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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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地域を生きる子どもと教師

中野譲、高文研、1900円と税金。

『学びに取り組む教師』にも執筆いただいた中野さんの個人実践史的単著。

 

遊びの場であった川の生態や開発を考えることになる授業の記録、卵や野菜を育てる実践など、およそ20年あまりの間の実践が採録されている。かつて発表したものに加筆されていて、周辺的状況や子どもたちのその後なども付け加わっている。

 

中野実践の特質は、川や作物など地域にあって、変化しつつあるとはいえ、人が勝手には変えられない性格のものに子どもたちを関わらせていく点にある。この意味は、自己や自己中心の世界に対して、その意のままにならない存在を目の前に立たせることから生まれてくるようだ。また、人がどう関わるかが作物に現れもすることで、子どもたちの意図や論理とは無関係に存在するものを意識化させ、自身の向き合い方を再考させる点にある。

 

もう一つは、自然や食物に学級やグループで関わる過程で、他者との関係の仕方やその意識を表出させたり考え直させることになっている。他者の排除となる会話の応酬を、それだけを捉えて道徳主義的に迫るのではなく物づくりの中で意識させている。

 

以上の二つ、すなわち客観世界との交わり方、自己を取り巻く人間世界との交わり方をものを調べ育てながらの実践に特質がある。

 

だが、実践にも変化発展があるようだ。

例えば、21世紀の始まりの頃は、ディベート的討論を意図的に組織していた。だがやがてそれは前面に出なくなっている。早計な判断を控えるようになっているように思われる。

この辺りはご本人に聞いてみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| | 00:01 | comments(0) | - |
話題のグアム

グアムにミサイルだかなんだを飛ばすとか、飛ばしたいとか、撃墜できるといいなとか、無理だろうとかワアワアと言い合っている。ほんとうに飛ぶまでは無邪気な子どものようだ。この無邪気は大人の偽装だ。

 

昨日は、そのグアムを占領していた日本軍が「玉砕」という全滅をした日だった。

読みかけの西村京太郎の『十五歳の戦争』集英社によれば、つくることにされた防空壕は当時の爆弾が落ちたら役に立たないとすぐにわかったという。現代の武器ではなおさらだ。

 

西村京太郎が陸軍幼年学校経由とは知らなかった。西村は当時のエリート中のエリートということになる。西村が言うには、そこを志望したのは、十九歳で徴兵されたとき士官になっているために志望したと言う。この事例から、子どもが純粋というのは嘘だと西村は断言する。私もそう考えてきた。子どもが純真とか純粋とかいうのは幻想だ。無邪気とは、限度を知らない餓鬼のことだ。松本清張の伊豆を舞台にした小説もそういうトーンで書かれていたものがあった。

そういえば、以前の同僚にも幼年学校出身者がいた。日常は礼儀正しくきちっとした印象の方であった。生まれがどちらも1930年、入校してすぐに敗戦となった。

 

人はなんてだまされやすいのだろう。鬼でさえ邪鬼が無いと呼んでしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 00:25 | comments(0) | - |
弁護士によるいじめ予防授業

電車のチケット予約のついでに大型書店による。教育書コーナーの新刊を一応チェック。大半は手に取る価値なしと一瞥。手に取ったのは、中教審系エピゴーネンと思われるN氏の新刊が一つ。説明の柱の頁を確認すると「実はと言いながら反復」で、まなざしはマイナスにさらに振れた。

 

他方購入したのが見出しの本。正確には奥付が長い。

第二東京弁護士会子どもの権利に関する委員会法教育の普及・推進に関する委員会編著、『小学生のための弁護士による予防授業』清水書院、1500円と税金。

 

本書は、小学生向けだということ、予防つまり発生している事態に対してではないという前提で読むべきことがタイトルに現れている。

道徳の教科化の中で、授業として取りあげることとされている社会状況の中で、単にいじめは絶対だめとしかいわない規範主義的なお話しよりずっと憲法的な論理と人道的な主張が明確だ。

すなわち、人は誰でも幸福に生きる権利があると言う観点からいじめの違法性や倫理的批判が一貫して示されている。

 

事例としては、いじめられて自殺を図ろうとした子どもの手紙が取りあげられるなど、一定の配慮のもとに基本的ないじめの見方や対応を子どもに示そうとしている。

遺書の事例では、誰がいじめに関係しているか、いじめを理由があれば合理化できるのか、いじめられた人やいじめを目撃した場合の対応を考えるプラン等が低学年から高学年向けに配置されている。

 

このプランで「いじめ予防」がすべてできるわけではないが、いじめの違法性を幸福追求権という観点から明確にしている点では参照していいと読んだ。この論理を明確につかむ点でわかりやすい構成となっている。つまらない説教調の道徳の授業よりずっといい。

(難を言えば、いじめたくなってしまう暮らしや社会関係へのまなざしがプランの中にもあるとさらにいいなあ、という感じ)

ただこれはやはり「予防」であり、弁護士の方々の貴重な取り組みと捉えるべき。実際にいじめ・いじめられ関係がクラスに存在していると考えるとこれでは足りない。具体的な関係状況を解きほぐす具体的活動が必須だからである。そこは、弁護士ではなく、教師たちこそが登場する必要がある。

 

 

 

 


 

 

 

 

| | 07:35 | comments(0) | - |
オープン・キャンパス

9日から11日まで勤務先のオープンキャンパス。

私は、今日が担当となっているが、入試の仕組みを聞かれてもわからない。前職では何度か担当してきたが、ここはまだ入試を体験していないからわからない。入学後のこともこの大学固有のこととなるとわからないことが多い。わかるのは教育や教師をめざすとは何を選択することなのかの一部。

 

写真は、学生が火曜日に風船でつくったデコレーション。

昼ご飯が割り引きになっているらしい。
今時はかような催しに高校3年生はほとんど来ない。1年か2年。そんな早く来てどうするのかなと思うがなぜか早い。高校が夏休みの宿題のようにしている所為だろうが、なんだか違う気がする。
私ならこういう企画に参加しない。
矢内原忠雄のように昔の人も、勝手に見に行った人はいたようだが、お膳立てされたものをみて何を知ろうというのだろう。
90年代徐々に広がりはじめ、21世紀に一挙に拡大したらしい風景。
一体何人がやって来るのだろう。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| - | 00:16 | comments(0) | - |
事実を取り出す

私の部屋にはチェルノブイリ子ども基金のカレンダーがある。

このカレンダーはよくできている。

そう思う一番の理由は、矛盾しそうな二つを事実に基づいて提出し、同時に主張しているからである。

 

2年前にベラルーシを訪問した時に、ミンスクやゴメリそれからナデジダでお会いした何人かの方々がそこには映っている。

チェルノブイリ原発の放射能を浴びて被爆したことが原因の甲状腺がんの手術をした人、その人が今では30歳代となって家族をつくり子どもと映っている月のカレンダーもある。

他方では、被爆の影響で体調不良が続いている人、生まれた子どももガンの人の写真、あるいは祖母と水浴びをしている写真を撮ってからしばらくして亡くなってしまったと説明書きのある月のカレンダーもある。

つまり、放射線を浴びたり、甲状腺ガンの手術を受けたからといって、結婚できないとか子どもを持てないということはないことを事実としてはっきりと示す。他方で、断固としてその放射能被爆の影響が今も続いていることもはっきりと示す。

そういうカレンダーとなっている。

 

「もう影響がない」と帰還困難地域を危険なままに解除してしまったり、「風評だ」と不備を隠してしまうことをしていないのである。事実をそのまま提示する努力がカレンダーの構成に見ることができるのである。

不都合なことを示さないのではなく、率直に広く提出する。このことがほんとうに大事だと福島に行って帰ってきて思う。

 

とりわけ「隠蔽体質内閣」がこのところ続く中では誠に大事だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 社会 | 06:45 | comments(0) | - |
ディベートは国語じゃない

「ディベートは国語じゃない」という発言を聞いた。

発言者は国語教師。

国語の教師としても実績のある人の発言であった。

 

これは何を意味しているのか。

文脈からすると、論理ばかりを追求していて、言葉あるいはコミュニケーションの総合性が失われた活動であり、国語もしくは日本語教育ではない、ということと受け取った。失われているものとは、例えば、内容にかかわる感情などのことだろう。

 

国語・日本語教育ではないと述べながら、この手法を採用する他教科も同時に批判したのだと解される。すなわち、述べたいことがあるわけでもないのに語るディベートで社会的テーマを取りあげても、そこに「声」(人の熱を伴った語り)はないのではないか。そんな音の行き交いを社会科と言うのか!という批判である。

 

傾聴に値しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:12 | comments(0) | - |
WS形骸化の中でリアリティを

福島駅近くの岳陽中学校の放射線量。毎時で0.123マイクロシーベルトという数値は、基準の6割ぐらいなので、基準内だが高い。

 

福島原発事件から6年半あまり、フクシマからの距離に応じて記憶も切実感も薄れる傾向がある。

他方で、教育実践は、ALの流行・ワークショップ(WS)的活動の流行がある。その中で、ALやWSの形骸化すなわち学習者の感想・認識表現の定型化が進行している。

 

これに対して、リアリティの回復が喫緊の課題。これがあるかないかが教材研究の当否と並んで実践の質を決定する。つまり、定型化されたWSを反復する実践は問題外なのだ。

 

そういう立ち話を福島の教師とした。福島でも、リアリティを生み出す取り組みを新たに織り込んでからでなければ、福島の柱となる学習活動は成立しない。これは、だから、学習者の学ぶ時と場所と状況と切り結んだ変換が必須だということである。

定型化された学習、マニュアル化された進行では学びの不成立といっていいのだということ、だからフクシマから遠くても成立するとも言えるし、近くても成立しなくなるのだと述べた。

 

今日は、静岡。

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 06:53 | comments(0) | - |
原爆忌に福島

原爆忌に広島にいたことはあるが、今年ははじめて福島にいる。

戦争法以後にある社会で平和の希求は格別に意義深い。

 

安心をフクシマとの関連でいかに考えるかは、論争的だ。

米の全袋検査によって放射性物質は昨年は検出されていない。だからその限りで安全と言える。だが問題は、その検査機器で検出できているのかという問いが提出されている。これに事実で応答する必要がある。検出限界値や検出可能な放射性物質に限定がある。そこを示した方が、その検査を行っていない産品より安全ということが伝わるように思われる。

また、これは、米だけで、他は全部を検査する体制が整っていないものが多々ある。一番は魚類。これは全くといっていいほど無意味な状況にある。フクシマの港に水揚げしているわけではないからである。

そういう国でそういう対応しかしない政権で暮らすということを考えなければならない。

 

昨日の伊藤報告は、WSの問題点を明瞭に示すものとなっていた。WSの外形的活動性が貧困な学習を生む。これを超えるにはリアリティだという提起がそこにあった。ここに学びたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:21 | comments(0) | - |
探索の旅

まもなく福島と静岡に向かって移動を開始する。

目的は、実践を探すことが第一。

第二は、私が報告をするため。

その他数え上げると色々あるが、上記の二つ。

 

ずっと昔のこうした研究会への参加に触れた文章を読むと違った目的に出会うことがある。

多いのは啓蒙的動機である。

啓蒙する側であったり、啓蒙される側であったりと立場は異なるがこの二つが上位にあるという実感がある。(実感であって数ではない。)私が読んでいるぐらいだから、当時はまだ無名であることもあるが、比較的有名な研究者であったり実践者であったりする。

その次は仲間作りというのか、同士の発見というのか、そういう人を探すことが目的となっている気がする。

戦中は上からのアジ演説みたいなものが多かったようだ。

戦後はコア連の研究会、民科や草創期の民間研究団体への参加記に上記に該当するものがある。なにより文部省筋に近いところのものは、最初は啓蒙的な性格ではじまるが、すぐに研究であることをやめて研修となり、命令一下の伝達講習という儀式という性格を極端に強めている。

 

啓蒙的性格をじょじょに民間団体は弱めるが、一つの方式を発見すると絶えず啓蒙化の顔がのぞくことがある。しかし、これを正す人々が他方にいる場合には前進する。遠山啓に関する著作広告を昨日見つけたが、氏の業績は偉大だと思うが、これを絶対化すると量の指導の範囲で終わっていた。量分数と割合分数の間のような教育実践的な地平は開かれなかったに違いないと思う。同様のことが各種団体に言える。

実践研究的発見も絶えず見直される対象に、つまり批判の対象にする団体と個人だけが今を前に進める。そういう発見をそういうまなざしを持って出かけたいと思う。

 

かつて大西忠治が仕切る分科会にいたことがある。氏は、報告文書に赤い書き込みが満載されていた。読み研の線引きはそこからきているのではないかと思う。

私は中心部分にしかメモを残さないが、氏の姿勢はそこに現れていたと思う。(ただし分科会運営がよかったかどうか意見があるかもしれない。)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:45 | comments(0) | - |
愛知の教員育成指標案

「愛知県教員育成指標」の案が示されて、パブコメになっている。

 

教員版と校長版、養護教諭版、栄養教諭版の4つが示されている。

残念ながら項目数が多い方に属するものとなり、多い割に項目の一つ一つは包括的でごたごたした文で項目間の重複を感じさせる。

以下のサイトアドレスから中身を読むことができる。なお、グーグルの教員版のアドレスは間違っていてたどり着けない。

http://www.pref.aichi.jp/soshiki/kyosyokuin/sihyou-an.html

 

教諭版の学習指導の第一ステージには次の項目が並ぶ。

・適切な発問や読みやすい板書、意図的な環境の構成などの基本的な授業力を身に付け、児童生徒の主体的な学びを引き出す指導力を培うとともに、個に応じた指導を行おうとする。
・児童生徒の実態を把握し、授業のねらいを明確にして教材教具の工夫をするなど、事前の教材研究の大切さを理解して授業をする。
・他の教員から学ぶなど自分の指導を改善しようとする向上心をもつ。

 

発問や板書と具体的な事柄の書き出しが授業力という包括的な言い回しに着地し、主体的な学びを引き出す指導力とさらに包括的表現となり、できれば「個に応じた」方がいいみたいな弱含みな表現。授業力と指導力の包含関係が分からない。個に応じるとの関係も不明だ。次の項目は教材研究のことらしいが、独立しているところを見ると、教材研究と授業力や指導力は関係ないらしい。

つまり、項目内での言葉の相互関係がよく分からない。よく分からない方がいいとも言えるし、ご都合主義的に悪用される危険もあるとも言える。ともかく、要するに変だろう。

 

同じく学習指導の第三ステージでは、次の項目となっている。

・高い専門性を基に、周りにある教育資産や新しい指導方法を効果的に取り入れ、他の教員の模範となる授業を行う。
・学力向上や授業改善、授業評価などの視点を常にもち、学年や教科の授業改善をリードする。
・学校全体の学習指導上の諸課題を把握し、校内の教育課程や授業づくりについて改善の視点で考え、組織的に実践を進める。

 

教育資産は教育資源の間違いだろう。ほぼ「改善」のオンパレードだ。だが、冷静に考えれば、第一ステージに書かれた「基本の授業力」あるいは「指導力」で十分じゃないだろうか。

子ども理解という枠組みが別にあるが、学習指導とも重なっている。

「子どもを理解しながら教材研究に基づいた授業を実施する」で要するに十二分ではないか。

 

一覧表づくりは担当した人にとって大変だったに違いないのだが、表を埋める発想がごたごたを引き起こす。問われているのは教委のマネジメント力かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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