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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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教科書の絶対化をやめよう

「教科書を使わせたい」ただそれだけで「道徳の教科化」に突っ走った。

教科にすれば教科書をつくって、それを使わせれば、教える内容と教え方を統制できるということだった。この回路には、教科書を経典のように扱うものの見方がある。回路づくりは権力的統制だが、その回路を成立させるには権力だけでうまくは行かない。

その回路を支持し、その回路を機能させてしまう権力に迎合する人と意識が必要だ。

その一つが教科書を絶対化する信仰だ。

 

しかし、教科書などというものは、統制以外には単に便宜のためだけだ。

考えて見ればすぐわかるように、教えている内容としての自然や社会や芸術は、教科書の中にあるわけではない。

自然は自然の中に、社会は社会の中に、芸術は芸術の創作と作品そのものの中にある。

 

教科書を教えるよりも重要なことは、自然と対し、自然と向き合ったときの知や技ではないか。社会と向き合ったときに操作された出来合いの観念に馴化することではなくて、自ら判断できることではないか。

この当たり前のことが忘れられている。

 

教科書の絶対化をやめよう。

教師も子どもも親も、そして権力者もそんなものを絶対化するのはやめよう。

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:03 | comments(0) | - |
遠山啓の教材研究

教育方法学のテキストの編集を行っている。

月末が締め切りで、自分の担当部分の原稿を早めに一つは書き上げておきたいと思っている。そこにどうしても遠山啓を取りあげて位置づけたい。戦後の教材研究方法論として欠かせない一人だろう。

「水道方式」の解説本や「数学入門」のような代表的本は学生の頃から読んでいたが、エッセーのようなものは雑誌に挟まって目にしてしまったものを除いて読んだことがなかった。そこで、『教育の蘇生をもとめて 遠山啓との対話』やら『遠山啓』を読んだりしている。『教育の蘇生をもとめて 遠山啓との対話』は初版ではなくて、太郎次郎社が再版した版のものなので、新しいが初版のコピーを原板にしている。書体や印字が今とは違う。

友兼清治編著という『遠山啓』の方は、友兼による伝記のような本で、遠山の文章がそのまま時に要約されてつながれている。遠山の生まれから始まっているという意味では伝記の定番だが、水道方式前後の数学研究との関連で記されていたり、その後の仕事についても数学教育に関わる主張の理論的枠組みがそれぞれの時期の論争との関連づけて書かれていたりして、背景や周辺の人や議論との関連が見える本となっている。

伝記的な関心を私は持ってこなかったので、インチョンで生まれたとか、東工大で学長候補になって「当選したらどうしよう」などとホントに思った瞬間があったなどということは知らなかった。当然皆さんご存じのように落選。しかし、一瞬でもそんなことを思ってしまう性格だったのだななどと読んだ。

伝記的な関心がなかったので遠山の亡くなった日が9.11というのも知らなかったし、戒名を無着成恭が送ったというのも知らなかった。いや戒名の話しはどこかで見た気がするが、忘れていた。

以上は、原稿と関係がないのだが、「数学入門」がなぜああいう構成なのかは、よく分かった。研究の経過とかかわっていたんだ。

私の原稿にはせいぜい一頁にもならない取りあげ方になるのだろうが、学史は教材研究の視角として欠かせないことは断言できることはわかった。遠山の学の系統性論は一部正しくはない気がするところもある気がする。忘れてしまうので記しておくと、学も不均等発展をするので、系統性として必ずしも括れない領域が島のように浮上することがあるのではないかということ。

また、生活単元学習論の全体性論の思考停止批判は正しいとしても、全体性あるいは総合性という視角は分析と総合という論理の適用では説明できていないと読んだ。

 

続きは、またずっと後になる見込み。

今日はないがしろにされてフラフラ移動する敬老の日。祝日らしいが今日から勤務先は秋学期の開始日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:16 | comments(0) | - |
Jアラートと安全・防災教育の不穏

朝の日課から戻ると、内容のない放送となっていた。

居住地域では音は鳴らなかったが、無意味なJアラートなるものがなったらしい。鳴動した地域は、意味のない迷惑対応が発生したようだ。

本物が飛来したときには、「建物に避難」などと言われてもできないだけでなく、無意味だ。かつての空襲の焼夷弾ではないのである。

 

ご存じだろうか。いま、文科省のその筋は、「安全教育」「防災教育」を大々的に学校教育に持ち込もうとしている。かつては、登下校などを中心に交通安全といった類いのものだった。これに台風や地震といった自然災害がついてくる程度であった。

これが一挙に不穏なものが想定されるようになっている。

一つは、原発事故。二つは、パンデミックと呼ばれる世界規模の感染症等。もっとも最悪なのが三つ目のテロと戦争である。

従来のものに加えて、これらを付け加えた内容を持ち込もうとしている。身近な交通安全ややむを得ない自然災害ではなく、巨大な規模の人為的要素の強い内容である点に一つの特徴がある。更に問題は、そこに国家が強力な統制をかけてくることを想定した中身が考えられているらしいことである。人の自由を国家が奪うことを視野に入れてきているようなのである。

 

今起こっている自然災害、原発災害、ミサイルとJアラート騒動、これら一つ一つは、近未来の教科書教材として予定されているというのである。

国家主義的・冒険主義的な安全教育・防災教育になる可能性がそこにはある。

そうではなくて、個々の人命を守る観点からの教育、戦争ではなく平和をこそ希求する安全教育かが問われている。

 

その筋とはその筋。アーレントが述べた「凡庸の悪」としての能吏が準備をしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:42 | comments(0) | - |
現実を道徳科の素材に

昨夕、終わる寸前で観たのでよく分からないが、名古屋市のどこかの学校が道徳科でフェア・トレードを取りあげた授業を放映していた。

名古屋はESDの会議を開いたこともあって、「持続可能な開発のための教育」を推進していることになっていた。これに乗ってチョコレートの適正価格をめぐっての授業らしい。

この素材は、もうだいぶ前に開発されて、使い古された感じがしなくもないが、「手品師」や「金の斧銀の斧」とか「バス亭で」なぞを取りあげているよりはいい。

 

何がいいか。現実の問題を取りあげて、社会にある不公正や人権侵害を検討する方がずっといい。

とはいえ、ESDがそういう内容になるかどうかは、検討の余地がある。日本の中で行われているESDは、社会的視野を欠いたひどいものの方が多いという現状があるからだ。慈善的フェア・トレードの位置づけを越えていれば、TPPの問題を批判的に検討できるはずなのだが。

 

環境問題、人権問題、戦争と平和の問題などを取りあげる時間に換えるというのは、一つの方向だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:44 | comments(0) | - |
道徳を教え込んだら不道徳

NHKのクロ現が道徳の教科化の課題を取りあげて、その放送内容がまとめてある。

放送内容をテキスト化したものは↓
http://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2017/09/0906.html

web特集のまとめは↓
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2017_0907.html

 

国家が22項目あまりを選んでいることの問題性と「道徳科」の一般的なやり方となっている「お話し」を事例に説明したり話し合ったりで道徳は形成されるのか?という問題は取りあげられていないが、教科書として画一化される問題と評価の問題点は分かりやすい構成だ。

 

「議論する道徳」というが、ほんとうに議論するものとなっていない点が現在の道徳科の教育動向の問題点のもう一つ。
さらに、子どもたちに道徳性にかかわる価値観を「教える」という主張が以前からあって、それをするんだという動向がもう一つの問題。この辺は取りあげられていない。

教育出版の教科書などは、かなり保守的な道徳を教え込もうとする見地が鮮明だ。各社に採用されている「カボチャのツル」の話しには「規則はとにかく守りなさい」という価値観が明白に存在している。他にもそういう話しと教育活動が道徳科では行われる。

 

しかしだ。

道徳がその人のものと言える最低限の基準は「自主性」にある。これは、かつて勝田守一らが述べたことだが、自分自身で判断して選んだ行為であるときに道徳的と言えるというもの。その時の基準が他者や周囲から強制されて行われたとすると、それはどんなに良い判断であったとしても道徳的には不道徳となるからである。

この把握が正しいとすれば、価値観は自己形成するしかない。価値観に関する知識は教えることができるが、それは知識に留まる。また、カボチャのツルのように誤った知識を教えると行動を誤らせる可能性を生むことになる。(とにかく規則を守ることがいつも正しいわけではないという点で誤りを含む把握をさせる可能性がかなりある。)

価値観それ自身を教えることは個人の尊重という点でも問題であり、すでに述べたように道徳性の形成という点でも矛盾する。
自己形成はいかに行われていくのか、そこに教育はどのように関与するのかそこが問題の焦点だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

備忘録

 

| 教育 | 07:12 | comments(0) | - |
教科書は誰が選ぶべきか

クロ現は、教科書採択の話題を取りあげていた。

学び舎の教科書を採択した学校に組織的に葉書を送っていたことを明らかにした点は番組の功績だ。

葉書を送った側は圧力というと法令違反になるので、一人は「啓蒙だ」と述べていた。しかし、不当な圧力だ。

啓蒙は昔から暴力だった。

あの人たちの啓蒙は、その内容が虚偽である点で、最悪の「啓蒙」=暴力となっていた。

嘘で固めた歴史が日本の誇りだというのではあまりにひどい。

「嘘が誇り」とは、ないのが良い誇りだ。

 

番組が、虚偽の部分には触れなかったのが惜しまれる。

問題の核心の半分は、その内容をめぐる問題で、学問的にはすでに決着済みと言って良い。

 

問題の核心の残り半分は、教科書を誰が選ぶかだ。

最悪なのは、国家が教科書を作って使わせる国定制度だ。

現行の教科書採択の密室性も問題だが、使いもしない教育委員が教科書を採択するのが本来間違っている。

 

教科書は、それを使って授業を行う個々の教師が採用すべきなのだ。

使いもしない教育委員が採択しても、だれも責任が持てない。

教師が採択するようになったら、市民はどう関与するのか。教科書採択に市民は関与しないのがよい。

教師の専門性に起因する権限だ。

教える内容に誤りがあったときには、苦情を申し立てを受ける第三者委員会が判断すべきだろう。

日本の教育委員会はそういう機能を果たせない。権力者になってしまっているから不可能だ。

番組は、教科書採択制度を変える議論の一つにはなったか。

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:22 | comments(1) | - |
伊達市の副読本の問題点

伊達市の放射線教育の副読本の問題についてこちらにもしつこく記しておきたい。

副読本の本文を読んでもらえるように、関連するところを引用して問題点を記しておきます。
伊達は福島市の東隣の市。現在も時間当たり伊達市の計測数値では0,75〜1マイクロシーベルトの地点が二カ所あります。これは市役所のHPのデータです。高いところの数値は、一応の基準の目安とされる0,23マイクロシーベルト時の3倍から4倍の数値です。また、計測の仕方が地上から高い計測であることを問題という人もいます。さらに、山林など除染をしていないところは、もっと数値の高いところもあるという報告がある地域です。
さて副読本の件。
副読本の問題点は、100ミリシーベルト以下なら安全と言ってしまっている点が一つ。
日本人は、生涯のあいだに約半数ががんになり、そのまた半分くらいの人は、がんが原因で亡なくなります。放射線も遺伝子を傷つける原因の一つです。放射線の量が少ない場合には、放射線でがんが増えたかどうかわかりませんが、広島や長崎で原爆の放射線を受けた人たちを調べると、100mSvより多くの原爆放射線を受けた人たちでは、がんになる人が少し増ふえることが分かりました。伊達市に住んでいる人たちは、一生住み続つづけたとしても、放射性セシウムから100mSvを越こえる放射線を受けることはありませんから、伊達市に住む人にがんが増えることはないでしょう。」10頁
 
これだと低線量被曝の放射線の影響に関するリニアモデルが否定されてしまっていて、閾値モデルが採用されたことになっています。しかし日本政府採用のICRPの見解とも異なっています。生涯にわたって低い方がいいと言っており、100ミリシーベルト以下でも数値に比例すると考えることになります。
二つ目の問題は、原発由来の放射線量が排除されている点です。
「この図にある1年間に受ける放射線の量は、世界中の平均の値です。チベットやアンデスのような、標高の高い地方では、宇宙から来る放射線は4倍くらいになります。大地から受ける放射線も、その土地の岩石や土の性質で大きく変化し、地球上にはこの平均値の5倍や10倍ある地方もあります。日本国内でも、花崗岩の多い西日本は、東日本に比べて大地からの放射線が 1.5 倍くらいあります。また、空気から受ける放射線は、住んでいる建物の材質などで大きく変わります。」9頁
この説明とその前の図には、放射線の総量が年間2.39ミリシーベルトを自然界から受けているとあります。
しかし、世界一般の話しで、被爆線量の年間数値に福島原発等からの放射線量が加算されておらず、伊達の計測値とも違ってしまうことになっています。宇宙からや地球内部からの放射線被曝の数値は間違っていませんが、正しさで嘘を言っていることになります。

除染の効能について、一度実施するともう大丈夫と読めるように記されていますが、そんなことはありません。
その代表的なものが除染活動です。除染とは、放射性物質のそうじのことで、家の周囲の地面などに降ふり積つもった放射性物を、 集めて、閉とじ込こめて二度と散らばらないように管理します。みなさんが 部屋をそうじするのと同じです。
しかし、山林は除染していないなどの理由から除染後にまた数値が高くなるのであり、今もF1から出ている等の問題が無視された表現となっています。

以上少なくとも事実をめぐって三つの問題点があると私は読みました。
安全と恣意的に思わせる副読本になっています。
現実を認め、危険性があるからこそ安全への取り組みが重要なことを解き明かす副読本にすることが期待されます。
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| 教育 | 07:09 | comments(0) | - |
桃太郎裁判

法教育の一貫で、今、桃太郎の模擬裁判が話題だ。

こうした取り組みは広がっていいと考える。
何よりも現実の諸問題を取りあげることに接近するという点でいい。
おとぎ話だが現実の問題から遠いようできわめて近い。
奇妙な道徳科の話しよりずっといい。
ただ、二つ検討が必要だ。
一つは、判決をつくるなら、刑法に関する知識が必要となる。小学校の子どもにそれは難しい。子どもたちに刑法を適用させて判決をつくらせるとなると、中学から高校生だろう。
二つは、中高生に行う場合、自分たちで調べる時間が必要だ。自分たちで調べて判決を出したとして、その判決が妥当かどうか専門家による評価が必要だ。適当な議論で判決が決定されていいわけがない。政治家の国会答弁のような水準でいいわけがないことは教えなければならない。
| 教育 | 07:37 | comments(0) | - |
日韓の授業計画の差

12日に日韓教育実践研究会と慶南歴史教師の会の交流会が早稲田で開催された。

本筋のテーマではなくて、細かな周辺的などうでもいいことかもしれない事柄を記しておきたい。そういえば、今日は「終戦記念日」と日本では呼び、韓国では光復節と呼ぶ日。二つの言葉のトーンに大きな違いがあり、この大きな違いを理解することとは関連がないと言っていいほどの違いなのだが、以下に取りあげる違いに私は、日本の教師と韓国の教師の置かれた差を見ている。

 

日本からの実践報告の目標と授業の計画は次のように記されていた。

「江戸図屏風」や「朝鮮人来朝行列図」の中に描かれている朝鮮通信使を中心に、当時の日本と朝鮮とのつながりについて調べ、理解を深める。

1「江戸図屏風を見て、気づいたことをまとめる」、2「国立歴史博物館へ行き、自分が立てた課題について調べる」、(途中省略)8「なぜ、たくさんのお金や人を使って朝鮮通信使を招いたのかを考える」

ここにはある特徴がある。

 

韓国からの実践報告の授業計画には次のようにある。(1と3の細目は省略)

1.第二次世界大戦の内容分析、2.第二次世界大戦を詳しく見る、(ドイツが主導したヨーロッパ戦争、日本が主導したアジア太平洋戦争、世界地図に戦争の内容を記録する)3.考えを広げる。

ここだけでははっきりしないかもしれないが、韓国の報告資料には教科書の見出しが記されており、「全体主義国家の出現」など項目や内容のとらえ方がその文言から読み取れる。それらとつなげると違いを感じることができよう。

 

それぞれ一つだけの事例で日韓を代表させてしまうのは手続き的に問題含みなのだが、私は代表させて問題がないと考える。

日本の目標記述や授業計画には、理解の内容が登場しない。子どもの活動が文字通り記され続ける。

韓国の計画の場合には、子どもの行う活動を記す点で同じなのだが、内容のとらえ方が日本よりは見える。

この違いが気になっているのである。

 

日本の指導案はもう20年以上は少なくともたつと思うのだが、内容に関する事項を計画の部分に記さない傾向を強めたように思う。

今回の日本側報告者は、普段の授業計画の書き方に合わせただけで、内容に関する理解を持っていなかったわけではないのだが、直接に聞いてみないとどのような理解であったのかはわからない書き方なのである。

 

どうして内容に関する分析の記述が希薄で、子どもの活動ばかりが記される授業計画なのか。

それは、日本の教師たちの方が内容統制が厳しく、内容理解を画一的なものとして前提にしているからではないか。もしくは明確に示さない対応でやり過ごす知恵なのではないか。そう思うのである。

 

日本の教育の不幸をそこに見ることができるように思う。前にも記したことがあるが、日本と比べればあくまでも相対的にだが、韓国の学校と教師の方がずっとのびのびと教育活動を行っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:17 | comments(0) | - |
ディベートは国語じゃない

「ディベートは国語じゃない」という発言を聞いた。

発言者は国語教師。

国語の教師としても実績のある人の発言であった。

 

これは何を意味しているのか。

文脈からすると、論理ばかりを追求していて、言葉あるいはコミュニケーションの総合性が失われた活動であり、国語もしくは日本語教育ではない、ということと受け取った。失われているものとは、例えば、内容にかかわる感情などのことだろう。

 

国語・日本語教育ではないと述べながら、この手法を採用する他教科も同時に批判したのだと解される。すなわち、述べたいことがあるわけでもないのに語るディベートで社会的テーマを取りあげても、そこに「声」(人の熱を伴った語り)はないのではないか。そんな音の行き交いを社会科と言うのか!という批判である。

 

傾聴に値しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:12 | comments(0) | - |
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