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久しぶりに

久しぶりに横浜の友人と会う。

当時よりは、今を聞く。これからの難しい時間をどう暮らすのか歓談。
教師が教えたいと思うことをそのまま無垢に教えようとしてしまう実践報告があって、それを教師の権力性という言葉で指摘する言い回しがあった。そういう風にも言えるのだが、実践者の側の実感は少し違うように思う。
教える側の存在の意味に関わっているのではないだろうか。
教えたい内容の大枠について、概要的にはつかまえているものの、内容の把握あるいは取り組む手がかりがおそらく十分でない。だが、それ以上に、学ぶ側をどんな存在とみるかに課題もある。
学び手をつい啓蒙する存在と見てしまう。相手を下に見て、教師と同じ考え方を増やすとだけつかむような見方である。
あるいは啓蒙される存在とみるよりは、学び手に教師が挑む存在と見る方もある。ここでは教師本人が思っているよりは学び手と意外にも張り合ってしまう存在と見ていることがある。そこには受け入れるだけの存在とは別で、独立した存在という見方を持ち始めているが、張り合っているが故に挑んで征服してしまう可能性がある見方でもある。
どちらの場合であれ啓蒙にも制服にも失敗し続けると、教える側の自己否定につながる場合がある。それは認めにくいと思ってしまう反応もある。この経験を繰り返すと、教えたい内容が学び手につかまれたように見える言動に子どもを誘導してしまうのではないか。
どちらであれ、その判断の起点になっているのは意味の問題である。
どこで転回するのか。
途中書いてきた事柄が全て転回点となるのではないか。
概要止まりの内容把握を一歩超えること。
一方的情報源とは異なる出会いを学び手が経験するアプローチをとること。
学び手を啓蒙や挑む存在ではなく、また新たに認識を再構築すると言うよりも、問題提起と学び手なりの認識の自己形成を支援するという把握が必要なのではないか。
そういう風に思われた。
| 暮らし | 07:51 | comments(1) | - |
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| - | 07:51 | - | - |
コメント
分かりにくい表現を訂正。少しすっきりしたでしょうか。
| KOYASU | 2018/08/06 5:46 PM |
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