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子ども共通の反応と異なる反応

部屋の資料整理をしていると「日韓歴史教育東京シンポジウム開催要項」が出てきた。

1994年にはじまり、1997年の8月14日、初めての日本開催とある。記憶が薄れているが、神田の明治大学に何となく出かけた記憶がある。その要項の石渡さんの挨拶文に、山本典人さんが韓国の子どもたちにベルリンオリンピックのソンキジュ氏の日の丸抹消報道を教材とした授業を行ったところ、日本のこどもたちと同じ反応をする部分があることに言及している。

なぜ、日の丸をつけて走ったのか、また、なぜ写真から日の丸を抹消したのかについて類似の反応があったという。

 

私は、同じ反応もするし異なる反応もするように思われる。

たしかに、同じ反応がある。それぞれ近代国民国家で暮らしているので、その枠組みが小学生にも作用していて、それぞれの国の人はそれぞれの国旗を国際大会ではつけるものという常識を教えられなくても持っているのが当然なのだろうと思う。たしかに、それぞれの国の子がそう思っている。これは近代国民国家の枠組みで考えるという共通性の一つだが、同時に子どもは自分をそれぞれの国家に帰属させて、その側からなぜか出来事を捉えた見方を開陳する。この側面では異なる反応となる。疑問に思うことなくそれぞれの居住する国家の側から見ていることが多いのである。同じ国家を巡る眼差しにも共通性と違いがある。

これが不思議でこの研究会に機会あるごとに以後参加している。

 

不思議に思わない人に出会うと、不思議に思わないことが不思議で私はひどく驚く。そうなる仕組みはもう解明されているのか!と以前は思ったのだが、近年はそういう人を信じていない。たいてい「当然じゃないか?!」という反応に過ぎないことが多いからだ。

自分を一方の側に躊躇することなく同化できて、そっちの側の眼差しで発言することに違和感を持たないでいられることを不思議に思う。例えば、歴史で言えば、片方の側がいつも正しかったなどということがないなかで不思議に映るのである。もっと別の側面で考えても同じだ。

知り合いの数や親密さ時間など差も大きいのだが、その差を軽々と超えていく人も多い。そんなことを考えると、不思議は続くのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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