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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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わかりやすいは普遍じゃない

明治学院で終わりに話したことは、「わかりやすい授業がいいわけじゃない」と断言したこと。

世の中、「活動的でわかりやすい授業は良い!」という考え方が蔓延している。

しかし、わかりにくい事柄をわかりやすくしてしまったら、それは誤りを含むことになる場合がある。

私は、そのことを「批判的アクティブ・ラーニング論」という論文で札埜実践に関わって述べた。

 

札埜実践は、分かりにくい判決文を誰もがわかる文に書き換える課題を法律の専門家と意見交換しながら展開する実践であった。授業の過程で裁判長がその道の専門家の世界に入ってくるように高校生を誘い始める。わかりやすければいいとは言えないという主張に高校生は出会ったのだが、大変重要な世界に高校生は誘われたのだと私は論文で意味づけた。

 

今野真二は、『北原白秋』(岩波新書)において、室生犀星が白秋の詩作を「ちんぶんかんぷん」と述べたのは犀星が新しい言葉にあふれた白秋の作品を読めないことに気づいたからだと見なしている。

犀星のわからないは、右も左もわからないわからなさではない。わからないにもいろいろあるのである。同様に、わかるにも様々なレベルがある。だから、すべてを「わかった」形に落とし込めればいいのではない。

わかりやすいが普遍的によいことではない。

 

ポイントを押さえたわかりやすい授業がよい授業というわけではない。わからなさを残した授業の方が優れている。難しい専門用語を使用しなければわからない世界は、やはり存在している。そこを垣間見せる授業の方が優れていよう。そこに気づく「わからない子」を育てる教育こそより優れていると言える。

私はそう考える。

簡単にわかったつもりにさせる授業が一番危険で問題なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 06:54 | comments(1) | - |
フレンドリー

カタカナで書くフレンドリーというニュアンス。

英語のFriendlyの日本語訳では「友好的な、好意的な、敵意のない、人なつっこい、(…と)親しい、仲がいい、友愛的な、親しみのある」とある。少し堅い印象を与える言葉も並ぶ。辞書によっては世俗的な訳語も並ぶ。

とりあえず、カタカナのフレンドリーと使う。

 

関係の質を表すこの言葉の関係の取り方が、普段の暮らしでは難しい。

家族の中では、それぞれの状況と役割に応じて行動する。ついつい子には、子とみて応答する。

学生には学生の求めに応じて対応する。

講師として呼ばれれば、質問にわかる範囲で講師として応答する。

相手の立ち位置を見ながらの応答となる。

 

それぞれの立ち位置からの言動と振る舞いが基底にある。これは避けられないのかもしれない。だが、その応答の仕方にプラス、時にはマイナスしてフレンドリーという要素がつく人あるいはつくことがある。

対義語としては事務的とか、権威的とか並ぶのだろうか?ともかく、「これぞ適度な親しみのある振る舞い」に遭遇することがある。

私がよくない振る舞いに出会うことは少なく適度の範囲は広いと思うのだが、自分ではそういうことはうまくできない方かもしれない。

しかし、周囲には、まさにこれがフレンドリーな振る舞いというものに長けている人がいるように思われる。形式的な振る舞いの形や礼儀などというつまらないものではない。そう、まさにフレンドリーという言葉がぴったりする人がいる。いつもそうなのではないかと想像させる人がいる。

 

そんな印象を残して10日に旅立たれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:14 | comments(0) | - |
今日の話

今日は、私教連関東ブロックの研究集会にお呼びいただいた。

 

中教審答申と学習指導要領案から何を読むべきかが半分。

残り半分は、学びづくり論。

 

中教審中間まとめから中教審答申、そして学習指導要領案と順番に横文字が減ってきた。

一番最初に減ったのは、コンピテンシー。国研が「資質・能力」と言い換えた。言い換えた時点で欧米的コンピテンシーのニュアンスが変わった。「学びに向かう力・人間性」を3分1として含むことになぜかなった。

 

大流行だったアクティブ・ラーニングの言葉が次に消えた。AL本は売り上げ減少に向かうだろう。

 

次に消えるのはどれだろう。個人的願望で主観的に言えばCMが消えるかな。カリキュラム・マネジメントはもともと不人気だった。理由は私が読むところでは審議途中の把握では何も言わないに等しい、無内容に響いていたと思われる。概説本を読んでも中身のない議論だったからだ。強引に入れ込まれた。CMは強権的トップダウンのソフトなオーソライズだから、一部管理職層にしか広まらないと思われるが、そのオーソライズが一般教員には迷惑となろう。

 

そんな入り口の議論から始めようかと思う。

 

AL批判から学びづくり論へと展開したいと思っている。

学びづくり論の事例は、多数の短時間で何を取り上げるかは難しいところだ。

昨年からの私の定番も解説をまじめにすると、予定より時間がかかる。

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:08 | comments(0) | - |
ラ・ラ・ランド

公開から二日目に行ったら満席で断念して、平日に。

なんだか観たことのあるダンスやシーンが連続する感じ。写真の踊りの形も別の映画でいつか観た。ミュージカル映画もあれば、普通の映画のシーンも思い浮かんだ。設定は違うが、シーンが同じだ。ストーリーでも反復という基本を何カ所か使っていた。

 

ストーリーは、俳優とジャズピアニストとしての成功を夢見る二人が、挫折しながら出会い、成功はするものの別の道を歩んでいくというもの。ものすごく盛り上がるとか、感動的だとか、新たな発見があるとか、そういうことはない。

そういうことはないけれど、心地よい音楽とシーンが連なっていく。

 

ところでラ・ラ・ランドというのはLA(ロス・アンジェルス)からきている俗語だそうだが、二人(複数)の夢のロスなのでラ・ラ・ランドとなったのか?もしれない。

夢見る側からのロスしか描かれないのも徹底している。夢を描いてやってくるものの、夢にたどり着くことは難しい。運良く夢は得られるかもしれないが、人生は描いたとおりとはならない。そうでなくてもそこに道(人生)はあると軽めに言っている。

 

今日は東日本大震災から6年が過ぎた日。放射能が漏れ続けている現実を直視する視線があるかないかを指標に一日を過ごす。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

| 映画 | 07:28 | comments(0) | - |
教育における偏向とは何か

話題の方が「皆さんが偏向している」とか「教育勅語の暗唱の何がいけない!」などと語ったと報道されている。この方は、教育における偏向と個人の「思想」の区別ができていない。

 

一人一人は、必ず小さい子どもも含めて皆それぞれ思想を持っている。持っている思想は、皆それぞれ同じでないという意味では個性的で偏っていると言えなくもない。だから、「皆さんの方が偏っている」という言い方は、この意味では自分が偏っていることを証明しているだけの無意味な発言となる。皆自分と同様に偏った思想を持っているからである。

 

ここで問題は、学校の目標や内容あるいは教育の方法が社会的に許されないものであるという点にある。

それぞれの社会は、土台となる規範や法を持っている。自由と平等を掲げる近代社会は、諸個人の様々な自由を承認しているが、誰かに従属させられること、強制されることを認めていない。強制を認める自由を承認していない。まして、公共的機関である学校にそれを認めていない。

だから、天皇のために死ぬことを最高の価値とした教育勅語は、今日の社会では認められない考え方となっている。これは、日本国憲法、その他の法律でも規定されている。国会でも議決した事柄である。そういう日本であることを国際的にも宣言し、承認を受けてきた。この原理と規定から外れているのは、「森友学園」の側であって、こうした場合に、偏向しているという言葉を使うのが通常の用法である。

したがって、「教育勅語の精神である日本が道義国家を目指すべきである」と稲田は答弁したが、とんでもない発言だ。教育勅語に現代に通用する道義は存在しない。孝行を直接には挙げたようだが、子が一方的に親に尽くすという考え方は、そこに上下関係を持ち込んでおり、子への強制・忍従を前提にしている。どのように親との関係をとるかは、それこそそれぞれの自由ではあるが、教育勅語のような不自然な関係は今日の社会では認められない関係と言うべきである。

 

教育は、そうした社会的合意の上に営まれ、その合意にしたがって教育活動を行う。そこから逸脱することは認められていない。そういう意味で教育はいつでも保守的な営みとされる。この合意は、社会的であるために、社会が変われば合意の中身も変わる。それは、法の形で決定されていることもあれば、社会的に広く承認されているという形のものもある。そうした中身が教育の公共性と呼ばれる。そこからの逸脱を偏向と呼ぶことが世間ではある。教育学では偏向という言い方はあまりしない。公共性のどの部分と関わるかによって教育の中立性や教育の公正性などと使うことが多い。「偏向教育」ということがあるが、これは教育する側がつまり国家や学校が一方的な見解を押しつけることを指す。こうした言葉の使い方からすると、それにあてはまるのはどちらかは明白と言うべきである。

 

教育勅語をよいものとする一部の人々がいるが、その成立と内容と歴史的役割をよく学ぶべきである。勅語を大切という人がなぜ虚偽をたくさん製造し、人を欺き続けるのか。そこには「國法ニ遵ヒ」とあるのだが?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 社会 | 07:41 | comments(1) | - |
サークル論1

本日が、西三河サークルを私の研究室で開催する最終日。

この集まりは、最初は富士松駅近くの個人宅で開催していた。1980年代に後半まで続いた。時々、岡崎で開くこともあった。実践の構想づくりが中心で夜の10時頃までやっていた。疲れたが、教師というものが新たな授業を創ろうとする時、どんなことに関心を寄せるかが参考になった。三河的な教育の伝統もそこにあるらしいことを知ったのは数年たってからだった。

 

その後、しばらく休会の時期があったが、20世紀末頃から今度は私の研究室で再開した。最初期の参加メンバーはほとんど入れ替わったが、その後はほぼ毎月一度開催してきた。ネットに接続していることを入会の条件ということにしていた。それ以前は、封書で会員通信を発行していたが、その経費と手間を省いてメールで連絡することにしたからである。

どっちがいいのかはわからないが連絡が手軽になった。

以後、メンバーは変化しながら続いてきた。少ないときに3人という時期もあった。このところは数人から10人ほどで二つぐらいの報告をしてもらってきた。

 

ところで、私は、こうしたサークルのようなものに参加していない人をどこかで信じていないところがあるようだ。著名人の特徴的な実践をつまみ食いしているような実践者や研究者をどこかで信じていない。

著名な教師でも、いつもうまくいっているわけでもないし、すっきりと構想ができたとは言えない時を抱えながら、時につまらないと思えることにこだわっている姿がある。著名でもなんでもない教師が明日どうしようと思ったり、時間がひたすらたつことを願っているだけのような状況を抱えていたり、いろんな出来事がある。その時間の経過を共にする経験を持たない人を信じていないところがあるのだ。

官製的なそれだとだめなのだ。そういう中でも実践を中心においてきた人がいることを知っている。

興味深い取り組みをしていることもあるのだが、どうにも私の問題意識との時間的ずれが生まれるようなのだ。

 

雑誌などの実践記録は、どうしても一部しかそこに記されていない。サークルの場合には前後が見え、聞いてみたいことに即座に応えてもらえる。周辺情報も重要だったり、話し方のトーンだったりが具体的に見える。これは映像記録とも異なるものだ。

 

私はいろんな集まりに参加してきた。それごとに進め方も報告の仕方も違うが、学校的制約のない世界が私の研究上では大きな意味を持ってきた。これらの集まりに集う人のその先の世界につながることもできた。

小出隆司、杉山雅、大西忠治、安井俊夫、加藤公明、ここに名前を挙げきれない人々と出会った。そうした人々から研究へのヒントを沢山いただいた。これらの著名な教師と知り合ったのも小さな集まりがきっかけだった。また、普段の、突然飛躍があるわけでもない集まりで聞こえる一人一人の声が、日常の問いを形成し続けてくれていたように思われる。経験年数など関係なく、「教育の応答がここにあるな」と思われる瞬間に立ち会える時が時々ある。それが大事だったと思われる。

 

その2はいつになるかわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:51 | comments(0) | - |
違いを深く学ぶとは

「アナと雪の女王」を地上波で流したので見させられることになった。録画したらしい。

直後からエンディングが違うので批判が流れた。放送局としては話題になって成功と思っているらしい。

違いは、主題歌や吹き替えにもあることをツイートで知った。公開直後にもう批判があったんだ。

原作と日本語吹き替えの違いは沢山あるらしいが、ポイントは二つ。

一つは主題歌。

原作のサビの部分は以下。

Let it go, let it go. Can’t hold it back anymore.
Let it go, let it go. Turn away and slam the door

これが日本語の歌では、「ありのままの 姿見せるのよ ありのままの 自分になるの」と。

もう気にしないで、振り返らずにいくという方が英語の歌詞の意味に近い。

日本語歌詞がものすごく外れているわけではないが、ともかく先へ行く感じが原語にはあると言うことらしい。

 

もう一つは、ありのままという自己肯定感満載万歳という日本語吹き替えと姉妹愛全面の日本語吹き替えに対して、親の抑圧から閉じこもることになった行き方を受けて、そのまま閉じこもるのではなく解放を謳う英語の台詞という映画の主題のつかみ方にもあるようだ。

 

違いを台詞の違いとして眺めているだけだと、文化性の違いなどとすぐに帰結させて守旧派の見方へと落ち込んでお仕舞いにさせられて上っ面で終わる。

しかし、そこを突っ込んで個別の違いをつきあわせていくと、どちらがどうなのと判断する材料になる。

古い見方で安穏に通過するのが「深い学び」で、上っ面の比較。

それに対して、違いをその基準にしている考え方まで浮かび上がらせるように学ぶのが「真性の深い学び」。

 

その後、「すばらしき哉、人生!」を観た。各種ジェンダー満載の映画でもあるが、ささやかな振る舞いが人の生きている意味とつながっていることに気づかせる映画でもある。意味を問い直しながら見直した。今日は国際女性デーらしい。1904年のニューヨークで女性の参政権デモの日に由来する。まだ113年。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:35 | comments(0) | - |
板倉聖宣セレクション1

板倉聖宣、仮説社、2013年、1900円と税金。

1963年に提唱されたという仮説実験授業。自然科学領域の授業書に関連する議論は確かに多いが、それに負けずに多いのが社会や教育に関わる発言。この本は、社会、とりわけ民主主義に関わる論考を集めた本。

 

仮説実験授業の批判は、かつて始まった頃にいくらか聞かれたが、その後はほとんど聞かない。それは、内容が面白くまっとうだからという要素もあるかもしれないが、批判されていい中身もいくつかあるように思う。

評価されていいのは理科関連の授業書だけではない。社会や「道徳」の授業書がある。ただ、内容的には吟味が必要な部分もある。「授業風」の「道徳」をしなければならないご時世に、参照されるべき先行研究が仮説研の「道徳」だ。仮説実験授業のいい点を認めた上で、どうかなという主張を選り分けるとこれまでに板倉氏や会員がつくってきた良い内容がもっと見えてくるに違いない。

 

理論枠に関わる手法についてだと次の点がある。おそらく、近代科学論を狭く捉えているせいかもしれないと推測しているが、誰かに確かめて欲しいものだと思っている。どういうことか。仮説選択の討論の後に実験をして、実験結果に関する解釈をしないと主張していたことがあった。これは、実験がすべてだとその理由の説明をかつてしていた。しかし、この点は必ずしも妥当とは思われない。真性の科学の場合には、すぐに結果の解釈をめぐって議論をすることがしばしば行われる。科学過程論研究をしていた時期に疑問に思って以来ずっと?をつけている。いつも実験後に議論を、とは言わないが、必要なときがあると私はそう考えてきた。

 

今回のこの本にも、興味深い指摘とそうは言えないという指摘が混じっていて、賛同したい人も批判したい人も読むといいと思う。

「民主主義が最後の奴隷制だ」という板倉の指摘などは、その通りだ。かつてチャーチルが1947年の下院演説で「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」や若い頃の体験に範をとっていると思われるが、少数者の声をいかに聞くかというきわめて今日的な問題といえる。

 

他方で、問題な指摘も存在している。例えば、正義を強要するからいじめが発生するといういじめ論。板倉が指摘するような場合があるのだが、それがいじめの原因だといってしまうと部分的な正しさにもかかわらず誤ってしまう。親密圏におけるいじめなどにはあてはまらない。また、楽しい授業で解決すると言ってしまうのも言い過ぎ。それは作り出したらいいが、それで解決というわけにはいかない。この辺りは言い過ぎというか、データ不足な主張に思われる。

社会の法則性に関する基準の立て方も、同じように、「良さ」と「どうかな」が混在している。事実に即してさらに検討して欲しいと言っている本として読んだ。

 

 

 

 

| | 07:07 | comments(2) | - |
誰が何を

何種類か持っている外貨の一つのベラルーシ・ルーブル。

上が1000で下が50000ベラルーシ・ルーブル。今朝調べたら、1000が約6円と表示された。50000ベラルーシ・ルーブルで300円。日本国内の普通の銀行では交換してくれないらしい。

日本円にするとわずかだが、関連の支援団体に寄付しようと思いつつ、ずっと忘れている。

チェルノブイリ子ども基金が長年の支援に対してベラルーシから表彰されたと聞いた。そこに送ろう。

 

ところで、何をなすべきか?はいつでも迷うところ。

そういうタイトルの本だったか論文だったかを昔見て、そのヒントがあるのかと思って読み始めて、なんだか関係なさそうな話が続いていて、途中で止めた記憶がある。

 

誰こそが何をすべきかを厳しく考えると、自分でなくてもいいとか、それをしなくてもいいということになる。緩く考えるとなすべきことが多すぎて無理となる。

言うことでも同じことがある。言わな過ぎも言い過ぎも問題だ。ここでも「誰が誰に向かって語っているのだ」ということを疑わせてしまうようなことを言うのもおかしなことになる。

立場や関係ということをそれなりに踏まえないと愚かな!ということになる。

 

結局、何をするかを生活の連続性の中で並べ、思い出しながら歩み出す。

具体的には学会関連業務、研究会関連業務、講演の資料作成など、必須事項はいい。だが、必須でない事柄は難しい。

ほんとに何を言うべきかは難しい。


 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:51 | comments(0) | - |
決めつけ教育と考える教育

昨日の研究会では、多様な価値観に基づく異なる見方が交流する教育とはどんなものかをめぐって、主として、原発教育、フクシマ災害後の教育を念頭に提案が出された。

これについては後日、報告書を作成予定で、参加者には郵送料をもらって配布することにした。

 

次の学習指導要領に関わって、コンピテンシーの形成という方向があるとみるのは、大方の一致だ。だが、その方向に動くだろうか?あるいはどの程度動くだろうか?ここには楽観的観測と否定的観測の二つがある。これが論点の一つ。決めつけの教育がこのところ現実態では目につく。しかし、去年までは表向きは「考える○○」だった。さてどう動く。

 

もう一つは、上記と関連してコンピテンシーの概念だ。中教審は何でも飲み込んでしまった。とりわけ「人間性」と呼ぶ人格的側面を後半に含み混んでいる。

 

実際の授業をどうつくることになるかも大きな問題だ。

価値観の違いを本当に浮上させ、さらに、それぞれの見方を問い合うように授業を構成する方向へ動くだろうか。(それが必要だというこの一文が我々の大まかな研究的一致点といっていいだろう。)

これに関しては、昨日の研究会でも、楽観論と否定的観測とは混じっていたように思われる。

目に見える二つの見解の並列に終わるもの、そこを突破して二つの見解を支える基準を露わにし、その基準の考え方を問いあう実践が広がるだろうか?例えば、ベスト・ミックス論を紹介して終わっていた教研集会の実践報告があったそうだが、その水準は多様な価値観をコンピテンシー形成的な授業ではない。メリット・デメリットの根拠を何ら検討していない。実施は中電の宣伝文と同じだからだ。その先を行く実践もすでに存在しているのだが、それが広く展開されることになるだろうか。問題はそこだ。

 

そんなことを考えながら20時発ののぞみに乗った。

 

今日は、おそらく楽観というよりは期待することにしている派というような立ち位置か?断定はしないで話は聞くのがいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:44 | comments(4) | - |
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