催してきた。ネットに接続していることを入会の条件ということにしていた。それ以前は、封書で会員通信を発行していたが、その経費と手間を省いてメールで連絡することにしたからである。

どっちがいいのかはわからないが連絡が手軽になった。

以後、メンバーは変化しながら続いてきた。少ないときに3人という時期もあった。このところは数人から10人ほどで二つぐらいの報告をしてもらってきた。

 

ところで、私は、こうしたサークルのようなものに参加していない人をどこかで信じていないところがあるようだ。著名人の特徴的な実践をつまみ食いしているような実践者や研究者をどこかで信じていない。

著名な教師でも、いつもうまくいっているわけでもないし、すっきりと構想ができたとは言えない時を抱えながら、時につまらないと思えることにこだわっている姿がある。著名でもなんでもない教師が明日どうしようと思ったり、時間がひたすらたつことを願っているだけのような状況を抱えていたり、いろんな出来事がある。その時間の経過を共にする経験を持たない人を信じていないところがあるのだ。

官製的なそれだとだめなのだ。そういう中でも実践を中心においてきた人がいることを知っている。

興味深い取り組みをしていることもあるのだが、どうにも私の問題意識との時間的ずれが生まれるようなのだ。

 

雑誌などの実践記録は、どうしても一部しかそこに記されていない。サークルの場合には前後が見え、聞いてみたいことに即座に応えてもらえる。周辺情報も重要だったり、話し方のトーンだったりが具体的に見える。これは映像記録とも異なるものだ。

 

私はいろんな集まりに参加してきた。それごとに進め方も報告の仕方も違うが、学校的制約のない世界が私の研究上では大きな意味を持ってきた。これらの集まりに集う人のその先の世界につながることもできた。

小出隆司、杉山雅、大西忠治、安井俊夫、加藤公明、ここに名前を挙げきれない人々と出会った。そうした人々から研究へのヒントを沢山いただいた。これらの著名な教師と知り合ったのも小さな集まりがきっかけだった。また、普段の、突然飛躍があるわけでもない集まりで聞こえる一人一人の声が、日常の問いを形成し続けてくれていたように思われる。経験年数など関係なく、「教育の応答がここにあるな」と思われる瞬間に立ち会える時が時々ある。それが大事だったと思われる。

 

その2はいつになるかわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:51 | comments(0) | - |
違いを深く学ぶとは

「アナと雪の女王」を地上波で流したので見させられることになった。録画したらしい。

直後からエンディングが違うので批判が流れた。放送局としては話題になって成功と思っているらしい。

違いは、主題歌や吹き替えにもあることをツイートで知った。公開直後にもう批判があったんだ。

原作と日本語吹き替えの違いは沢山あるらしいが、ポイントは二つ。

一つは主題歌。

原作のサビの部分は以下。

Let it go, let it go. Can’t hold it back anymore.
Let it go, let it go. Turn away and slam the door

これが日本語の歌では、「ありのままの 姿見せるのよ ありのままの 自分になるの」と。

もう気にしないで、振り返らずにいくという方が英語の歌詞の意味に近い。

日本語歌詞がものすごく外れているわけではないが、ともかく先へ行く感じが原語にはあると言うことらしい。

 

もう一つは、ありのままという自己肯定感満載万歳という日本語吹き替えと姉妹愛全面の日本語吹き替えに対して、親の抑圧から閉じこもることになった行き方を受けて、そのまま閉じこもるのではなく解放を謳う英語の台詞という映画の主題のつかみ方にもあるようだ。

 

違いを台詞の違いとして眺めているだけだと、文化性の違いなどとすぐに帰結させて守旧派の見方へと落ち込んでお仕舞いにさせられて上っ面で終わる。

しかし、そこを突っ込んで個別の違いをつきあわせていくと、どちらがどうなのと判断する材料になる。

古い見方で安穏に通過するのが「深い学び」で、上っ面の比較。

それに対して、違いをその基準にしている考え方まで浮かび上がらせるように学ぶのが「真性の深い学び」。

 

その後、「すばらしき哉、人生!」を観た。各種ジェンダー満載の映画でもあるが、ささやかな振る舞いが人の生きている意味とつながっていることに気づかせる映画でもある。意味を問い直しながら見直した。今日は国際女性デーらしい。1904年のニューヨークで女性の参政権デモの日に由来する。まだ113年。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:35 | comments(0) | - |
決めつけ教育と考える教育

昨日の研究会では、多様な価値観に基づく異なる見方が交流する教育とはどんなものかをめぐって、主として、原発教育、フクシマ災害後の教育を念頭に提案が出された。

これについては後日、報告書を作成予定で、参加者には郵送料をもらって配布することにした。

 

次の学習指導要領に関わって、コンピテンシーの形成という方向があるとみるのは、大方の一致だ。だが、その方向に動くだろうか?あるいはどの程度動くだろうか?ここには楽観的観測と否定的観測の二つがある。これが論点の一つ。決めつけの教育がこのところ現実態では目につく。しかし、去年までは表向きは「考える○○」だった。さてどう動く。

 

もう一つは、上記と関連してコンピテンシーの概念だ。中教審は何でも飲み込んでしまった。とりわけ「人間性」と呼ぶ人格的側面を後半に含み混んでいる。

 

実際の授業をどうつくることになるかも大きな問題だ。

価値観の違いを本当に浮上させ、さらに、それぞれの見方を問い合うように授業を構成する方向へ動くだろうか。(それが必要だというこの一文が我々の大まかな研究的一致点といっていいだろう。)

これに関しては、昨日の研究会でも、楽観論と否定的観測とは混じっていたように思われる。

目に見える二つの見解の並列に終わるもの、そこを突破して二つの見解を支える基準を露わにし、その基準の考え方を問いあう実践が広がるだろうか?例えば、ベスト・ミックス論を紹介して終わっていた教研集会の実践報告があったそうだが、その水準は多様な価値観をコンピテンシー形成的な授業ではない。メリット・デメリットの根拠を何ら検討していない。実施は中電の宣伝文と同じだからだ。その先を行く実践もすでに存在しているのだが、それが広く展開されることになるだろうか。問題はそこだ。

 

そんなことを考えながら20時発ののぞみに乗った。

 

今日は、おそらく楽観というよりは期待することにしている派というような立ち位置か?断定はしないで話は聞くのがいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:44 | comments(4) | - |
社会は最善を子どもに手渡す

森友学園の認可を巡って大阪自民党は早期認可の要請を府にしたようだ。

他方、不認可を求めるネット署名も以下のサイトで始まった。

https://t.co/yiNRUMTGw1

 

森友学園が教育勅語を暗記させていることを、一部の議員が教育の方針としてよいと国会で不規則発言をしたようだ。

しかし、今日の民主主義社会では、これを教育方針とすることは認められない。

教育勅語は天皇のために忠誠を尽くすこと、家族国家観にもとづいて子どもが親に孝を尽くすことを基本としていた。その尽くすは一般的に努力することではなく、戦争の際は死ぬことを求めるものであった。これは、個人の尊厳と、人間の平等を原理とする近代民主主義の原理に反し、日本国憲法の規定に反する。反社会的内容となっている。国会でも排除と失効の決議がなされた文書である。

憲法遵守義務のある議員としてはその資格のない発言だ。

 

ところで、本日の私の報告とも関わるのだが、社会が法律等で決定している事柄について、教育はどういう距離をとるかという問題がある。後からやってくる子どもに、決まっているから従えというのか、それとも未来を生きる子どもにどのように託すのかという問題である。

今ある社会を生きるので、子どもは今の社会の仕組みに規定される。空想的な教育を用意することも実施することもできない。しかし、規定されたまましか手渡さないのでは、未来は未定であるにもかかわらず、選択の余地がないというのでは妥当でない。そこで、社会的決定の上に選択可能性に開いて手渡す。そういう方向を考える。そこで問題となるのが、今と選択可能性の中身、そしてその手渡し方だ。この問題について、本日、3.11にかかわって東京学芸大で午後に報告する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:12 | comments(0) | - |
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