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教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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板倉聖宣セレクション1

板倉聖宣、仮説社、2013年、1900円と税金。

1963年に提唱されたという仮説実験授業。自然科学領域の授業書に関連する議論は確かに多いが、それに負けずに多いのが社会や教育に関わる発言。この本は、社会、とりわけ民主主義に関わる論考を集めた本。

 

仮説実験授業の批判は、かつて始まった頃にいくらか聞かれたが、その後はほとんど聞かない。それは、内容が面白くまっとうだからという要素もあるかもしれないが、批判されていい中身もいくつかあるように思う。

評価されていいのは理科関連の授業書だけではない。社会や「道徳」の授業書がある。ただ、内容的には吟味が必要な部分もある。「授業風」の「道徳」をしなければならないご時世に、参照されるべき先行研究が仮説研の「道徳」だ。仮説実験授業のいい点を認めた上で、どうかなという主張を選り分けるとこれまでに板倉氏や会員がつくってきた良い内容がもっと見えてくるに違いない。

 

理論枠に関わる手法についてだと次の点がある。おそらく、近代科学論を狭く捉えているせいかもしれないと推測しているが、誰かに確かめて欲しいものだと思っている。どういうことか。仮説選択の討論の後に実験をして、実験結果に関する解釈をしないと主張していたことがあった。これは、実験がすべてだとその理由の説明をかつてしていた。しかし、この点は必ずしも妥当とは思われない。真性の科学の場合には、すぐに結果の解釈をめぐって議論をすることがしばしば行われる。科学過程論研究をしていた時期に疑問に思って以来ずっと?をつけている。いつも実験後に議論を、とは言わないが、必要なときがあると私はそう考えてきた。

 

今回のこの本にも、興味深い指摘とそうは言えないという指摘が混じっていて、賛同したい人も批判したい人も読むといいと思う。

「民主主義が最後の奴隷制だ」という板倉の指摘などは、その通りだ。かつてチャーチルが1947年の下院演説で「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」や若い頃の体験に範をとっていると思われるが、少数者の声をいかに聞くかというきわめて今日的な問題といえる。

 

他方で、問題な指摘も存在している。例えば、正義を強要するからいじめが発生するといういじめ論。板倉が指摘するような場合があるのだが、それがいじめの原因だといってしまうと部分的な正しさにもかかわらず誤ってしまう。親密圏におけるいじめなどにはあてはまらない。また、楽しい授業で解決すると言ってしまうのも言い過ぎ。それは作り出したらいいが、それで解決というわけにはいかない。この辺りは言い過ぎというか、データ不足な主張に思われる。

社会の法則性に関する基準の立て方も、同じように、「良さ」と「どうかな」が混在している。事実に即してさらに検討して欲しいと言っている本として読んだ。

 

 

 

 

| | 07:07 | comments(2) | - |
戦後はいかに語られるかその2

数日前に取り上げたのだが、なんだか読めてない感じがして、昨日もう一度読んだ。成田龍一『『戦後」はいかに語られるか』河出書房新社。本日見出しの本があるわけではない。

 

メタレベルというのか、基本枠組みを構想した本なので、章によっては歴史というよりは小説と作家の話だったり、話が飛ぶので理解できていない所が何カ所もあって、再読。

 

結局わかったことは、a)戦争の体験世代、b)体験の証言を聞いた世代、c)体験が記憶の対象となった世代という3区分が基本となっていること。成田の議論は面白いが、説得力にどこか欠けるなと思うのは、c)記憶の世代とはどんな世代かが記されていない。もっぱらa)体験世代のつかみ方の批判で、どこにc)の特徴があるのかわからない。石田雄の著作の悔恨共同体の着想ではc)に通じないというばかりでc)の中身が明示的に表現されていないのが課題。c)の人は何人か挙げられているが、特質がなにかよくわからない。戦後が歴史になったとあるが、時代と世代が混じっているようにも読めた。

 

さて何だろう。

考え方としては、本題と無関係に参考になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

| | 07:17 | comments(0) | - |
「戦後」はいかに語られるか

成田龍一、河出書房新社、1400円と税金。

タイトルは言説研究的だが、「戦後という現代」という区切りをどこに求めるか、その特徴付けをどのように考えるのかについて主に論述した本。その眺め方を執拗に枠組みにおいて書いているのが「はじめに」、その後の章でもこうしたメタレベルの枠組みに関する論及が登場する。

成田は、戦後の枠組みが破壊されているときに、戦後の枠組みの擁護という視点だけでは戦えないと捉えて模索しているようだ。章ごとに検討の対象が異なることや、これが現代だと割り切って打ち出しているわけではないので、簡単に括って紹介できない。しかし、枠組みのとらえ方がいくつか紹介されているので、読み方の一つとして参照したい。

例えば、49頁の図表などのとらえ方は、これからも何度か見直そうと思った。そこには、現代を国際的にはグローバリゼーション、政権ではリベラルと保守の解体、経済的には新自由主義供⊆匆馘にはブラック、思想では「リアル」への接近、と描かれている。

それぞれをどう捉えるかはさらに検討したいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

| | 07:23 | comments(0) | - |
落語と歩く

田中敦、岩波書店、840円と税金。

1945年8月から2015年12月に刊行された落語の速記書籍類を対象に、そこに登場する地名とその地名を訪ね歩いた本。

 

巻末に北海道から沖縄、海外、架空の地名まで主なもの500が並んでいる。東京と大阪が圧倒的に多い。

 

何の意義があるかはわからないが読み進めた。

初めて知ったという気分になれた事柄は三つ。一つは、噺の中に出てくる平家物語の「祇園精舎の鐘の音」というのは作者の錯誤だということ。インドにある祇園精舎に鐘はない。(今はあるそうだ。21世紀になって日本から送った人がいるという。)

二つは、地獄極楽小路という通りが新潟市中央区にあること。

三つは、圓朝の創作には意外だったけれどアレクサンドル・デュマの「ポーリーヌ」が原作だということ。落語の創作をした人たちはいろいろ本を読んでいるらしい。

 

落語を歩くことに何の意義があるかは読み通してもわからなかったが、時代とともに演目の多様性が失われ、地名もどんどん変わり、風景も変わっていることを記している。失われゆくことに惜別の念を田中氏は抱いているらしい。

ただただ落語に登場する地名を歩く散歩と考えるなら、本書は誠に便利なガイドブック。落語の本を集め、そこに登場する地名を全国歩き回った田中氏としては、そんなものではない思いがあるようだ。戦中の作品が入らないのは戦争協力の影がそこにあるからだろう。触れてないがそうだとわかる記述がある。他に不適切な表現がそこにあることもわかる。コレクターとしてはこれらも含めて集めておきたいということらしい。一般向けには不適でも、そうした事実があったことを残しておくことに意義はあろう。

コレクターの一部には、それらを懐かしむ人が必ず登場する。その反省のない、未来に向かわない感覚がわたしに違和を生み出す。田中氏は、とにかく各地に落語の名所があること、そこを名所とすることができることを楽しんでいるようだ。

落語の噺を残すことには意義を私も見いだせる。しかし、そこを歩くことに何の意義があるかは、私にはわからなかった。

 

故にこれは遊びなのだと思う。それ自体が目的の活動が遊びという定義にぴったり合う。こういう遊びがあるという本。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | 07:18 | comments(0) | - |
国民の体力と余暇を国家管理に

廣畑成志、『シリーズ1過去の戦争とスポーツーその痛恨の歴史 国民の体力と余暇を国家管理に』本の泉社、550円と税金。

正式名称は、上記のように長い。

ブックレットなので読みやすい。おおよそ1930年代から1945年の間のスポーツあるいは体力や余暇をめぐる国家管理の様子を記している。戦争遂行のためにスポーツや余暇が統制され、ひどい事態となっていたことを簡潔に示した本。

 

1939年9月に『体力章検定実施要綱』が発表され、翌月から検定が実施された。15歳から20歳の男子に始まり、やがて拡大し女子も対象となっていく。100mを14秒だと上級、15秒だと中級、16秒だと初級で、初級だと罵倒されたという。他の種目は、2000m、走り幅跳び、手榴弾投げ、運搬(60キロ〜40キログラムの俵を運ぶらしい)、懸垂、以上男子。

1940年には、『国民体力法』が制定され、「第1条 政府は国民の体力の工場を図るため、本法の定めるところにより国民の体力を管理する」と記され、体力検査の実施と検査の受検が義務化され罰則が付いていたという。体力が国防力と見なされて、体力が管理され、体力が強制となった。

 

1938年11月の第1回日本厚生大会で発表された要項で「余暇の善用」が説かれ、余暇を「国本の涵養」を目的とすることが示された。余暇の使い方を国家が決め、体操や国防競技をすることが余暇とされ、強制された。

また、旅行も不道徳として制限を加えたのだという。

 

戦争中、体力やスポーツが戦争遂行の目的に従属して実施された歴史が記されている。強制されたスポーツは面白くなかったらしく、それまで沢山あった会社内チームが強制されるようになるにしたがって衰退していったという。

 

軍国主義や国家主義のスポーツ分野の実像を知るにはコンパクト。余暇の善用、自由時間への干渉は部分的に始まっていると見ていいかもしれないと思った。健康増進法のような法律は戦間期ほどではないが、努力を要求する形で国家による干渉が始まっていると見えなくもない。国家による干渉は、具体化されると恐ろしい事態を殊の外生むのが日本のようだと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| | 05:56 | comments(0) | - |
世界3月号によせて

岩波書店の世界はいつも春頃に教育の特集を組む。「現代思想」も春に特集を組む。私の関心に近い場合にだけ通読することがある。今号は読んでみた。

特集は、二つ。一つは山城博治さんの解放を訴えるもの。沖縄辺野古で起こっている移設反対運動への国家による弾圧の問題を4人が記し、声にしている。

もう一つが、教育の問題。「学び方改革への視座」とあるので関連が種々ある話題。

 

別の所につぶやいたが、読者談話室で神崎氏が「これからは生きた学びが得られる」というAL宣伝に対して、これまでは死んだ学びだったのかという批判を記している。流行に乗るだけの発言への批判として印象的だ。過去がうまくいっていたとも思わないが、センターに座り始めた考え方と手法が良いとも私は考えない。


地下鉄の中で読んだ氏岡・広田対談は、良いところがいっぱいあると広田教育学会会長が言うと、氏岡さんが論点を持ち出して問題点を広田さんが並べるというパターンで進行。
問題点の列挙はおおむね首肯できるが広田さんは楽観的な印象だ。私には良いところがいっぱいではなくて、問題点がいっぱいに見える。
続きは新幹線の中で読んだ。学び論それ自体については、渡部淳さんが「中教審答申」の言っている学び論の紹介をしていて、特集の中心記事のようだ。学習システムの一大転換点になっているという。今までの答申があまり踏み込まなかった論点を大きく取り上げているのは事実だが、このあたりから私の見方と少しずつ違いを孕み始めていることが感じられた。とはいえ今回の答申がグローバル化への一つの対応だという点は渡部さんの指摘通りだ。私は、国家主義的対応がまず前提にあると読んでいる。またこのグローバル化の方向それ自身に批判的なまなざしがある。ALが「自立的学習者」を育てるかどうかに関してもいくらか渡部論文と評価が異なる。

鈴木大裕論文は、氏の本の概略版で、米国における教育統制の仕組みが80年代に変わったこと、結果責任論を教育に持ち込み、教育の市場化と貧困化が生まれたことを記している。本を読むことがお奨め。

次の内田・中沢対談は部活話。学校における部活の実態と位置づけの抱える問題を簡略に語り合っている。他で露出していることもあってあまり新鮮味がない。労働問題やリスク無視の部活指導の問題点は対談の話が一つの焦点だが、部活指導の抱える課題は別に広大な世界がある。

中嶋論文は、教育の中立性がゆがんで捉えられている問題を論じている。2015年通知を誤って理解している向きは、一読することが必要だ。これは、このたび辞任した次官を含む北海道大学での学会の折の報告を文章化した感じだ。

 

感想を私の関心事からまとめると一つは、中教審答申が国家主義的学習指導要領を呼び込むという視点が弱いと思う。

二つは、ALが21世紀に期待される力を育てることに必ずしも成功しないことへの論及が一頁の半分の半分にとどまっている。

三つは、21世紀に期待される力そのものに疑義を提出すべきなのに、そのことへの批判的まなざしが薄い。

そんな三つの印象をもった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | 07:08 | comments(0) | - |
科学報道の真相

瀬川至朗、筑摩書房、880円と税金。

科学報道にいかなるバイアスがかかるかをスタップ細胞報道、フクシマ原発報道と環境変動の問題の報道を事例に記した本。

 

STAP細胞の報道ではネイチャーと理研という権威に弱く、さらに「リケ女」へと話題を集める中で誤りを見抜けない報道となっていたことを新聞データ等で示している。

 

フクシマ原発報道では、政府と東京電力の発表を中心に報道するという『大本営発表報道』に終始したことを、「炉心溶融」という言葉の発表があるたびにどれくらいそのまま報道したのかを「発表と報道の相関指数」として示している。

 

地球温暖化について人為起源による温暖化説と自然変動説のどちらの報道記事がどれほどの割合であるか、国によって変化があることを提示している。米国はバランスを理由として二つの説を半々に紹介し、日本はIPCCに依拠して人為変動説の記事が圧倒的に多く、ヨーロッパは日本以上に人為変動説となっていることを示している。

 

これらの事例が示すところは、科学報道が権威やジェンダーに影響され、客観報道という名で大本営発表=権力従属報道となっていること、科学的に不透明な問題の場合にはその権威をどこに見るかで報道が左右されていることを示している。また「ジャーナリズム共同体」と瀬川は呼ぶが、例えば記者クラブのようなものが同一歩調を生み出す原因の一つとなっていることを示している。

 

そのような科学報道に対して、ジャーナリズムの原則に関する先行研究が、最終章で紹介されている。「客観性」とは出来事を伝えることではなくて、科学的方法を踏まえることだという。あるいは客観報道もその記者の見ている立ち位置からにすぎないことを踏まえること、中立あるいはバランス報道ではなくて、検証する規律があること、情報源からの独立性が重要なことを指摘して終えている。

 

科学報道あるいは新聞報道を利用することの多い教育にとって、その利用の仕方を考える考え方として一定の参考になった。読みながらずっと疑問に思っていたのは、環境問題の意見対立の原因について、経産省対環境省という言い方を瀬川はするが、それを政治的対立あるいは企業間の思惑の対立という表現は避けているように見えたこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | 06:33 | comments(0) | - |
文庫解説ワンダーランド

斎藤美奈子、岩波書店、840円と税金。

文庫となった作品の解説部分の評論文。

坊ちゃん、伊豆の踊子、走れメロス、放浪記、智恵子抄、悲しみよこんにちは、ハムレット、小公女、武士道、赤ずきんちゃん気をつけて、何となく、クリスタル、君たちはどう生きるか、資本論、共同幻想論、三四郎、友情、限りなく透明に近いブルー、点と線、二十四の瞳、火垂るの墓、少年H、他数編の文庫解説の仕方が比較されている。個別作品名を挙げなかった作品は、私が読んでないもの。また、読んだけれど友情とか三四郎などという作品は、私が中学か高校の頃に読んだので内容はほとんど覚えていない。

 

出版社が違うと文章が違うものがあることぐらいは知っていたのだが、解説の比較をしようと思いついた点は斎藤らしい着眼点で、解説者ごとに作品の読みが違っていたりする場合には面白いと確かに思った。

 

斎藤は、解説文の書き方に、作品を持ち上げるもの、著者の履歴や作品の執筆時期の背景を記すもの、自説を展開するものなど何通りかあることを示していく。読んで面白いもの、意味不明なもの、何の解説にもなっていないものなどを記していく。

 

斎藤の指摘で共感しつつ面白かったものは、走れメロス、小公女、ハムレット、点と線など。内容の読み方が、解説者も作品も批判する論点の提示があってなるほどと思われた。小公女が最後に幸せになってしまう遺産の金は、イギリス帝国主義のインド収奪の結果だなどという指摘がその例だ。

 

あまり面白くなかったのは、柴田翔や田中康夫、村上龍らの解説へのコメント。元々の作品を私が面白く読んでいないことが大きいかもしれない。これらの作品もずっと昔に読んだ記憶だが、これらもストーリーはほぼ忘れた。

 

斎藤の評論は、斎藤自身がテーマに関する意見を本当に提出しているのかわからないところがある。解説は面白いことが重要だというような指摘がそれだ。当たり前すぎる解説がつまらないという意味程度なら、それはそうだということになる。だが、斎藤の場合は、職業的評論文作成者として述べていると思われる。職業的作家にはおもしろさが要るのだろうが、私は、面白く読んでもらうための斎藤の文章を読みたいわけではない。斎藤が解説を書いていたとすれば、作品をどう読んだのかの斎藤の読みを知りたいと思う。

また、戦争体験文学を「悲惨な体験型」と「立派な非国民型」と言うまなざしにも違和感を覚える。悲惨な体験はあったし、立派な非国民として生きた人もいたが、それ自体をも揶揄してしまっている表現が孕まれているニュアンスがある。解説文の執筆者の言葉が定型的な場合があったとしても、全部をそう言ってしまっているのではないのかもしれないが、どこか違和感が残る。永遠のゼロの児玉清の解説が人々を騙すものだという鋭い指摘があるとしても、腑に落ちない点がどことなくあるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | 00:44 | comments(0) | - |
キャスターという仕事

国谷裕子、岩波書店、840円と税金。

クロ−ズアップ現代が終了して約10ヶ月。キャスターという職に就くことになった経緯から、報道すること、語ること、インタビューすること等を番組制作の事例を織り交ぜて記している。しかし、本書は、書き出しの「ハルバースタムの警告」という問題指摘が基本となっている。映像による単純化を批判し、言葉で正確に伝えるということだ。公正な報道とは何かという問題意識に支えられた好感の持てる本となっている。

すでに本書を読了された人々の感想が聞こえる。この番組が終わり告げることになった経緯をいくらか知る者は、今のNHKニュース等のジャーナリズムからの逸脱状況批判になっていると読む。そう読める。

私は、「池上彰的わかりやすさ」批判と読めそうだと思った。こう言うと池上彰に気の毒なのだが、カギ括弧をつけたのは、世間がわかりやすい解説をする人と捉えているという意味だ。国谷は、「わかりやすくする」と考えるのは間違いだと何カ所かで指摘している。わかりやすさとは視聴者への迎合でしかなかったり(それが冒頭のハルバースタムの警告だ)、4章の長田弘とのやりとりだ。

難しいことは難しい言葉でしか伝わらないこともある。

 

なお、私は、クロ−ズアップ現代のプロデューサーと記者から取材を受け、名古屋駅ホテルで話をしたことがある。だがこの企画は没となった。原発・放射線教育の現状がフクシマ後の現実に即していないことを批判し、公正なものにする方向を展望した話題であった。今も残念に思うこともあるが、10章で「予防原則」にふれて「ただちに危険はない」と報道したことについて課題と記してあることをもって「まあ圧力があったんだろう」とスルーさせようと思う。

「報道が難しくなっている」と何度も表記されている。これを読む方々には、難しくなっている報道が毎日行われているのだなと受け取って欲しいものだと私は思う。つまり、難しくない報道ばかりが流れているのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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福沢諭吉と帝国主義イデオロギー

杉田聡、花伝社、2200円と税金。

 

安倍やその周辺の言説が福沢諭吉の帝国主義イデオロギーを引用していたり、同種の言説となっているという問題意識のもとに執筆された本。

「干渉また干渉、深きところにまで手をつけて・・・・あたかも小児を取り扱うがごとく、虚々実々の方便を尽くして臨機応変、意のごとくすべきのみ」と朝鮮に対しての発言をしている(「福沢諭吉全集」14巻648頁)。他の国を思った通りにだまして操れだという。ひどい話だ。

福沢諭吉をリベラルで開明的な人物とみる人が多いだろうが、引用した文言のようにそんなことは全くないという指摘が満載されている。野蛮ー未開ー文明という見方をしていたこと、白人ー黄色人ー黒人という順で人種差別的な見方の人物であったことは、安川寿之輔の著作でいくらか知っている人もいるだろうが、ほとんどの人は「天の上に人をつくらず云々」の部分だけからリベラル派だと思っている。

 

それに対して、福沢の実像は、民族差別主義者、人種差別主義者、女性差別主義者、朝鮮や中国侵略をあおった帝国主義イデオローグだということを福沢の発言・著作に即して杉田は指摘している。

朝鮮と中国の悪口をどれほど言っているかを並べたページがあるが、それぞれ一頁ほど並べられている。それらの言葉のひどさにはあきれるばかり。

本書は、リベラルなどという誤読をする丸山真男、宮地正人のとらえ方を批判すると同時に、なんといっても自民党改憲案等に見られる言説が、福沢の帝国主義イデオロギーから発せられた言葉と類似していることを論証した本として一読に値する。

 

福沢初期の言説も、民族差別に対する観点と人権尊重に対する観点とを欠いており、そのために敵をねつ造したり、虐殺を推奨してしまうことに必然的になっているのだという。文明もこれらの観点を持っていないと暴力あるいは野蛮に転化すると見なしている。

 

また、福沢は自身が昨日述べたことを不都合が発生して今日否定したとしても反省することなく、政府寄りの発言をし続けたことが示されている。ご都合主義的にころころ意見を変えたという。また、福沢の無責任な言動によって死ぬ羽目になった人々が多数いることを明らかにしている。

これらを丹念に明らかにしているのは、今の政権党とその周辺の人々の言説の問題性を明らかにするためである。その結論は、福沢と安倍は限りなく接近しており、これを近代の帝国主義イデオロギーの各側面で確認できるのではないかと本書は言っているのであろう。

 

福沢ってホントにひどいなと思った。何でこんな差別主義者を一万円札に使い続けているんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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