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教育における偏向とは何か

話題の方が「皆さんが偏向している」とか「教育勅語の暗唱の何がいけない!」などと語ったと報道されている。この方は、教育における偏向と個人の「思想」の区別ができていない。

 

一人一人は、必ず小さい子どもも含めて皆それぞれ思想を持っている。持っている思想は、皆それぞれ同じでないという意味では個性的で偏っていると言えなくもない。だから、「皆さんの方が偏っている」という言い方は、この意味では自分が偏っていることを証明しているだけの無意味な発言となる。皆自分と同様に偏った思想を持っているからである。

 

ここで問題は、学校の目標や内容あるいは教育の方法が社会的に許されないものであるという点にある。

それぞれの社会は、土台となる規範や法を持っている。自由と平等を掲げる近代社会は、諸個人の様々な自由を承認しているが、誰かに従属させられること、強制されることを認めていない。強制を認める自由を承認していない。まして、公共的機関である学校にそれを認めていない。

だから、天皇のために死ぬことを最高の価値とした教育勅語は、今日の社会では認められない考え方となっている。これは、日本国憲法、その他の法律でも規定されている。国会でも議決した事柄である。そういう日本であることを国際的にも宣言し、承認を受けてきた。この原理と規定から外れているのは、「森友学園」の側であって、こうした場合に、偏向しているという言葉を使うのが通常の用法である。

したがって、「教育勅語の精神である日本が道義国家を目指すべきである」と稲田は答弁したが、とんでもない発言だ。教育勅語に現代に通用する道義は存在しない。孝行を直接には挙げたようだが、子が一方的に親に尽くすという考え方は、そこに上下関係を持ち込んでおり、子への強制・忍従を前提にしている。どのように親との関係をとるかは、それこそそれぞれの自由ではあるが、教育勅語のような不自然な関係は今日の社会では認められない関係と言うべきである。

 

教育は、そうした社会的合意の上に営まれ、その合意にしたがって教育活動を行う。そこから逸脱することは認められていない。そういう意味で教育はいつでも保守的な営みとされる。この合意は、社会的であるために、社会が変われば合意の中身も変わる。それは、法の形で決定されていることもあれば、社会的に広く承認されているという形のものもある。そうした中身が教育の公共性と呼ばれる。そこからの逸脱を偏向と呼ぶことが世間ではある。教育学では偏向という言い方はあまりしない。公共性のどの部分と関わるかによって教育の中立性や教育の公正性などと使うことが多い。「偏向教育」ということがあるが、これは教育する側がつまり国家や学校が一方的な見解を押しつけることを指す。こうした言葉の使い方からすると、それにあてはまるのはどちらかは明白と言うべきである。

 

教育勅語をよいものとする一部の人々がいるが、その成立と内容と歴史的役割をよく学ぶべきである。勅語を大切という人がなぜ虚偽をたくさん製造し、人を欺き続けるのか。そこには「國法ニ遵ヒ」とあるのだが?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 社会 | 07:41 | comments(1) | - |
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コメント
9字38分に後半にタイトルにより適合するように追記。
| koyasu | 2017/03/10 9:39 AM |
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