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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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15歳の戦争

西村京太郎、集英社、760円と税金。

陸軍幼年学校に昭和二十年四月に入学して八月に敗戦を迎えた著者の戦争体験と小説家となるまで及び日本軍の弱さを分析した本。

西村の体験と文献調査によれば、前近代的な戦法、精神主義、兵站の無視、生の軽視、個人の自律性の敵視が日本軍の弱さであったと記している。(日本軍や当時の政治家がすばらしかったという三浦なんとかはこの本ぐらいは読んだ方がいい。)

 

では何故弱かったのかへと考察が続くとさらにいいかなと読んだ。

 

無責任体制にも触れてあって、部下に任せる親分肌が自己の責任を取らない仕組みだと言う。なるほどね、「まかせた」とはおまえが一人で責任を取れということだね。

 

他方で兵士は絶対服従の教育であったから、日本は時代に合わない弱い軍を訓練して作っていたことになる。これに郷愁を感じる人たちは事実を知らないと言うべき、ということなのであろう。

 

 

 

 

 

 

| | 08:43 | comments(1) | - |
地域を生きる子どもと教師

中野譲、高文研、1900円と税金。

『学びに取り組む教師』にも執筆いただいた中野さんの個人実践史的単著。

 

遊びの場であった川の生態や開発を考えることになる授業の記録、卵や野菜を育てる実践など、およそ20年あまりの間の実践が採録されている。かつて発表したものに加筆されていて、周辺的状況や子どもたちのその後なども付け加わっている。

 

中野実践の特質は、川や作物など地域にあって、変化しつつあるとはいえ、人が勝手には変えられない性格のものに子どもたちを関わらせていく点にある。この意味は、自己や自己中心の世界に対して、その意のままにならない存在を目の前に立たせることから生まれてくるようだ。また、人がどう関わるかが作物に現れもすることで、子どもたちの意図や論理とは無関係に存在するものを意識化させ、自身の向き合い方を再考させる点にある。

 

もう一つは、自然や食物に学級やグループで関わる過程で、他者との関係の仕方やその意識を表出させたり考え直させることになっている。他者の排除となる会話の応酬を、それだけを捉えて道徳主義的に迫るのではなく物づくりの中で意識させている。

 

以上の二つ、すなわち客観世界との交わり方、自己を取り巻く人間世界との交わり方をものを調べ育てながらの実践に特質がある。

 

だが、実践にも変化発展があるようだ。

例えば、21世紀の始まりの頃は、ディベート的討論を意図的に組織していた。だがやがてそれは前面に出なくなっている。早計な判断を控えるようになっているように思われる。

この辺りはご本人に聞いてみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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弁護士によるいじめ予防授業

電車のチケット予約のついでに大型書店による。教育書コーナーの新刊を一応チェック。大半は手に取る価値なしと一瞥。手に取ったのは、中教審系エピゴーネンと思われるN氏の新刊が一つ。説明の柱の頁を確認すると「実はと言いながら反復」で、まなざしはマイナスにさらに振れた。

 

他方購入したのが見出しの本。正確には奥付が長い。

第二東京弁護士会子どもの権利に関する委員会法教育の普及・推進に関する委員会編著、『小学生のための弁護士による予防授業』清水書院、1500円と税金。

 

本書は、小学生向けだということ、予防つまり発生している事態に対してではないという前提で読むべきことがタイトルに現れている。

道徳の教科化の中で、授業として取りあげることとされている社会状況の中で、単にいじめは絶対だめとしかいわない規範主義的なお話しよりずっと憲法的な論理と人道的な主張が明確だ。

すなわち、人は誰でも幸福に生きる権利があると言う観点からいじめの違法性や倫理的批判が一貫して示されている。

 

事例としては、いじめられて自殺を図ろうとした子どもの手紙が取りあげられるなど、一定の配慮のもとに基本的ないじめの見方や対応を子どもに示そうとしている。

遺書の事例では、誰がいじめに関係しているか、いじめを理由があれば合理化できるのか、いじめられた人やいじめを目撃した場合の対応を考えるプラン等が低学年から高学年向けに配置されている。

 

このプランで「いじめ予防」がすべてできるわけではないが、いじめの違法性を幸福追求権という観点から明確にしている点では参照していいと読んだ。この論理を明確につかむ点でわかりやすい構成となっている。つまらない説教調の道徳の授業よりずっといい。

(難を言えば、いじめたくなってしまう暮らしや社会関係へのまなざしがプランの中にもあるとさらにいいなあ、という感じ)

ただこれはやはり「予防」であり、弁護士の方々の貴重な取り組みと捉えるべき。実際にいじめ・いじめられ関係がクラスに存在していると考えるとこれでは足りない。具体的な関係状況を解きほぐす具体的活動が必須だからである。そこは、弁護士ではなく、教師たちこそが登場する必要がある。

 

 

 

 


 

 

 

 

| | 07:35 | comments(0) | - |
象の消えた動物園

鶴見俊輔、編集工房ノア、2500円と税金。

私は鶴見俊輔をなんだか好きではない。するどく「なるほど」という文章を書かれると見てきたが、好きではない。たぶん本職がわからないせいだ。この場合の本職は、所属を意味しない。あなたはどこにいるの?という問いをしたくなる人なのである。

 

本のタイトルとなっている文章は、京都新聞の2010年10月27日に記されている。

この本の発行日は2011年8月15日である。それぞれ日付に意味あると思った。

 

象が消えたのは、上野動物園で戦争のために危険とされた動物が処分された。名古屋に住む者としては、東山動物園もその影響を受けたが、象は生き残ったことを敢えて記しておきたい。だがともかく戦争が象を消したのである。

鶴見の短評は、象の消えた動物園を同時代として経験した二人、すなわち大岡昇平は俘虜記を書き、本多立太郎は安保反対の市民運動に参加し続け戦争犯罪を謝罪し戦争体験を埋めた。だが、他の同時代の日本人は、1931年から1945年を不問にして目の前の出来事に心を奪われている、と批判した内容である。

 

鶴見の年代の後を行く者は、それぞれの同時代の何を引き受けるのだろう。目をそらしてはならないことはなんだろう。

それは戦後という出来事だろう。戦後から目をそらさせようとする力が強力に作動した時代だ。これに抗うこと、抗い方を開発することが、象が消えたことを消そうとする同時代を生きることのように思えた。さらに今はその後の時代に入っているかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | 08:37 | comments(0) | - |
生活指導8/9月号

全国生活指導研究協議会編、『生活指導』8/9月号、高文研、619円と税金。

写真にあるように「困難を抱える保護者と向き合う」が特集。この場合の困難は、ネグレクトの傾向がある保護者、家族関係に困難を抱える保護者(困難がない家の方が少ないだろうが)、暴力的な子育てをする保護者が取りあげられている。まとめた表現で言うとなんだがソフトな印象を与えるが、本文を見ると抑制的に記しているがかなり過酷なエピソードが記されている。

保護者の困難は子どもに直接・間接に影響する。そこで、教師は子どもの困難と保護者の困難を同時に意識しながら当該の子どもやクラスの子どもたちに向き合う必要があることを示している。佐々木実践がその典型だろう。子どもにだけ係わればいいという議論がずっと昔からあるが、それでは子どもが救われない。逆に、一方的に保護者に指示・命令する古い対応があるが、これも通用しない。そこをかつて全生研教師は、個人的に奮闘できてしまった。今は、教師の側も一人で取り組むのではなくて、協力を周囲に得ながらという全体の方向に乗っていることが分かる。

竹内や上間の分析論文を見ると感じられるだろうが、困難を抱える保護者とその子に向けられるまなざしの問い直しをしている実践かどうか、そこを課題化している実践かどうかが実践の質を規定しているように思われる。

 

8月5日から7日は全生研の全国大会が福島市で開かれるが、その大会の基調報告も本号に掲載されている。福島とそれ以外の空気の違い、まなざしの違いを基調で読み取るだけでなく、福島の地を訪れて見ていただきたいものだと思う。

 

道徳の教科化にかかわって藤井論文、とくに前半の道徳の内容を3分類する理論の紹介の部分は、読み物を読んで話し合わせればいいという程度につかんでいる人がいるとすれば参考になるだろう。3分類とは、他者の福祉や権利を基準に善と悪に区分できるもの=道徳性、特定集団内の社会的慣習に属するもので普遍性は存在しないし別の集団から見ると問題と映る事柄もあるもの=社会的慣習、個人の趣味や選択に委ねられるもの=パーソナルなもの、の3つである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| | 07:55 | comments(2) | - |
マルティン・ルター

徳善義和、岩波書店、720円と税金。

宗教改革で有名なマルティン・ルターの伝記というか紹介本。

高校世界史程度の知識しか持ち合わせていなかったので、知らないことばかりだった。

 

成績優秀で法学部に入学したのに、エアフルトに戻る途中、近くに雷が落ちたとき修道士になると叫んでしまって法学部を辞めたそうな。この時代、そういうことをしてしまうのは珍しいことではなかったという。

また、名前も生まれた時にはマルティン・ルダーで、ルターは必ずしも正しくはない三つ目の名前。

 

免罪符というのは、罪がなくなるのではなく、罰がなしになる札なそうな。罪に対して課される罰をしなくてよい札をお金を払って手に入れていた。正しくは、「贖宥状(しょくゆうじょう)」と言うそうな。このきっかけは、罪に対する罰を果たし終える前に死んでしまった場合どうなるのかという問いに対してそれを教会が保証するという対応から始まったという。知らないことばかりだ。

 

賛美歌をはじめたのもルター。

現在の日本における読経を普通の門徒は、聞いていても意味が分からない。これと同じ状態がキリスト教会でも続いていた。ヘブライ語が原典の聖書をギリシャ語に翻訳し、さらにラテン語に翻訳したものを修道士がラテン語で説教していた。しかし、ほとんどの人はドイツ語を話すだけで、ラテン語の意味は分からず、教会での修道士の説教を立ち見するのみであったという。

これをドイツ語に置き換えて説教をはじめたのがルター。

 

しかも律法としてではなく、すなわち「すべし」ではなく、福音として読むことへ転換したのだと。

著者の徳善という名前は偶然なのかどうか知らないが、ルター派に属していると思われる書きぶりだが、資料を示しながらの平易な文章は悪くはなかった。

広島への往復でほぼ読めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

| | 07:02 | comments(0) | - |
夏目漱石と西田幾多郎

小林敏明、岩波書店、840円と税金。

漱石と幾多郎が何らかの関係があったかのような書き出しだが、二人の直接の関係はやはりないと断言してよさそうだ。

序章には関係があるかのように書き出し、それを探る文章が三分の一ほど続くが、すれ違ってはいるようだが結局ない。後半は、漱石の時代精神と、幾多郎の周辺の人物の交際と世情の見方の対比的断章だ。

漱石のエピソードは私にとっては知っていることが多く、事新しいことは少なかった。幾多郎については京都学派の師という程度のことしか知らないので人間関係も含めてはじめて知ることが多かった。

ただし、小林の幾多郎の見方としてそういうことはあるかなと思ったのは、事実としての学生時代と京都へ職を得る頃までの叙述である。中盤から後半にかけての戦争遂行の論理を提供した京都学派やその周辺の小林の見方に共感するところはなかった。

弟子である近衛が首相になるときに軍部の独走に歯止めをかけることを期待したなどとあるのだが、すでに戦争を開始ししていた政権であり、その外交政策であれ内政であれ、期待できてしまう西田の哲学を批判的に捉えることのない見方があまりに非社会的で非歴史的に見えた。

 

西田についてはまた別の機会に考えたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | 07:17 | comments(0) | - |
歴史地理教育7月増刊号に掲載

拙論「初期社会科の見方の転換に学ぶ」が『歴史地理教育』7月増刊号に掲載されました。

昨日、家に帰ってくると2冊届いていました。

 

私の文章は、初期社会科に批判的であった歴史教育者協議会がいまでは見方を変えた議論を展開している会員が増え、評価できる実践や論理があったと考える人が増えていることを例示することから書き出してみました。当時の実践としては日本標準の創業者の石橋勝治の実践を取りあげて論じてみました。

 

7月増刊号は、「社会科70年 これまでとこれから」が特集。

社会科70年としているので、歴教協に限らず取りあげようという姿勢で編集を試みたのだろうと思います。雑誌の増刊号なのであれもこれもというわけにはいかなかったようですが、生活科、主権者教育、子ども論、高校現代社会、学習指導要領、家永教科書裁判、歴史総合にAL、と取りあげています。

よく分からない論文の配置だったりしますが、実践史的にどう評価するのか意見が分かれそうな論考もあって、自前で考えたい方には手にとってほしい号です。

 

取りあげられた人は、山本典人、安井俊夫、加藤公明といった個人の実践。さらに、地域学習や歴史教育と歴史学との関係把握などずっと差違を響かせていて、それらの違いが「いいもんだ」と思います。私の理論枠の中ではそれらについて一定の見方がありますが、違いがあることが全体としては力になっていくことがあります。単一化した見方で覆われてしまうと、いいことはなかったからです。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

| | 00:12 | comments(0) | - |
3.11後の子どもと健康

大谷尚子、白石草、吉田由布子、岩波書店、660円と税金。

副題の「保健室と地域で何ができるか」が内容をよく表している。

 

第一章は、養護教諭が事故後に取り組んだことが記されている。中でも興味深かったのが、給食の完食指導が行われていた地域で、放射能汚染の実態が分からない中でこれを養護教諭が止めさせるように尽力したとある点。完食指導という問題の多い取り組みが、放射能汚染でようやく中止となるというおかしな話し。本来、完食指導がおかしいのだ。その点は課題として残されているが、放射能汚染が奇妙さをあぶり出す要因の一つ考えれば納得。

もっと「ほうー」と思ったのが組み体操。放射性物質舞うグランドで実施するため子どもたちが放射性物質を吸引してしまう危険があっても、30年以上続けてきたからと、組み体操を実施しようとする教師たちが一方にいたこと。それに対して「子どもの安全と健康を守るのが学校」と養護教諭が主張した学校があるという。組み体操が新聞等で問題となる前に別の「安全と健康」の視点から論陣が張られていたことが興味深い。

 

第二章は、地域の取り組み。「県民健康調査」の実施など、行政にお任せでは実施とならない。また各種審議会も東電の息のかかった人ばかりが委員となることが記されている。そういう意味で専門家任せにしてもダメなことがよく見える。だがしかし、これを批判し、要望し続ける中で組み替えが一部発生する。その意味でまっとうなことを求める運動の教訓が語られている。

 

第三章は、学校と地域で何ができるかを実例でつなぐ。ここは、森永ヒ素ミルク事件の再調査のきっかけが非専門家である養護教諭の要望から始まったことが語られている。始まりのきっかけを知らなかった。専門家はそうした声を必ずしもあげない。この点が興味深いところだ。

 

第四章は、子どもと真摯に向き合う視点が5つ挙げられている。それらは基本的に事実を丹念に集めること、その場合データ集めを人に委ねるのではなく自分たちで集めることが強調されている。ここがとりわけ重要だ。

専門家と準専門家、そして一般の人々との連携・共同の必要性と在り方が全体として問題提起されていると読んだ。

 

 

 

 

 

 


 

| | 06:33 | comments(0) | - |
<わたし>と<みんな>の社会学

大澤真幸、左右社、1450円と税金。

THINKINGの14号に当たる。

 

今回は、見田宗介をゲストに対談が延々と続く。

後半は、見田の走れメロスの読みに引っかけた人間と人間社会の考察方法論を、現代思想の43巻16号に引っかけた断章。

後半の後半は、大澤の宮沢賢治の銀河鉄道の夜を読む。これも見田の賢治の読み方への応答なのだと思う。

 

メロスと銀河鉄道とくれば読むしかないと思って迷わず購入した本。

 

一節だけ引く。

「賢治がほんとうに行こうとしたのは、・・・中略・・・<自己犠牲>ということを至上の観念としなければならないような世界の重苦しさのかなたへ、自己犠牲ということもまたそのほかのこととおなじに自在に、それと気づかれぬほどにも自在におこなうことのできる、ひとつの自由、ひとつの解き放たれた世界ではなかっただろうか」101頁。

 

こういう類いの本は、私が考えるときの論理等のヒントになっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

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