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教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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教育勅語教育と利用の区別

安倍落日内閣は、教育勅語教育の容認と受け取れる答弁書を作成したり、国会答弁・発言をしている。

今年4月7日衆議院第5回内閣委員会で義家文科副大臣の答弁で、朝礼における唱和も問題ないと受け取れる趣旨の発言を行っているなど、無知が混乱を呼ぶ危険があると指摘されてきている。

その後、文科省は、「教育勅語を教育の唯一の根本とするような指導は禁じられているが、日本国憲法や教育基本法等に反しない限り、学校教育において教育勅語を使用することに問題ない」と言うのだが、これは「唯一の根本とする指導」でなければ許されると解される可能性のある答弁書となっている。

 

「唯一の根本とする指導」の事例として確定しているのは、昭和58年5月11日の参議院の議事録にあるが、松江日大高校が教育勅語の朗読を学校行事の際に20年あまり続けてきた件である。これに対して、教育勅語を使用しないように文部省は勧告を出している。(現在、この高校は、経営が変わっていて、法人としては存在しない。)

この見地を堅持する必要がある。

 

だが、一部に誤解を積極的に行おうとする動きがあるようだ。

 

教育勅語を反民主主義的な歴史的文書資料として取り扱うことは、従来から取りあげられてきた。

私も、家父長制や天皇への忠誠を誓わせられる死の教育が行われていた証拠の一つとして取りあげてきた。この場合には問題がない。

 

だが、松江日大高校や最近では森友学園塚本幼稚園が朗唱させていたことが知れ渡ったが、それらの学校に留まらず、教育勅語教育を行っている学校があると聞く。教育勅語を教育の方針として取り込んでいるのである。これを合法化させる答弁書として利用しようという把握があるようである。

しかしながら、教育勅語の失効が決議されており、日本国憲法に違反する内容として法的にも確認されたものを復活させることは許されない。

 

この点で「唯一」でなければいいかのように読める点で、一部の学校の時代錯誤を容認する答弁書と言わざるを得ない。一部であれ、別の教育方針を持っていさえすれば合法であるかのような文書を発出したことになるからである。その意味で答弁書等は撤回される必要がある。したがってまた、教育勅語の資料としての利用と教育勅語の理念に基づく教育は断絶して捉える必要がある。

 

また、文科省や内閣の答弁書で、教材の取り扱い方の細部にまで指示を出す対応ともとれる言い回しが存在するが、それは越権行為というべきでもある。違法な取り扱いを規制することと、教育実践の統制が混同されている。

教育実践の一挙手一投足を拘束させようとする取り組みが多角的に展開されてきているが、それらと軌を一にするものという点でも問題が大きい。

 

その意味でも、今学校に必要なものは、なにより民主主義だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 07:10 | comments(1) | - |
教員スタンダードの設定状況

先日、教育委員会への調査データがあることを知らないという方がおられたので、こちらにも備忘録としてアップ。

 

文科省の下にある独立行政法人「教職員支援機構」が教員育成指標に関わる調査の結果を公表しています。

この機構責任者は件の高岡さんであったような気がします。

 

以下のアドレスにあります。

その調査結果のサイトの終わりの方に、各自治体へのリンクが貼ってあり、各地のスタンダードを見ることができます。

みな同じではなく、よいとは言えない所から知恵を働かせている(融通無碍と言うべきか)ところまであります。

http://www.nits.go.jp/research/result/001/001.html

 

機構としての分析を見るなら下記。

http://www.nits.go.jp/materials/text/files/index20170421_001.pdf

 

この問題については秋に刊行される予定の教師教育学会の紀要に執筆しましたので、刊行されましたらまたご案内いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:10 | comments(0) | - |
教師へのインタビュー

学生に自分の知っている先生にインタビューしてくることを課題にした。

会って話しを聞くことを基本にしつつも、相互に都合もあるので電話やネットを利用してもよいこととした。会いに行けない下宿生等には数人のベテラン教師も確保しておいた。

全員が何とか聞きに行ったようだ。

 

比較的教師経験の少ない人から40年以上の大ベテランまで、教師として力を入れてきたこと、そのために必要だったこと、それで分かったことを中心に聞いてきてもらった。

 

全体としては経験年数のある人へのインタビューの方が具体的事例を話してもらえている。若い教師の方が抽象的な傾向がある。

学力こそ重要という人よりは、人間として育つことが重要という人が多い。

「人間として」という中身は、部活系教師の場合、礼儀を中心にしているらしい雰囲気が伝わってくる。

子どもとの信頼関係が重要という人が多いが、そのために何をするかというと、一番はわかりやすい授業あるいは楽しい授業だという人が多い。

 

教師の話しをどれほど学生が相対化できているかというとわからないが、インタビューして短くだがそれを報告するという作業がいくらか客観化する時間とまなざしを作る気がする。

 

学生が聞きに行くぐらいだから、それなりのよい関係がある人が選ばれているのだろうが、どんな教師をめざすかを学生が考える契機になったと思われる。

 

忙しい時間を割いてくれた方々に深謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:27 | comments(0) | - |
帯取りの意味するもの

教育関係者以外には、「帯取り」の意味が不明だろう。

これは、2008年の学習指導要領の改訂の際に、広まった授業時間の確保策である。

小学校の授業時間が増加となって、時間割表に45分間の1時間分を確保することがむつかしくなった。そこで編み出されたのが15分の朝の時間を週に3回授業とすることで1時間分とカウントすることにするやり方のことである。

これは当初一部で始まったが、正規の授業時間割に組み込んで行く方へ回帰しはじめた。というのは、授業としては短すぎて特定のやり方しかできず、単元の進行上不都合なことが多かったからである。

 

その「帯取り」を今回また小学校英語で1時間分実施しなさいと言っている。今回の「帯取り」の奨めからみえるものがある。

 

すでに、帯取りを実施している所は、不可能だ。

朝の時間は、暇な自由時間ではなかった。出欠や健康観察だけでなく、諸連絡や子どもたちが打ち合わせをする時間でもある。これらができない。時間が短いと言うことは、特定の授業進行しかできない。その意味で授業らしい授業を不可能にする。

こうした不可能性以外に、帯取りが意味するものがある。

 

一つは、帯取りを小学校英語で行えと言っているということから分かる。小学校英語の軽視だ。他の教科を帯び取りに回せば、同様にその教科の軽視ということができる。

二つは、教師の過酷労働の一層の深刻化だ。小学校教師は授業時間の持ち時間が多い。そこにさらに一時間増だ。2008年の学習指導要領の時から教師の労働時間は増えて深刻の度合いは増した。これをさらに増加させる方策だ。

三つは、カリキュラム・マネジメントの欺瞞だ。不可能な時間割を押しつけておいて、実施できるようにカリキュラム・マネジメントすることを求めるやり方だからである。ブラック企業が、達成できない仕事を押しつけてくるやり方と同じだ。これを是正する仕組みとならないカリキュラム・マネジメントは信じるに値しない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:47 | comments(0) | - |
千畝の事績と平等主義

杉原千畝の事績が小学校道徳の教科書に取りあげられている。

たいていは、「よりよく生きる」という徳目に引っかけた出来事という位置づけだ。

文章は教科書会社によって異なる。

 

杉原がビザを発給したのは、1940年の7月の中旬から8月30日までのこと。

9月5日には、杉原らはリトアニアを出国している。9月27日の日独伊三国軍事同盟の締結される直前であった。

日本政府は杉原の問い合わせに発給を認めなかったが、発給を続けた事績を取りあげているわけだ。

 

これに係わって、藤田昌士氏発のメールで知ったのだが、日本会議は人種平等を大日本帝国の国是としていたという把握があるということ。

「日本会議の機関誌 『日本の息吹』平成 20 年 11 月号所収の三好達(日本会議会長、。当時)、橋本昌(茨城県 知事、当時)、横山亮次(日本会議茨城会長、当時)3氏による特別鼎談「高校にも道徳を!」にも、三好氏による次のような発言がある。 「(茨城県教育委員会『ともに歩む』にー藤田注)人種差別撤廃に取り組んだキング牧師 のスピーチが入っていました。結構だと思うのですが、人種差別撤廃問題を取り上げるな ら、人種平等を主張した先駆者は日本であること、第一次大戦後のパリ講和会議で、日本 の代表が国際連盟の盟約に人種平等の原則を入れることを提案したのに、米国のウイルソ ン大統領の反対で潰されたことも、教えて頂きたいと思いました。」(11 ~ 12 ページ)」

そういえば、八紘一宇をもって平等主義の先駆けなどという人もいたことを思い出した。

 

だが、これはインチキだ。

平等主義などではなかった、日本が最上位に立つことが予定されていた。

現実の行動としても、アジア諸国を侵略し、暴力と差別の限りを尽くした。

 

杉原の事績を、当時の差別の限りを尽くした政策の中にあって、かろうじて平等の精神からの事績に位置づけようと日本会議系の人が考えても不思議でない。

しかし、杉原千畝の行動をそこに回収するのは間違いだろう。

日本会議所属の国会議員は先日の二階発言にもあるように差別主義的発言を繰り返しているのだが、日本こそ平等主義的と語る精神構造が理解を超える。

 

ともかく史実を踏まえて捉えることが必要な事例だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:31 | comments(0) | - |
習熟度別クラス編成は「いや」

私の実感だが、「習熟度別クラス編成はいや!」が増えた。

授業のつくり方・考え方に賛成か反対かを○△×を学生につけてもらった。

授業のつくり方・考え方には授業観だけでなく人間の見方が表れる。効能ばかりでそのつくり方を見てはいけないのだということへの気づきを期待した。

 

一番嫌われたのは、習熟度別授業。

支持が集まったのは、思考力を育てるように授業を作ろうとするもの。

賛否が分かれたのが、ドリル中心の授業。

それと最新の研究成果を取り入れた授業。

 

中学・高校時代の経験が特に反映しているようで、以前よりも習熟度別クラス編成やプリントが変えられるのがイヤという声が大きかった。そう思う。「効率的なんじゃないか」というイデオロギーを吹き込まれているのだが、イヤだったことを記してあったものが多い。

 

ドリル中心は、ホントにつまらなかったらしく、賛否どちらの側であったとしてもこれまたイヤそうな顔では共通していた。しかし、入試やテストにはどうしても必要かな、という効能の側を見る学生は賛成する者も半分いた。

 

「最新の成果を取り入れる」が支持されなかったのは、それが大変だからというのが一番だったのは意外だった。そういうのを取り入れる人の授業が細かすぎてつまらなくなるという理由の方が多いかと思っていたのだが、それは二番目の理由だった。これは発見。そういう教師が減っているのかもしれない。特定の研究分野に力を入れる教師を沢山知っているけれど、大変さよりそれを楽しみにしている人が多いので、この辺は体験していない学生には想像できないのかもしれない。

 

授業の構成の仕方には、授業観や人間観が入り込む。

それぞれ宣伝されている効能のうち、本当はどうか証明されていないものも多い。

その一つが習熟度別クラス編成。それがよい結果をもたらしているというデータをまだ見ていない。

思考力を育てるという授業も、その暗記ややり方だけの授業が弊害を生み出しているというデータは沢山見た。だから、「このやり方はダメ」という方は分かるが、「これでうまくいく」という方はまだ少ない。

だから、これで完璧みたいなタイトルの本を見かけると、そういう本を出している人をそれだけで信頼できない人の側にいれることがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:47 | comments(0) | - |
「夏の楽しみ」の不整合

光村図書の国語の小学校3年生に「夏の楽しみ」と題された2頁がある。

七夕の歌、祭り、夏の行事や風習の挿絵が並ぶ。

正岡子規の俳句なども添えられている。

 

だが、どうも変なのだ。

夏の楽しみの夏とはいつか?現在の暦で夏と言えば、6月から8月、気温を考えれば9月も入れたいくらいの日々もある。

だが、添えられている俳句の七夕は、季語としては秋だ。天の川も夏じゃなくて秋の季語だ。

だから、7月の上旬に七夕を行うところは夏だが、俳句では秋となって不一致。旧暦で8月に行うところは季語と一致して秋となる。すると、単元名の夏の楽しみは夏か?秋か?ということになる。

 

また、挿絵では、二昔ほど前の家の縁側に七夕飾りに「星映し」がある。しかし、名古屋に住んでいる所為ばかりでなく、農村地域でも個人の家で七夕飾りを見ることはほとんどなくなった。七夕飾りをするのは学校と行政、商店やイベント会場ばかりだ。まして、「星映し」など見たことがない。

見たことがない風習は風習か?

 

七夕の起源は中国の南北朝より前にさかのぼるらしい。季節も起源の地と日本ではズレるだろうから、風習と季節感が一致しないのだろう。

 

この教材、日本の伝統とか風習をイメージさせたいらしいが、現実とあわず、幻想もしくは錯覚、もしくは前の時代の日本の風習だ。こんな幻想に浸っていていいのだろうか、と思った。

 

 

 

 

 

| 教育 | 00:12 | comments(0) | - |
道徳教科書のランキング

展示されていた8社の道徳教科書をランキングしてみた。写真の左が下位で右に行くにしたがって上位。

 

1位:日本文教出版

2位〜3位:光文書院、学研

4位〜6位:東京書籍、光村図書、学校図書

7位:廣済堂あかつき

8位:教育出版

 

1位は、低学年の部分も挨拶や決まりを守るばかりを強調しておらず、視野が相対的に広く社会の中で考える教材がいくらか多い。考えるとは何かにも論及がある。お話しの着地がどれもいいというわけではないが、視野の広い教師なら話しを広げられる。

2位3位は、日文教に次ぐ感じ。

4位から6位は、1から3位ほどでもなく、7位8位ほどひどいラインアップではないが、良さがないという感じ。

7位は、決まりを守る系が多く、日本国内的視野が目立つ。また、義務を果たしてはじめて権利が付いてくるなどと5年の所に書いてある。人権論として誤った把握をしている。検定意見がつかない方がおかしいと思った。前近代的把握が目立つ。

8位は、さらにひどい。約束を守って、家族を大切にしてなど、古い道徳観が中心で、国旗国歌が2年で取り上げられ、心の狭い国家主義的要素が強い資料が並ぶ。真性の「考える道徳」で批判意見を出しやすいという点ではこれが一番簡単。

 

以上4時間余り考えた結果。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 00:25 | comments(0) | - |
教師のライフステージ

締め切りがやってきた原稿のために、データを眺め続けた。

 

そこで見つけた共通の問題点の一つ。

教師の退職までのライフステージが単色なこと。

新任の時期の理想の教師、若手時代、中堅時代、ベテラン期と区分の仕方は微妙に異なるものがあったが、どれもこれもそれぞれの理想の教師像がほとんど同じだ。

もっといろんな教師がいていいだろう。

 

若手は、従順で、努力する教師。

中堅とベテランは、企画力と若手に助言と指導ができる教師。

 

岐阜出身の教師は、若手時代(1960年代)に学校で子どもと焼き鳥を作って食べたという。四国出身の教師は、親の帰りが遅く宿直室にやってくる子どもたちを風呂に入れ、ご飯を食べさせていた。どちらも管理職の言うことより、子どもの側を見ていた。

それぞれの時代と地域の子どもの暮らしを見つめる教師の方が指標をクリアしていく教師よりずっといい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:11 | comments(0) | - |
捉え直しの時間に

昨日は、慶応三田校舎で方法学会主催の「特別の教科道徳」に関する研究集会。

写真は、三田演説館。

 

報告は、松下良平さんの道徳構想の提案と、塩崎義明さんのリオ・オリンピックのエピソードを素材とした実践報告。

 

いままでの「道徳の時間」であれ「特別の教科道徳」であれ、お話しを巡って徳目を解説するか話し合うパターンが支配的という点では変わらない状況がある。新学習指導要領では「考える道徳」のスローガンが打ち出されているが、多くの実践は枠づけられた、かなり問題のある徳目理解にもとづく「考える道徳」となっている。それが、かぼちゃのつるや手品師の普通の授業展開に表れている。

 

これに対して、松下報告は、主権者の基礎を養うことを道徳の目的と位置づけ、分断と排除の社会に抗する道徳を内容的に対置する。

その一部として「道徳科」を位置づける。その際、道徳が分断と排除されている側にたって効力を発揮するときは利点となるが、逆に作用すると毒となると捉える。そこで、その内容をリベラリズム道徳、共同体道徳、ケアの倫理の三つに区分した上で、多面的・多角的に検討する時間にすることを提案していた。

徳目の固定的把握に対して積極的意味を持つと受け止めた。また、内容把握に対して現代的課題が全面に登場してくるという意味でも重要だなとみた。

 

ただ、それは、いかに子どもたちにとって判断の指針となっていくのか、自らの道徳として形成していくことになるのか、この点では年間35時間をともかく使おうということだろうが、ごくごく一部の取り組みであると共に、メインの活動の場ではないのではないかと思う。

 

塩崎さんの報告は、オリンピックを「国威発揚、国際的存在感、経済効果、都市開発、スポーツ文化の定着」として把握するNHKのニュース番組に対する疑問から、オリンピック憲章との齟齬を入り口に、50キロ競歩における新井選手とダンフィー選手が接触したかどうかを巡る出来事をとりあげて、オリンピックを国威発揚に利用しようとする発想が個々人の「スポーツをする理由」をゆがめていく問題を取り上げた報告であった。

塩崎実践は、松下さんのいう分断と排除の社会に抗する取り組みの一つとみることもできると評することもできる。社会の支配的な見方に対して捉え直しを迫るものとなっていたといえよう。

席上話題となったのは、どう捉えるかを考える問題提起のありようについて。焦点を絞らずに議論はできないし、テーマがなんだかわからなくなるような実践はできないだろうが、子どもたちの考える範囲の広がりをどう保障するかについて何人かの意見が寄せられた。ここは課題なのかもしれないが、だれのどんな考え方が暴力となっているのかという視点が、先行世代の責任の問題ともかかわっていると私はみる。よって、ただ、オープンにという議論には賛同しない。

 

道徳もしくは道徳性はいかに形成されるのか?この問いは残されたままだが、年間35時間以外の世界を視野に検討していきたいと思う。ともあれ、お二人の提案は、この春に棚に並んだものよりずっと興味深い世界がそこにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 07:40 | comments(0) | - |
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