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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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愛知県歴教協50年史

どのようなサークルであれ、50年続くというのは偉大なことだ。

3年続けばホンモノだと思っているが、50年というのは多くの人の精力を傾けた活動なしにありえない。

 

私はエッセイのようなものを書く才能にも恵まれておらず困ったのだが、本書に刈谷での研究会の模様を断片的に記してみた。

 

刈谷の研究会は、山田さん、柴田さん、荒木さん、杉浦さん、安藤さん、内藤さん、佐野さん、時々岡崎の有馬さんと片山さんといった方々と地域教材の取りあげ方をめぐって延々と議論していた。

時に夜の11時近くなることもあった。この会への参加は、ゾウ列車のおじさんの家に電話をしたことに始まる。そのことを何の含蓄もなく記した。

 

愛知県の創立の頃は全く知らないが、聞いたところでは、3度目の設立なのだという。

最初は1949年の創立と共に全国の会へ個人が参加するだけ。二度目は、1955年に名古屋で産声を上げたのだという。だが、数年でそれぞれが多忙になって自然消滅。

三度目が栗本さんと小出さんが出会って、設立に到ったという。栗本さんは1953年が新任らしいが、当時女性差別、学校歴差別に苦しんだことが語られた。それから2年経って二度目の会が設立された。この時期のことはもう少し詳しく聞いてみたいもの。

今話を時々聞いているセツルメント運動の草創期と時期が重なる。

 

ゾウ列車のおじさんがおじいさんになっていたが、絵本制作に到る前の「掘り起こし」と、二度の改訂、合唱団となっていく経緯を詳しく書くように宿題を出してあげた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | 07:30 | comments(1) | - |
教育効果の高い学校を都合良く解釈してみた

新教育課程説明会の資料に、「教育効果の高い学校での取組み」という項目があり、データが並べられている。

その数字を私の恣意で解釈してみた。

あくまで恣意的解釈だという自覚の元の言明で遊び半分、半分は本気と受け取ってもらわないと困る。

 

まず、全国学テの結果を活用した学校かどうか。

小学校 国語A
教育効果の高い学校 教育効果の低い学校
よく行った
40.0%       20.0%
どちらかといえば 行った
56.7%       63.3%
あまり行っていな い
3.3%        16.7%

全国学テの練習をたくさんすると、平均点が上がるらしい。テスト対策禁止と言っていたはずだが。

 

習熟度別の取り組み方

小学校 算数A
教育効果の高い学校 教育効果の低い学校
1学級を2つ以上の学習集団に分 けた
66.7%       36.7%
複数の学級から、学級とは別の2つ以上の学習集団に分けた
20.0%       13.3%

能力別編成がダメで、少人数を実施していないところは点が低いなら、学級の人数を少なくしろということだろ。

 

教師が学校外で研修をよく行っているかどうか

中学校 国語A
教育効果の高い学校 教育効果の低い学校
よくしている

43.3%                   3.3%
どちらかといえば している
50.0%                   80.0%

研修に外に出られる体制がある。でられないほど忙しい学校はだめということだから、ここでも人の数が多くないと得点が低いとなる。


教師の人数を増やせという結論だけはでる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:29 | comments(0) | - |
「対話学習」?

毎日新聞の教育欄の記事見出しに「対話学習」とあった。

その記事を見つけてから、書き出しを読み始めるまでの数秒を文字にすると、以下のようになる。

 

従来、国語科のなかに「言語力重視」などという方針が掲げられて、いくつかのコミュニケーションの型を体験する小単元や課題を設定する教科書が登場したので、それのことか?と最初は思った。

しかし、新学習指導要領関連のシリーズ記事の一つらしいので、言語力重視方針は変更されているからそうではないだろうと、すぐに気がつく。

これは、ALを授業に取り入れたつもりの記事らしい。すると、「対話学習」というのは、授業における話し合いのことらしい。写真からすると、グループか班話し合いを「対話学習」と言っているようだ。

子どもの発話が記事でそのニュアンスを正確に表現しているとすれば、これは、協同学習論か学びの共同体論の手法にのっているらしい。

二つの意味で、ヘンな言葉遣いだとざらつく。

対話は、原則として二人だ。数人でやってるのがヘン。

対話学習というと、対話を学んでいるニュアンスがあるが、記事ではそういう学習の形態のようだ。そういう場合、教育方法学では対話学習と言わない。学校教師文化の世界でもおそらく少数派の言葉遣い。

この二つが奇異な感じを与えている。だからもうちょっとだけ調べた方がいいよと思った。

 

ALを行うことは難しくない。特定の型とパターンを決めてその通りにと考えると、その型にあったあわないとなるだけだ。

それはつまらない。

教える内容にふさわしい学習活動だったかと考えて欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:36 | comments(0) | - |
着陸?不時着?墜落?

米軍ヘリがまた「落ちた」。

朝日とNHKは、「着陸」。

毎日と読売は、「不時着」。

 

予定外の場所に機体がほぼ燃え切った状態になって、「着陸」はないだろう。

ネット辞書には不時着とは「航空機が、故障や燃料欠乏等のため、初めに予定しなかった場所に降りること」とある。予定外の場所に降りているから「不時着」の範囲内に入ることにして、危険性を緩和した表現に見せたいのだろう。

だが、すぐに燃え切っている。「不時着」だろうか、「墜落」だろうか。

曖昧に政治的意図を読むことができる。

 

現在、「資質・能力」論について原稿を書いている。

この言葉も曖昧だ。議論の大まかな経緯があって持ち込まれているが、定義らしい定義はない。

いろんな要素を持ち込んでいる。

書き出しは、社会論。それが子ども論になり、子どもの人間像になる。それが教育論になって、知識も能力も態度も性向もみんな持ち込んでいる。

みんな持ち込んでいるのに、個別教科の単元のところになると定型的表現になる。

面妖な概念。

この面妖な概念ベースの教育に変えるという。

何とも面妖。

 

この面妖をどう評価する?

面妖だから、好きに組み替えるという議論がある。わたしは、それに賛同しない。

いつか記した魯迅の「阿Q正伝」の「「精神勝利法」にすぎない(馬鹿にされても負けても、心の中で都合よく自分の勝利と思い込むことでプライドを守る幻想)。それと同じ思い方で最後は決着させる。そんなことなら学問は要らない。

 

曖昧に包まれた中心は、誤謬・謬見の塊だ。周辺に希望があるからと面妖を評価することはできない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 社会 | 07:08 | comments(0) | - |
ジャッジではなく通訳という例え

学会発表の実践紹介の分析部分に、以下のような表現があった。

 

大人はジャッジから通訳へ

(浅井幸子、黒田友紀、望月一枝、柴田万里子、ほかの子どもと女性教師のエンパワメントを促す学校改革、より)

 

わかりやすいのでいいなと思った。

子ども同士のトラブルの場合がまずは想定されているようだった。だが、それだけでなく授業にもそう考えておくといいと思われる見方だと思われた。

例えば、正しいか正しくないかを教師が決める授業に対して、どう言っているのかを他の子に聞いてみたり、どういう趣旨の発言かを全体に問いかけてみたりという教師の活動を説明する言葉になりそうだ。

教師がすべてを判定する授業は、真理を教師が独占しているだけではなくて、子ども相互の関わりも奪ってしまうのでよくないという趣旨に受け取った。

 

ただ、これは、教授学研究の中では、だいぶ前から「媒介としての指導」という把握として提唱されてきたことだ。そういうことを知っていてくれてるのかどうか聞いてみたい気がちょっとしたが、表現としては大変わかりやすい。

 

ジャッジから通訳へ

 

しばらく使ってみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:10 | comments(0) | - |
公開シンポから

日本教育方法学会の公開シンポの写真を送ってくれた方がいて利用。

登壇している右端が私。お隣が福井大の遠藤さん。シンポジストとしてお話し中が千葉大の大田さん。シンポジスト席が和光大の梅原さんと東大の本田さん。

 

公式のシンポの概要は来年の紀要に掲載される。

備忘録にもならないが、考えるべきだと思った点を二つか三つ。

 

一つは、新学習指導要領は統制の強化だという点で共通理解があったこと。その上で、どこに自由を見いだしていくか。ここには楽観論と悲観論がとらえ方の違いとしてあった。非系統的なまま統制だけ強化と悲観的だったのは大田さん。

 

二つは、「資質・能力論」のとらえ方。本田氏は、資質・能力の中心が教基法・学校教育法の態度目標に限りなく近いとした。これには異なる見方がいくつか出された。人格あるいは人間性との関係、キャラクターという言葉との関連など、これについては問題提起がそれぞれあったに留まったが、有意義な意見交換だったと思う。コンピテンシー概念と同様、あれこれ飲み込んで肥大させられるにちがいと私は見ている。

 

三つは、学校現場的には、学習指導要領の分析的検討ではなくて、すでに棚上げが始まっている印象を受けた。30%あまり学習指導要領は増量されたが、書いた人々の権力的努力に対して「棚上げ」気分が広がっていると感じた。この気分は、諦念と強く結びついているので、ある種の無視だが現実変革には作用しない。実践を開拓する方向の探求は、原因分析と共にでなければ道は開けない。

「資質・能力論」の解析と共に、「資質・能力」ではなくて「何を教えるか」を視点に検討する道が「なんとしても」・・と考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 06:23 | comments(0) | - |
語るに足る

FDで語りあえば、力量がアップすると述べた登壇者がいた。

私は、それは誤りだと述べた。

友達づくりをしているのではない。専門家養成を意図しているのである。

語るに足る自身をつくらねばならない。語りが聞くに足る内容であるためには、一定の作法に則って語られねばならない。専門性を持って語られた内容であればこそ、聞くことに、語り合うことに意義が生まれる。

その作法を意図的に学ぶ場が無く通過してきたのでは専門家とは言えない。

 

受け取った「教育方法43」の安彦論文は、今回の学習指導要領を批判するものであった。それは、戦後の学習指導要領の改訂ごとの違いを提示しながら、統制を強めた物であることを描いていた。ここには作法がある。安彦氏は前回までは、学習指導要領の作成責任者といってもいい位置にいた。その氏が批判の議論を展開している。保守リベラルの見地からも腹にすえかねる内容であったのであろう。それでもただダメだと言うのではなく、どの点でどこが違っていて、その違いの意味を示めそうとする。そこに作法がある。

これなしだったとしたら説得力はない。

語るに足る自身をつくらねばならない。専門性とはそうしたもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 05:41 | comments(0) | - |
研究と非研究

研究入門者への手ほどきをどうするかが各学会とも話題となっている。

後継者養成ということもあるが、それだけではなくて、研究水準の維持向上をどうはかるかを組織的に考えなければならないという状況があると考えられているからである。少子化の中で優秀な研究者の確保ということもあるし、研究者へのルートの多様化もあって、この課題を意識させることになっている。

 

かなり多くの学会が若手支援の委員会のようなものを組織し始めている。様々な取り組みが始まっているのだが、その一つに研究論文の書き方がある。

そもそも研究とは何か、という問いと作法が学会レベルで取り組まれる必要がありそうなのだ。

 

研究には存在の発見と発明とがある。二つは全く異なるが、そういうことは考えたことがないままの入門者もかなりいるようなのだ。重力波の観測は存在の発見、観測方法は発明。教育研究にも両方ある。とりわけ教育方法学には両方ある。しかし、例えば、「ただ工夫しました」、「実践しました」では研究にはならない。

研究とはかならず現状の批判だが、何の批判もない現状の反復に終わっているものが多数ある。

普遍妥当的なこと、「雨の日は天気が悪い」のような文章がかなりある。研究は、先行研究への批判がなければならない。先行研究とは違う自分の発見や発明がどこかになければならない。

ひどく当たり前のことなのだが、これがないものが学校内研究にはやたらと多い。

主張も主張と言えるためには、意味のある主張なければならない。「がんばる精神が重要」のような単なる気持ちのようなものは研究的な意味の主張ではない。
先日の会議では、引用論文の書き方のようなことから始める必要も語られた。私の場合は、最初に論文のようなものを書くときはマネから覚えた。また、学会によって表記順に違いがあること、それらに名付けがあることなどは研究生活に入って少し経ってからだった。
そして一番の問題は、どんなテーマを選ぶかだ。そんな今だけのテーマを選んではゴミが出るだけとなる可能性が高い。他方で、いつまで経っても結果が出ないテーマもある。ここは本当に難しい。
しかし、ここも現状批判の的確さが決めるように思う。
| 暮らし | 05:03 | comments(0) | - |
方法学会道徳の報告集刊行

6月10日に開催した日本教育方法学会第20回研究集会報告書『『特別の教科 道徳」への対応を検討する』が刊行されました。

 

本書には、慶応大学で開催した時にご報告いただいたお二人の論考と資料が所収されています。(私はご挨拶文)

松下良平さんは、「道徳の可能性と課題ー『考え、議論する道徳』の再定義にむけてー」と題して、6月の報告にさらに加筆していただきました。

道徳の授業の全体像を考え直す上で貴重な枠組みを提供していただけてると思います。

 

もう一つ、塩崎義明さんには、「道徳の授業を、感動を超えた事実と出会う出発点に」と題してオリンピックの本当の意味を考える実践を寄稿していただきました。

 

今日からの学会に参加いただくと会員には無料で配布されます。

非会員には残部が出た場合はどうだったか、忘れました。調べておきます。わかり次第、後日ここに加筆します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| | 00:29 | comments(0) | - |
課題を考えながら

明日は、「新学習指導要領にどう向きあうか」という教育方法学会の公開シンポがある。だから、その席で何を考えたらいいだろうかと考える。

科研の申請をしておかねばならないらしいので、申請書のテーマを途中まで記していた。課題を設定しないといけない。
カリキュラム学会の課題研究などの課題設定をとりまとめる業務があって、これまた課題案を考える業務を行っていた。
さらに、来週に迫った原稿締め切りの中身を考えていた。これも、新学習指導要領に関連するテーマでこれまた何を考えるといいかを考えて、一行書いては「どうかな」と止まる。
どうもこのところ、何を考えるべきかを考える業務が続く。
これは正解がない。読むべき資料は探そうとすると膨大に出てくる。
何が言いたいのかはっきりしない文章にであうと、「なんだこれ!」と思うものもある。
何を言いたいのかがわかりやすすぎるものを見るのは、「つまらん!」面白くないと強く思う。
そこで、大局的に眺めるには、もう一度、元資料を目の前におくことか。

 

 

| 暮らし | 09:10 | comments(0) | - |
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