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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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教育こそフェイクとたたかう

トランプは、「フェイク・ニュースと戦う」と言って、一方の側を閉め出した。

この論理の破綻を抽出できると教育を公正につくりだせそうだ。

 

トランプによれば、嘘のニュースをつくっているのは一部の報道機関ということになっている。一部は本当のニュースを生産しているということになる。

ところが、7カ国からの入国規制問題の場合のように、トランプの側の発言に嘘やごまかしが含まれていることも存在した。いつもすべてフェイク・ニュースをつくっているのがトランプ側ではないにしろ、フェイクの発信源となってきたこととは事実だ。

閉め出された側もフェイクが全くなかったとは言えない。

だから、公正な取材と報道を保障するなら、二分して一方を閉め出してはならない。それを行った時点で、行った側が公正でないと言える。

 

教育に置きなおす。

教育の場合、公正とは言えない問題を引き起こす一般的な震源地は、一つは学習指導要領、二つは教科書、三つは教師の準備する教材、四つは授業構成だ。最近は、これに地方首長と教育委員会、それと一部社会団体が介入してくることがある。

それぞれに含まれているフェイクを探し出す必要がある。それぞれから明白な嘘を排除していく必要がある。

これは簡単そうで結構大変だ。トランプやロシアにおけるプーチンの報道を見ればすぐわかる。

 

次に、フェイクではないとしても、一方的な判断だけが記されていることがある。複数の見解が存在する事柄の場合に一方の見地だけが記されている場合がある。ここが教育の場合には重要となる。そこには別の判断とその根拠が提出される必要がある。

そうでないと、教育は洗脳となる。判断するのは学習者自身だ。

この観点を貫く必要がある。

言われるままに複数の見地を並べるのでも足りない。並べ方が恣意的なことがしばしば教育には持ち込まれているからだ。断定はしないが、領土問題のように別の見解のあることを記さなかったり、本質的な問題を避けたりして隠蔽することが行われてきたからである。

 

フェイク・ニュース量産の時代となった現代は、事実に関する知識とその論理の妥当性の判断力こそ重要な時代となっている。とすれば、その力を育てる場の一つとして教育はフェイクとたたかう必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:47 | comments(0) | - |
「である」ことと「学ぶこと」

丸山真男の有名な評論文に「「である」ことと「する」こと」がある。高校の教科書にも所収されている。「である」社会と「する」社会の区分が抽象的で世間一般には評判のわるい文章だ。一部の人はそういう論調が好きらしいが、権利の上に眠るものは保護に値しないなどとあって近代の権利概念を理解していないと読める主張もあったりするので、私は嫌いな側に属している。

 

本日のタイトル「である」ことと「学ぶこと」というのは、学習指導要領の記述を指している。

小学校学習指導要領案社会科5年生の内容の取扱いに以下のような記述がある。

ア アの(ア)の「領土の範囲」については,竹島や北方領土,尖閣諸島が我が国の固有の領土であることに触れること(P.41)

これが丸山の「である」ことと類似の表現となっていて問題なのである。

「固有の領土」かどうかを学ぶのではなくて、「固有の領土だ」と決まってあるものとしていて、子どもが「判断する」ことを奪っていると読めるのである。

学ぶということは、諸説を知って、根拠を考えて、子ども自身が判断するものだ。

そうでなければ、国家の説を注入させているだけとなる。

今回の学習指導要領で強調されている身につけるべき思考力や判断力や表現力の養成という観点とも矛盾する。突然、教え込みの表現となっている。この論理が問題なのである。

だから、「である」ことを「まなぶ」ことに変換する必要がある。

すなわち、「固有な領土」という説に触れつつも、他の説も取り上げて根拠比較をすることが必要だ。そうでなければ学びでない。

 

上記は一例に過ぎない。

「である」ことと「学ぶこと」の論理は、異なるのである。

教育は、「学ぶこと」の論理の上に遂行されなければ、それは教育ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:02 | comments(1) | - |
人間性を評価!ホントにする?

「新学習指導要領」(案)に、めざす資質・能力について、総則に以下のように記述してある。

(1) 知識及び技能が習得されるようにすること。
(2) 思考力,判断力,表現力等を育成すること。 
(3) 学びに向かう力,人間性等を涵養すること。

 

めざすところということは、評価項目ということだ。

知識・技能はまあいいでしょう。

思考力、判断力、表現力は、正確につかめるのかという強い疑いはあるが、まあ何とか耐えられる。

しかし、「学びに向かう力」なんだそれ?もっとひどいのは、「人間性等」。

 

「人間性」をランキングするのか?そんな尊大なことを国家がしていいのか。学習指導要領は国家の行政文書だが、国家にランキングなんてして欲しくはないし、すべきではないだろう。

それをしていたのは戦前と戦中。

 

関心・意欲・態度といっていた時の方がまだ抑制的にみえないこともない。

まだ、これを批判した論文を見たことがない。

「人間の尊重」の精神にも反しているだろう。(この言葉は、「新学習指導要領」(案)にもつかわれている。)

平気で評価対象にしてしまおうと決めた人、ランキングしてしまう人の人間性の方が、人間としてどうよという感じは否めない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:42 | comments(0) | - |
悲しみの教育

どうしても思い出せない。

ずっと気になっていて、時々思いだそうとする。

それが「悲しみの教育」。

『教育』が「悲しみと教育」を特集していたが、問題意識に私とはいくらかずれがあるようだ。

 

だいぶ前、暗い大人に対して、妙に明るいこどもたちという対比が話題となったことがある。その問題構成の方が私に近い。人が「悲しみ」を抱えて生きるということの意味やその意識化について考えたことがある。

「悲しい」という感情は誰しも経験するが、形容詞ではなく、名詞である「悲しみ」を抱えるということについてである。それは、悲しいことが不幸なのではなく、悲しみを知らぬことが不幸なのだという把握である。誰かの言葉であったと思う。

人は何を悲しみとするか/しているか、抱える悲しみの大きさ、自己と他者のそれを想像できること。自己を悲しみ一般に還元せず、同時に、他者の悲しみに同化せずに想像すること。そこに通じる教育が大切だなと思った日々がある。

 

どうしても思い出せないのは、このことに関わる先達の名前が思い出せない。私の先生が語っていたのだが思い出せない。

時々思い出す。今日は広島に向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:45 | comments(0) | - |
批判的アクティブラーニング論書きました

『高校生活指導』203号に「批判的アクティブ・ラーニング論」と題する文章を執筆いたしました。(教育実務センターより発売)

 

タイトルからは論文としてALについて論じたように響くでしょうが、4つの実践記録を分析したものです。「これがALの実践です」と語る人たちの場合、触れない可能性の高いと思われるまなざしから、それぞれの実践記録の分析を記しました。

AL派はすぐに「課題をこんな風に話し合うといいです」「こんな表現活動があります」といいますが、内容そのものの真偽との関係、子どものリアルな関係にどれほど迫ったのか、真性の社会参加とは何かといったまなざしから書いてみました。

 

ALのあのエバンゲリストあるいはあのエピゴーネンへの批判です。

雑誌ですので書店に並び始めていますので、お手にとっていただければと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 06:48 | comments(0) | - |
ごく不自然なこと

幼児が君が代などという間延びした古謡を聞くなどということが「自然なこと」だと思う人がいるらしい。

 

幼稚園の教育要領改訂案や保育所の保育指針改定案に、国旗や国歌に親しむについて、菅義偉官は15日の記者会見で「小学校教育への円滑な接続を図る点からごく自然なことだ」と述べたという。

 

接続といえば、何でもつながっている。

この論理でいけば、なんでもいつでも適時性など関係なく、注入したいことは注入したいときに注入することが「自然なこと」となる。まなざしは子どもに向けられていない。

 

日の丸・君が代の意味を教えるのには、それを理解する力が必要だ。古謡であること、君について複数の解釈があること、旗についても色に込めた意味、成立の時期、旗への世界の嫌悪を含めた歴史などを理解する力があってこそ学ぶべきだ。

小学校でさえもそれは難しすぎる。

21世紀型スキルには一応(いちおうだが)「クリティカル・シンキング」などということが推奨されている。あるいは話し合うなどという意識的活動が推奨されているが、こうしたことと対応しない。誠に不自然な記載だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:27 | comments(0) | - |
パブコメ用学習指導要領案

昨日、空は青く鳶が高く留まっていた。だが、地上は、パブリックコメント用の学習指導要領案が公表され「ここまで書くのか!」という不穏な情報が流れた日になってしまった。

量が多すぎてまだまだ読み通せないが、一報を記しておく。

 

これまで世間は、資質・能力論に注目し、「深い学び」に関わってALに関心を寄せてきた。

対して私は、それらに冷たいまなざしを送ってきた。国家主義的な内容になることを第一に指摘してきた。

この指摘は当たっなと思う。

それは、総則の「道徳」への論及にはじまるが、それだけではない。

学校現場への影響の大きい各教科の内容の書き方の部分に現れている。それは、新聞に報道されているような「領土」の記述といった個別案件に留まらない。教科の目標・内容の記述の部分に見ることができる。

例えば、小学校国語の「各学年の目標と内容」を見るとわかる。

 (1) 日常生活に必要な国語の知識や技能を身に付けるとともに,我が国の言語文化に親しんだり理解したりすることができるようにする。(15頁)

 

「我が国の言語文・・」とことさらに入った。以下、この文言が各学年に入っている。具体的には、従来通りの昔話だけでなく、言葉遊びも伝承のものを取り上げると記してある。

以下、各教科に日本文化論的位置を与えられやすい内容が入り込んでくることになりそうだ。

 

青い空が古蒼となったとしても塗り替えをはじめないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:32 | comments(2) | - |
変更の推測

中教審答申を確認していて気がついたこと二つ。

 

現行では、小学校3年生の社会科で商店もしくはスパー・マーケットを取り上げた学習が行われる。これは、学習指導要領に次のようにあるからである。「地域の人々の生産や販売について,次のことを見学したり調査したりして調べ,それらの仕事に携わっている人々の工夫を考えるようにする。」

これに対して次の学習指導要領小学校社会科への論及では「社会的事象」の相互関連あるいは問題解決が強調されている。中学年については地域学習もしくは産業学習という言葉だけが資料等にある。あまり顕著な変化は見られないのだが、敢えて言うと「工夫と努力」の小学校社会科に対して事象の構造や問題解決が前に出ていると読めなくもない。主観的には、そう読みたいものだと思う。

というのは、工夫と努力の社会科は、ばかばかしいほどに態度主義的なのだ。地域は崩壊状況なのにスーパーや商店が工夫して販売しているなどという把握をさせる非社会的な社会科でいいはずがない。

 

もう一つは、体育科のオリンピック。答申で体育科で顕著な変化は、オリンピックに関する教材化だ。他は大きな変化が見えない。体育でオリンピックは関連が深そうな気がするが、現行の体育の実態でいうと関連がほとんどない。実施される競技は同じでも別段スポーツとしては同じだからだ。過去にもオリンピック憲章を取り上げた実践はあるが、全体としてはあまり取り上げられない。

この変化が東京オリンピックと関連していることは明らかだが、どんなものを想定しているのか?気になるところだ。

日本のスポーツ風土の悪弊から考えれば、オリンピック憲章や1978年のユネスコの「体育およびスポーツに関する国際憲章」を取り上げることにするなら意義深いことになるだろう。そこにはスポーツと人権や平等が謳われている。

 

きわめて楽観的推測を並べてみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:40 | comments(0) | - |
見通し路線と逸脱

ずっと昔、教育は、物づくりの労働とは違って、何になるか定まっていない人に確実とは言えない働きかけをする営みなのだ、と学んだ。

確実とは言えない中でより確率が高い、よりよいと思われる仕方で働きかけるものだと学んだ。失敗したら別の仕方で働きかけていくものだと学んだ。

 

上記の原則は、今も基本だとみている。

働きかけを教師が選んでいること、「掛け」としてあること、一度で失敗というわけではなく取り返せるかもしれないこと、重要な示唆がたくさん含まれている。

 

見通しを徐々に確かなものにしていくところに研究の意味がある、実践研究の意味がある。

この見通し路線は、正しい。

ただ、見通し路線の正しさに乗っているだけでは、だめで逸脱も必要なのではないか、新たな飛躍は生まれない。

 

堅実なだけの筆の運びを眺めていたら、「なんとつまらない」。

飛躍ばかりの無様な文章の方がまあいいか、と時々思う。

そう思うようになったのは、想像を絶する『地球の歴史』のこれまでが一つ。二つは確率では決めない人の選択の不思議と情熱。

これらの着想に牽引されて、戦後教育学の「見通し路線」の見直しも必要だなと考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:39 | comments(1) | - |
意味不明な「資質・能力」概念

昨年末の中教審の答申にある「資質・能力」という概念は意味不明だ。

例えば、社会科の改訂部分には以下のように記されている。

「資質・能力の具体を「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力等」、「学びに向かう力・人間性等」の三つの柱で示し、別添3‐1のとおりとりまとめた。」(131頁)

この通りだとすると、三つの柱は評価の観点と同一だが、資質・能力は全部を含むものとなる。知識や技能が資質・能力になるし、人間性が資質・能力だといっていることになる。
こんな把握は聞いたことがない。
教育学や心理学では、認識と感情と思想・信念に大別し、認識を知識・技能と能力に区分するのが普通だ。人格をこれら全部をあわせた広い意味で言う時があるが、狭い意味で思想・信念の部分だけを指すことが多い。答申では、「資質・能力」という言葉に全部が含まれている。主体の持つ知識を能力と同じと把握する議論は誰がしているんだ?
人間性というのは普通は人格のことを指すだろう。いつから能力と同じになったのだ。
もう一つ別の論点。
文科大臣が「我が国の固有の領土」について特定して教えると先月末に発言しているが、答申では以下のようになっている。ここも大臣発言と答申の文言との整合性があるのかないのか怪しい。
「具体的には、日本と世界の生活・文化の多様性の理解や、地球規模の諸課題や地域的な諸課題の解決について、例えば、我が国の固有の領土について地理的な側面や国際的な関係に着目して考えるなど、時間的・空間的など多様な視点から考察する力を身に付けるなどのグローバル化への対応、持続可能な社会の形成、情報化等による産業構造の変化やその中での起業、防災・安全への対応や周囲が海に囲まれ、多くの島々からなる海洋国家である我が国の国土の様子、主権者教育において重要な役割を担う教科として選挙権年齢の18歳への引き下げに伴い財政や税、社会保障、雇用、労働や金融といった課題への対応にも留意した政治参加、少子高齢化等による地域社会の変化などを踏まえた教育内容の見直しを図ることが必要である。」136頁
答申では、固有の領土という文言はあるものの、「国際関係に着目して考える」ことが期待されている。固有の領土だと断定して教えることとは違うのだが、大臣は文言を読めていると信じていいのかどうか。
| 教育 | 07:40 | comments(0) | - |
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