CALENDAR
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< April 2018 >>
                                 
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
岩垣 攝,子安 潤,久田 敏彦
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
ARCHIVES
CATEGORIES
                
「的」が拡大させる悪弊ープログラミング教育の手引から

昨日、「小学校プログラミング教育の手引」(第一版)が公表された。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2018/03/30/1403162_01.pdf

ねらいと内容、それに参考例が6つに類別されて紹介されている。

 

小学校学習指導要領には、総則に「情報活用能力(情報モラルを含む。)」を育てることと、「各教科等の特質に応じて,次の学習活動を計画的に実施すること。ア 児童がコンピュータで文字を入力するなどの学習の基盤として必要となる情報手段の基本的な操作を習得するための学習活動 イ 児童がプログラミングを体験しながら,コンピュータに意図した処理を行わせるために必要な論理的思考力を身に付けるための学習活動」

とあるが、プログラミングとは何かというと、いわゆる狭い意味のプログラミング言語だけを指すわけではない。論理的思考力などと言えば、ほとんどの教科の学習に既に内在している。

ア)などはほとんどの学校でいくらかは取り込んでいる。

だから、プログラミング言語を用いた授業を取り立てて実施しなくても、教育課程上問題ということにはならない。この手引もそのように読める文言となっている。

 

だが、事例にはプログラミング言語を用いて正多角形を書かせる事例などが入っている。こうして取り込むと入れなくても良いものが場所をとることになる。カリキュラムを過密にする。

 

過密にするときの一つの手法が「的」による拡張だ。

「プログラミング的思考」とは、「自分が意図する一連の活動を実現するために、どのような動きの組合せが必要であり、一つ一つの動きに対応した記号を、どのように組み合わせたらいいのか、記号の組合せをどのように改善していけば、より意図した活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく力」と説明しているが、定義の文言を見ていると、別の主語に置き換えてもよさそうだ。

しかし、「的」で拡張したにもかかわらず、実施されるのはプログラミング言語の操作に収斂してしまう可能性が高い。

 

「的」は物事を拡張させる機能を本来持っているが、それが負担増をもたらすことが多い危険な用語法なのである。

もう一度言うと、それはしなくても良いということなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:14 | comments(0) | - |
確実に変わること変わらないこと

満開の名城公園の桜。

週末には散り始めて、徐々に日常の公園にもどる。

 

ALに関する研究会があって、全体の反応はALに冷たいコードが多めだったと思う。たしかに、形だけのものや、無内容なテーマによる問題解決学習が氾濫している点では、冷たくていいだろう。

しかし、そう捉えるだけではすまないように事態は進む。

一つは、普通教育の場で、正しいからと詰め込みをしていいわけではない。そもそも詰め込めない。すなわち「分からない」かつ「楽しくない」授業でいいわけがないからだ。

 

二つは、社会的趨勢としてALが一部すすむ問題がある。あくまで一部だが進行する。

ALは高等教育の大衆化が引き金だった。これは避けがたく進行したし、進行する。これへの対応は一部に残る。

一部というのは、大学の階層化も進み、「研究中心」大学は形としてのALにはおつきあい程度だが、そんな部分ではなくて想像力への期待が膨らむ所、地点では思考力・表現力への期待が高い。

他方で、「専門職型」大学は、資格取得をねらいとしたいわゆるパターン化されたALにシフトする。大学の階層化に応じて異なるAL対応が出現する。

これが二つ目の理由だ。

 

三つは、大学入試が一部変わる。先日公表された新しい大学入試のための新テストは、ALと関連づけて論理的力量や情報抽出スキルなどに比重がかることになっている。そのために、入試対応に追われる高校は教育の仕方をそれらに適合させる方向に動く。一部は従来通りの入試対応が通用するだろうが、それでは対応できない入試問題の登場が高校以下の階梯の教育を変える部分がある。

 

以上三つの理由でALが一部は入るだろう。ただし、つまらなさすぎるAL、無内容過ぎるALは今後も登場するだろうが、すぐに淘汰されていくに違いない。

 

だから、普通教育の場の場合、ALに冷たいだけでは乗り越えられない。

専門教育の場は、その専門において先端を走っている場合、ALかどうかは問われない場所もある。対応が必要な場所もある。そのように区分されてしまうだろう。

専門の先端は、誰も理解できなくてもいいし、誰もまねできなくても構わない場所だからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

| 教育 | 06:43 | comments(0) | - |
1行コメントの意味

昨日は、中学校を中心とした教科書検定の結果が公表される日だった。

だいぶ前から27日の夕方が公表の日時と決まっていた。

そこに、佐川証言の日と後から決まった。そこで、教科書関連記事の配分が減ることになったようだ。だが不幸なことに、佐川証言が何ら事実を語らないつまらないものとなったので、紙面を関連記事で埋める意義が減少した。そのために私のコメントが1行ながら復活した。その記事が下の朝日新聞朝刊。

 

https://www.asahi.com/articles/ASL3V3DY9L3VUTIL009.html?iref=comtop_8_07

 

「外から与えられた枠組み」が「子どもの考え方を縛る」ということを説明しておきたい。

教師が数値評価をするのは規定違反となる。それに対して子どもによる自己評価なら問題がないと考えたのだろう。しかし、中学校で取り上げられる徳目項目は22と決まっていて、その徳目はいつもよいもので、教材には議論の余地があるものだとしても、正しい方向や選択すべき方向が暗示されている。その評価の方向と評価尺度が、四件法だろうと五件法だろうと決まっている中で、それを子どもが選択すれば、その選択が自己を縛る。本当は、違うかもしれないのに、「まだまだだめなわたし」のように、特定の行動と結びつけて自己の位置を定めてしまう。しかもそれを客観的であるかのように思い込ませる可能性がある。

自己評価や振り返りが流行だが、危険な行為なのだ。

 

以上のような長いコメントだったわけではないが、そういう趣旨が1行のコメント。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:01 | comments(0) | - |
新テストの結果

大学入学共通テストの導入に向けた試行調査(プレテスト)の結果が昨日公表された。全国1800を越える高校で実施されたプレテストであり、教員対象の感想にもあったが、問題の傾向が特に高校の教育に影響を与えることは確実である。

テスト問題、解答、プレテストの各種結果に関するデータは下記の大学入試センターのサイトから読むことができる。

http://www.dnc.ac.jp/news/20180326-01.html

 

今回の調査は、小論文や文章による解答を求めているため、採点のばらつきをいかになくせるか、機械による読み取りの精度といったテスト問題の内容に直接関わらないレベルもテストされている。

私の関心は、そちらよりは、問題の動向にある。

どの教科も論理関係や情報の抽出を問う形となっている所に特質があると言っていいだろう。

 

例えば、国語では、部活に関する生徒会規約が示され、それに関する生徒会執行部の会話が示され、生徒会新聞に載せるべき部の新設の条件と手続きに関する記事を50字以内に書け、という問題である。

 

日本史では、時代毎の会議の仕方を示す記事が示され、会議の特質を抽出したり、その原理を解答するよう求める問題等が示されている。情報の読み取りに比重がある。

 

事柄の論理関係と情報の抽出に比重があることは明らかである。

正答率にばらつきがかなりあるが、そうした点よりも、問うことがらが上記二点に比重を置くことの是非が問われる。あまりに産業主義的な各科目の位置づけに思われる。各教科の中身に係わる認識が問われていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:27 | comments(0) | - |
ALの誤り

何年か前から文科省筋周辺からAL(アクティブ・ラーニング)のかけ声が広がった。

2012年の大学に関する中教審答申の際の用語集では、「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。」と定義していた。

 

これは要するに内的な能動性と学習活動の形態とを一対一対応させた把握で、誤りだと断言したい。

内的な能動性は、学習形態と一対一対応しない。

グループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワークに活発に取り組んでいるようでさせられていることはしばしばあるといった場合だけではない。

内的能動性は、人の話を聞いている時に生まれることもある。読書の好きな人ならわかるように、文から推測を広げたり、別の本の指摘との比較をしたりきわめて能動的な状態になる。

 

言語的な認識の体系的形成は、ALでは成し遂げられない。

人間的な活動をALと非ALに区分するのではなく、対象を捉える認識活動として不可欠な活動かどうかで考えることが必要だ。その仕分け基準の一つは、オーセンティックかどうか。これが優先されるべきだ。

二つは補助的にだが、分かることを助ける活動というまなざしだ。逆ではない。

 

明日、ALに関わる研究会が開催される。

名古屋歴史科学研究会・愛知県歴史教育者協議会 合同研究会

報告者:風巻浩

テーマ:アクティブ・ラーニングと社会科教育
―文科省的アクティブ・ラーニングに抗って−

日時:3月27日(火) 15時〜
会場:名古屋大学文学部大会議室

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:00 | comments(0) | - |
板倉の自伝

板倉聖宣氏が2月7日になくなられて『たのしい授業』3月号に「伝記風の自伝」という興味深い文章が掲載されている。

生まれた1930年から1993年までが記されている。

タイトルが少し奇妙だが、自分で記すことにことのほか思いがあったのだろう。

 

ところで、来歴やいきさつ、なぜそうしたのかについて、いくらか分かることが各所にある。例えば、「なぜひと誌から撤退したのか」とか、ゴシックになっている所が多数登場するが、小見出しの位置を与えられているようだ。おそらく、各ポイントをさらに詳細に記すつもりがあったのではないかと想像する。

 

板倉の影響を受けた人や著作があげられている。きわめて参考になる記述が沢山ある。会員にとっては常識かもしれないが、外側の人間には貴重だ。以下は、若干の私の所感で深い意味はほぼない。

三浦つとむの本は私も昔読んだことを思い出す。

最初のテキスト「ふりこと振動」はいくつも改訂を重ねられていて、初版が『理科教室』1964年11月号と確認。

会員条件を厳しくしたとあるが、実際に行ったことは、誰でも発表できるで、方針と実際のズレを感じる。

絵画のキミ子方式と仮説の授業方式がそっくりだと認めたとあるが、そっくりだろうか?

1979年に『ひと』誌から撤退した理由について告発調とキミ子方式を推奨しなかったからとある。

科学教育に党派制が入ることを減らすために、「イメージ検証授業」を提唱とある。この辺りも議論のあるところだろう。
他方で、昭和天皇崩御に際して、言論の自由を主張した。「科学の枠を越えて政治性に走ることを戒める」とある。ここもどのように見るか関連で重要な一つの見地だ。
限定しながら拡大していると読めることもいくつかある。
4月号も必読。
| 教育 | 09:30 | comments(0) | - |
探究系科目の研究会から

お茶の水女子大の昨日の桜。

木蓮はもうほとんど散っていた。

 

カリキュラム学会主催の「高校における探求系科目の導入と課題」に関する研究会が開催され、私がそのコーディネーターの一人で司会を務めた。

その議論の中から記憶に残しておきたいことをメモしておく。

 

前提を述べておく。既にSSHやSGHでは、探究的な取り組みが行われている。また総合学習の中で、課題を設定してそれを探求する実践はかなり以前からある。今回それらの取り組みをしている3人の高校の先生に報告をお願いし、歴史総合の学術会議での検討メンバーのお一人であった社会科教育の坂井氏に報告をお願いした。

新学習指導要領は3月末に告示となる予定だが、その教科・科目に「探究」がついたものが設置される。また各科目の中に「探究」を内容として記したり、取り扱い方の欄に授業の方法として規定したもの多数存在している。これらをどう見るかという問題が存在している。

 

お茶の水女子大付属高の玉谷氏の報告から。SGHの指定校である。諏訪のフォールド・ワークで探究の技法を学ぶことに始まり、持続可能な社会の探究を生命と環境などのいくつかの問題群から選択して探究する。外部講師を呼んだり、企業や大学など取り組みの先端を訪問する。こうした探究を英字新聞にして表現する。

課題として残っているのは、探究のスキルをどう教えるのか?(最初に教えるか、それとも試行錯誤か?)、印象に残ったのは生徒の過活動。一つの探究課題に生徒がかける時間50時間を越えることがあって、のめり込み過ぎとなる問題があるということであった。これは、名大付属高校の石川氏も同様のことを指摘していた。

 

名大付属中高はSSHとSGHの両方の指定校となっている。大枠のテーマを設定し、その下で生徒が探究テーマを設定していく。新奇性をどの程度求めるのか、安全性、生徒の設定したテーマに教員がどうするとアドバイスできるかという問題があるという。大学があるので相談はできるとしても、なお日常的には困難があるという。また、ここでも実験などの経費の確保は、指定を受けていないとむつかしい。

 

和光高校は、「農と地域」というテーマに取り組んだ実践を中心に報告された。農業にほとんど何の関心もない高校生たちが、地域を歩くことに始まり、農園に出向きインタビューと農作業体験をし、農業の課題を出し合っていく。さらに仙台で農作業をしつつ農業の課題に直面し日本の農政の課題に向き合っていく。徐々に深刻な課題に向き合っていく過程が報告された。このプロセスが興味深い。

 

坂井報告は、設定された歴史総合について、詰め込みの歴史教育という全体状況に対して、アンチという側面をもっていること、日本史必修という自民党系右派の動向に対して、日本史・アジア史・世界史の融合もしくは総合という対抗という側面をもっていることを指摘した。そういう側面を持っているのは、設定の経緯からすると間違いないと思われる。ただ、できあがったものは、近代化・大衆化・グローバル化という歴史把握でまなざしに偏りがある点、探究学習という方法の統制を行っている点をどう見るか。この辺りは論争的話題提供であった。

 

高校は多くの科目に探究がキーワードとして位置付いてくる。これらをどうカリキュラム構成として具体化するか、入試動向とかかわってなお検討が重ねられる必要がある。

 

実験や外に時に海外に出て行くので、かなりの経費がかかる。探究のためには専門家や機関の協力が必要だが、その条件がないとむつかしい。教員の負担もかなりなものであることが報告と報告後に聞いた質問で明らかとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 08:13 | comments(1) | - |
踊らされ踊る

もう20年近く前だと思う。

ダンスを踊るように学ぶという言い回しに出会ったことがある。3から4冊の洋書と和書に論及されていた。すぐに引っ張り出せないが、二人で踊る社交ダンスを想像してもらうと良い。

外形上、男の人がリードするなどと言う説もあるようだが、そうではなくて相互に相手の形に応じて動くものという意味で、対象の形に応じた共同的行為というニュアンスだったと記憶する。

おどりを踊るように学ぶとは、踊らされるのではなく、自動詞の「踊る」なのである。しかし、勝手に踊るわけではない。相手とともに対象に応じてである。当時、魅力的な言い回しだと思った。

 

しかし、今、別な印象がそこに重なる。

ともに踊る相手は、何だろう。学ぶ対象そのものか。それとも教える人か。そう考えたとき、どちらで考えるかで大きく異なる気がした。するとかつての古い枠組みに戻ってしまいそうだ。

 

学び手は踊らされやすい存在だ。

ほんの少しでも先を照らされると、それがホントに良いかどうか疑問があっても、先の照らし方が不適切でも、その枠組みに乗ってしまい易い存在なのだ。そう考えると、ダンスを踊るように学ぶことが確かに存在するのだが、そこからほんの少しのことで外れてしまうことも起こるものなのではないか。そういう危うさからはちっとも免れていない。そんな気がした。

 

ダンスの相手を見る「私」はナイーブで、踊っているつもりが踊らされていることもあり得るというまなざしも必要だ。教師の声を聴いている学生をみて思い起こした。元の論への言いがかりである恐れはあるが、おしまいのこの結論は変わらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:28 | comments(0) | - |
探究科目の導入と各科目の探究化

再掲ですが、これに続く文は見方の違いを含んでいて興味深いと思うのですがどうでしょう。

「探求」の言葉がついた科目が設置されますが、なぜ社会系科目と理数だけなのかということが一つ。

科目は一部ですが、ほぼすべての教科に「探求」に関する記述が織り込まれました。その規定が意味するのは、教育方法の全般的統制強化なのか、それとも例示なのか。学習指導要領の拘束性と例示の関係をどう見るのか。例示だとしてもなぜ探求学習ばかりなのか。

実は、その捉え方をめぐって意見交換をしたりしておりました。

さてどう捉え、本当はどう考えていくべきなのでしょう。

参加をお待ちいたしております。

 

http://jscs.b.la9.jp/meeting/document/29/kenkyu_09-final.pdf

上記のアドレスにもありますが、以下がその内容です。

 

カリキュラム学会の研究集会のお知らせ


テーマ:高校における探究科目の導入と課題
趣旨:2018 年3月に高校学習指導要領の答申が発表され「考え判断する教育」への転換の一環として、「理数探究」「日本史探究」「世界史探究」「総合的な探究の時間」など、探究をキーワードとした科目が導入される。それらの科目をカリキュラムにどう位置づけるのか、各探究科目の内容や指導方法、生徒に意味ある探究学習は何かなど、課題が山積している。導入に向けての課題を整 理し、探究科目に関する考え方や、実施している高校での実践内容・工夫・課題を聞きながら、カリキュラム創造の方向を考え合うことを目的に研究会を開催する。

 

日時: 2018年3月18日(日)14時〜17時(受付 13時30分〜)

場所: お茶の水女子大学 共通講義棟1号館301室

 

報告者:
石川 久美氏(名古屋大学教育学部附属中・高等学校)
「SSH 課題研究を通して他者と協同して探究し続ける生徒を育てる」
坂井 俊樹氏(開智国際大学教育学部) 「『歴史総合』の検討を中心にして(仮)」
玉谷 直子氏(お茶の水女子大学附属高校) 「SGH における探究活動」
林 尚子氏(和光学園高校) 「選択科目『農と地域』における生徒の探究と体験(仮)」
趣旨説明:高橋 亜希子 (南山大学)
司会:子安 潤 (中部大学)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:25 | comments(0) | - |
寒緋桜の意味は春

寒緋桜が咲き出した。

確実に春に移行したと言えそうだ。

 

昨日取り上げた本の内容は、ネット上に新井の講演記録などで概要程度には読むことができる。RSTの例題は一部を除いて公表をしないことにしているそうなので、例外の問題だけが何カ所にも登場する。

 

例外の問題

次の報告から確実に正しいと言えることには○を、そうではないものには×を左側の空欄に記入してください。

公園に子どもたちが集まっています。男の子も女の子もいます。よく観察すると、帽子をかぶっていない子どもは、みんな女の子です。そして、スニーカーを履いている男の子は一人もいません。

(1)男の子はみんな帽子をかぶっている。

(2)帽子をかぶっている女の子はいない。

(3)帽子をかぶっていて、しかもスニーカーを履いている子どもは、一人もいない。

 

この問題は、むつかしいでしょ?!

(1)は比較的簡単ですが、(2)(3)はさてどうかな?と分類するときに、考えるでしょ!

女の子には帽子をかぶっている子もかぶっていない子もいるかもしれないなどと考えないといけないわけだからむつかしい問題と言える。スニーカーについても同様に考え、それらを組み合わせないといけない設問がある。

被検者の正答率は64.5%でしたとあるけれど、高い正答率だと私は思う。

 

MARCHの人は、新井の本を感じ悪いと思ったにちがいない。

ただ、対策を書いてないのがこの本のいいところ。

でも論理に拘った授業が確実に広まると考えられる。
なお、ディープ・ラーニングの意味が、教育世界は形容詞の意味で広がっているが、AIの世界で使われている意味は違う。包括的概念などのデータで深さはない。

 

 

 

 


 

| 教育 | 08:18 | comments(0) | - |
<< | 2/132PAGES | >>