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どうなる日本の教員養成

日本教師教育学会編、緊急出版どうなる日本の教員養成、学文社、1400円と税金。

週末の理事会で入手した。

昨年の12月4日に早稲田大学で開催したシンポジウムの記録である。

会場は、200名あまりで満席状態であったとある。

 

これは、2015年12月に中教審が教員養成に関する答申を出して、免許法も変わることとなっている。その答申と教員養成の改革の方向をどう見るかに関する議論がそのまま本となっている。口語なので読みやすい体裁だ。

 

報告者は、福井大学の教職大学院を事例とした松木健一報告から始まっている。わたしは、この報告にはあまり賛同しない。

 

続いて坂井俊樹報告は、社会科教育を専攻する研究者の視点から、教科に関する科目と教職に関する科目の区分の撤廃を問題とし、教育実践力を狭く捉えることを批判している。

 

油布佐和子報告は、日本の改革動向と海外の改革動向の違いを例示しながら、答申は現場・体験主義に陥っていると批判する。この辺りは、私も賛同する見方。

 

最後に登壇した浜田博文報告は、教師教育の学的研究の見地から、答申が教員養成に教育学研究の知見を踏まえようとしていないと批判的に論じている。

 

最後に会場からの意見を含めた総括的文章が掲載されている。

何が問題かを口語で鮮明にしてくれる一冊で読まれるべき4月の本。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| | 06:35 | comments(0) | - |
不平等を考える

斎藤純一、筑摩書房、880円と税金。

 

これには、政治理論入門の副題が付いているが、原理的に考察されているという意味で入門と言えなくもないが、原理的研究書であって、易しいお手軽な概説書という意味の入門書ではない。

不平等とはなにか、人には様々な違いがあるにもかかわらず、「値しない」ことが不平等である、といった原理的規定が与えられていく。「値しない」とは、その人にふさわしくないという意味で、社会的不利な条件のために値しない教育しか受けられなかったり、差別を受けることを指す。

こうした平等を巡る基本概念に規定を順次与えていっているのが本書である。先行研究の根本規定にたいして、今日の日本や世界にみられる格差やそれへの抗議と従順の諸相を念頭に、批判的・論理的に目配りをしながら論述している。近年の新書には珍しい文体だが、これはお奨めの本だ。

 

私は、茗荷谷の辺りで斉藤氏の講演を聴きに出かけたことがある。このときは確か公共性の歴史から現代の公共性概念の議論をうかがった。分厚い資料とともに丹念に語られていくその構成は見事だなと思った。

濃縮した専門の語りだけで90分あまり引きつけ続けることは私にはできないなと思ったものである。

 

あからさまな不平等を肯定する人々が台頭する中で、平等な関係がなぜ必要か、平等な関係とは何かをこの時代に考えるための1冊、そう思う。所々確かめるように記憶したいと思った所がいくつかある。一つは、「憲法パトリオティズム」。気になる方は78頁にあるので確かめてもらえたら、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | 07:24 | comments(0) | - |
人はなぜ物語を求めるのか

八鶴湖の桜を待つ風景。バスを待つ間に寄ってみた。

昨日はまだ開いてなかったが、屋台はもう何台も並んでいた。

 

千野帽子、『人はなぜ物語を求めるのか』筑摩書房、840円と税金。

ブログで本を取り上げるときに章立てを紹介することはほとんどないのだが、珍しく記す。

第1章 あなたはだれ?そして、僕は誰?

第2章 どこまでもわけが知りたい

第3章 作り話がほんとうらしいってどういうこと

第4章 「〜すべき」は「動物としての人間」の特徴である

第5章 僕たちは「自分がなにを知らないか」を知らない

こう並べると著者の物語論の枠組みがなんとなく見える。出だしはアイデンティティ論としての物語論だ。次は、心理機能としての感情のつくる物語。その次は文学としての物語に焦点が当たっている。その次は、物語に拘束される問題。最後に、ストーリーに落ち込む危険への処方箋。

 

アイデンティティ論や物語論は、定番としてのフォスターなどから書き始めてくれている。また、以前読んだことがある文献に依拠している部分など違和なく読める所も多い。ただ、引用文献の学問的つながりよりは、千野の捉える物語につなげる意図から引っ張り出されている感じのところもある。簡単に言うと、千野の物語論の枠組みをそれとして示してもらった方が私には読みやすい。「人」と括っているので「一般化」がなされているわけだが、論及されてない点もありはしないかなどと思い描いたときに、否定も肯定もしずらい。

また、物語に関する物語論としての説明だと割り切れば多少理解できないことはないが、事実との関係を問わずに物語の中で記しているので、本当はどうなのかというまなざしが弱くなる。文学の物語の場合は、書いてある状況から物語の妥当性の範囲を読むことになるので、唯一の読みはない。だが、人の物語りの場合は、事実との対応をかなり確かめていくことが可能な場合がある。アイデンティティが起こった出来事のつなぎ方による物語りと記してあるように、基には出来事という事実がある。出来事との対応関係をある程度確かめることができる。この観点がハッキリしないように思われた。
例えば、地震や津波ではなく、人は原発の設計を攻めたくなってしまうのである、などと書かれている。しかし、それは違うだろうと思う。原発の不可能性や設計の問題点という事実を飛ばして、人の心性のように記してしまっている。事実問題が飛ばされて、心性として説明してしまっている。
もう一つ、物語は共同で編まれる要素があると思うのだが、その危険性をもっと率直に打ち出してもらった方が、思い込みの誘惑への処方箋が鮮明になったように思う。
そんな引っかかりを感じたが、心理学的な物語論のイントロ的話題の振り方としてわかりやすい書き出しとなっているし、私の知らない先行文献からの議論もあって、すっと読み続けることができた。「一般論」という思い込みの危険性に関する議論が本書のポイントの一つだと思われるが、事例がわかりやすいので参考になったところもある。

 

 

 

| | 06:26 | comments(0) | - |
板倉聖宣セレクション1

板倉聖宣、仮説社、2013年、1900円と税金。

1963年に提唱されたという仮説実験授業。自然科学領域の授業書に関連する議論は確かに多いが、それに負けずに多いのが社会や教育に関わる発言。この本は、社会、とりわけ民主主義に関わる論考を集めた本。

 

仮説実験授業の批判は、かつて始まった頃にいくらか聞かれたが、その後はほとんど聞かない。それは、内容が面白くまっとうだからという要素もあるかもしれないが、批判されていい中身もいくつかあるように思う。

評価されていいのは理科関連の授業書だけではない。社会や「道徳」の授業書がある。ただ、内容的には吟味が必要な部分もある。「授業風」の「道徳」をしなければならないご時世に、参照されるべき先行研究が仮説研の「道徳」だ。仮説実験授業のいい点を認めた上で、どうかなという主張を選り分けるとこれまでに板倉氏や会員がつくってきた良い内容がもっと見えてくるに違いない。

 

理論枠に関わる手法についてだと次の点がある。おそらく、近代科学論を狭く捉えているせいかもしれないと推測しているが、誰かに確かめて欲しいものだと思っている。どういうことか。仮説選択の討論の後に実験をして、実験結果に関する解釈をしないと主張していたことがあった。これは、実験がすべてだとその理由の説明をかつてしていた。しかし、この点は必ずしも妥当とは思われない。真性の科学の場合には、すぐに結果の解釈をめぐって議論をすることがしばしば行われる。科学過程論研究をしていた時期に疑問に思って以来ずっと?をつけている。いつも実験後に議論を、とは言わないが、必要なときがあると私はそう考えてきた。

 

今回のこの本にも、興味深い指摘とそうは言えないという指摘が混じっていて、賛同したい人も批判したい人も読むといいと思う。

「民主主義が最後の奴隷制だ」という板倉の指摘などは、その通りだ。かつてチャーチルが1947年の下院演説で「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」や若い頃の体験に範をとっていると思われるが、少数者の声をいかに聞くかというきわめて今日的な問題といえる。

 

他方で、問題な指摘も存在している。例えば、正義を強要するからいじめが発生するといういじめ論。板倉が指摘するような場合があるのだが、それがいじめの原因だといってしまうと部分的な正しさにもかかわらず誤ってしまう。親密圏におけるいじめなどにはあてはまらない。また、楽しい授業で解決すると言ってしまうのも言い過ぎ。それは作り出したらいいが、それで解決というわけにはいかない。この辺りは言い過ぎというか、データ不足な主張に思われる。

社会の法則性に関する基準の立て方も、同じように、「良さ」と「どうかな」が混在している。事実に即してさらに検討して欲しいと言っている本として読んだ。

 

 

 

 

| | 07:07 | comments(2) | - |
戦後はいかに語られるかその2

数日前に取り上げたのだが、なんだか読めてない感じがして、昨日もう一度読んだ。成田龍一『『戦後」はいかに語られるか』河出書房新社。本日見出しの本があるわけではない。

 

メタレベルというのか、基本枠組みを構想した本なので、章によっては歴史というよりは小説と作家の話だったり、話が飛ぶので理解できていない所が何カ所もあって、再読。

 

結局わかったことは、a)戦争の体験世代、b)体験の証言を聞いた世代、c)体験が記憶の対象となった世代という3区分が基本となっていること。成田の議論は面白いが、説得力にどこか欠けるなと思うのは、c)記憶の世代とはどんな世代かが記されていない。もっぱらa)体験世代のつかみ方の批判で、どこにc)の特徴があるのかわからない。石田雄の著作の悔恨共同体の着想ではc)に通じないというばかりでc)の中身が明示的に表現されていないのが課題。c)の人は何人か挙げられているが、特質がなにかよくわからない。戦後が歴史になったとあるが、時代と世代が混じっているようにも読めた。

 

さて何だろう。

考え方としては、本題と無関係に参考になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

| | 07:17 | comments(0) | - |
「戦後」はいかに語られるか

成田龍一、河出書房新社、1400円と税金。

タイトルは言説研究的だが、「戦後という現代」という区切りをどこに求めるか、その特徴付けをどのように考えるのかについて主に論述した本。その眺め方を執拗に枠組みにおいて書いているのが「はじめに」、その後の章でもこうしたメタレベルの枠組みに関する論及が登場する。

成田は、戦後の枠組みが破壊されているときに、戦後の枠組みの擁護という視点だけでは戦えないと捉えて模索しているようだ。章ごとに検討の対象が異なることや、これが現代だと割り切って打ち出しているわけではないので、簡単に括って紹介できない。しかし、枠組みのとらえ方がいくつか紹介されているので、読み方の一つとして参照したい。

例えば、49頁の図表などのとらえ方は、これからも何度か見直そうと思った。そこには、現代を国際的にはグローバリゼーション、政権ではリベラルと保守の解体、経済的には新自由主義供⊆匆馘にはブラック、思想では「リアル」への接近、と描かれている。

それぞれをどう捉えるかはさらに検討したいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

| | 07:23 | comments(0) | - |
落語と歩く

田中敦、岩波書店、840円と税金。

1945年8月から2015年12月に刊行された落語の速記書籍類を対象に、そこに登場する地名とその地名を訪ね歩いた本。

 

巻末に北海道から沖縄、海外、架空の地名まで主なもの500が並んでいる。東京と大阪が圧倒的に多い。

 

何の意義があるかはわからないが読み進めた。

初めて知ったという気分になれた事柄は三つ。一つは、噺の中に出てくる平家物語の「祇園精舎の鐘の音」というのは作者の錯誤だということ。インドにある祇園精舎に鐘はない。(今はあるそうだ。21世紀になって日本から送った人がいるという。)

二つは、地獄極楽小路という通りが新潟市中央区にあること。

三つは、圓朝の創作には意外だったけれどアレクサンドル・デュマの「ポーリーヌ」が原作だということ。落語の創作をした人たちはいろいろ本を読んでいるらしい。

 

落語を歩くことに何の意義があるかは読み通してもわからなかったが、時代とともに演目の多様性が失われ、地名もどんどん変わり、風景も変わっていることを記している。失われゆくことに惜別の念を田中氏は抱いているらしい。

ただただ落語に登場する地名を歩く散歩と考えるなら、本書は誠に便利なガイドブック。落語の本を集め、そこに登場する地名を全国歩き回った田中氏としては、そんなものではない思いがあるようだ。戦中の作品が入らないのは戦争協力の影がそこにあるからだろう。触れてないがそうだとわかる記述がある。他に不適切な表現がそこにあることもわかる。コレクターとしてはこれらも含めて集めておきたいということらしい。一般向けには不適でも、そうした事実があったことを残しておくことに意義はあろう。

コレクターの一部には、それらを懐かしむ人が必ず登場する。その反省のない、未来に向かわない感覚がわたしに違和を生み出す。田中氏は、とにかく各地に落語の名所があること、そこを名所とすることができることを楽しんでいるようだ。

落語の噺を残すことには意義を私も見いだせる。しかし、そこを歩くことに何の意義があるかは、私にはわからなかった。

 

故にこれは遊びなのだと思う。それ自体が目的の活動が遊びという定義にぴったり合う。こういう遊びがあるという本。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | 07:18 | comments(0) | - |
国民の体力と余暇を国家管理に

廣畑成志、『シリーズ1過去の戦争とスポーツーその痛恨の歴史 国民の体力と余暇を国家管理に』本の泉社、550円と税金。

正式名称は、上記のように長い。

ブックレットなので読みやすい。おおよそ1930年代から1945年の間のスポーツあるいは体力や余暇をめぐる国家管理の様子を記している。戦争遂行のためにスポーツや余暇が統制され、ひどい事態となっていたことを簡潔に示した本。

 

1939年9月に『体力章検定実施要綱』が発表され、翌月から検定が実施された。15歳から20歳の男子に始まり、やがて拡大し女子も対象となっていく。100mを14秒だと上級、15秒だと中級、16秒だと初級で、初級だと罵倒されたという。他の種目は、2000m、走り幅跳び、手榴弾投げ、運搬(60キロ〜40キログラムの俵を運ぶらしい)、懸垂、以上男子。

1940年には、『国民体力法』が制定され、「第1条 政府は国民の体力の工場を図るため、本法の定めるところにより国民の体力を管理する」と記され、体力検査の実施と検査の受検が義務化され罰則が付いていたという。体力が国防力と見なされて、体力が管理され、体力が強制となった。

 

1938年11月の第1回日本厚生大会で発表された要項で「余暇の善用」が説かれ、余暇を「国本の涵養」を目的とすることが示された。余暇の使い方を国家が決め、体操や国防競技をすることが余暇とされ、強制された。

また、旅行も不道徳として制限を加えたのだという。

 

戦争中、体力やスポーツが戦争遂行の目的に従属して実施された歴史が記されている。強制されたスポーツは面白くなかったらしく、それまで沢山あった会社内チームが強制されるようになるにしたがって衰退していったという。

 

軍国主義や国家主義のスポーツ分野の実像を知るにはコンパクト。余暇の善用、自由時間への干渉は部分的に始まっていると見ていいかもしれないと思った。健康増進法のような法律は戦間期ほどではないが、努力を要求する形で国家による干渉が始まっていると見えなくもない。国家による干渉は、具体化されると恐ろしい事態を殊の外生むのが日本のようだと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| | 05:56 | comments(0) | - |
世界3月号によせて

岩波書店の世界はいつも春頃に教育の特集を組む。「現代思想」も春に特集を組む。私の関心に近い場合にだけ通読することがある。今号は読んでみた。

特集は、二つ。一つは山城博治さんの解放を訴えるもの。沖縄辺野古で起こっている移設反対運動への国家による弾圧の問題を4人が記し、声にしている。

もう一つが、教育の問題。「学び方改革への視座」とあるので関連が種々ある話題。

 

別の所につぶやいたが、読者談話室で神崎氏が「これからは生きた学びが得られる」というAL宣伝に対して、これまでは死んだ学びだったのかという批判を記している。流行に乗るだけの発言への批判として印象的だ。過去がうまくいっていたとも思わないが、センターに座り始めた考え方と手法が良いとも私は考えない。


地下鉄の中で読んだ氏岡・広田対談は、良いところがいっぱいあると広田教育学会会長が言うと、氏岡さんが論点を持ち出して問題点を広田さんが並べるというパターンで進行。
問題点の列挙はおおむね首肯できるが広田さんは楽観的な印象だ。私には良いところがいっぱいではなくて、問題点がいっぱいに見える。
続きは新幹線の中で読んだ。学び論それ自体については、渡部淳さんが「中教審答申」の言っている学び論の紹介をしていて、特集の中心記事のようだ。学習システムの一大転換点になっているという。今までの答申があまり踏み込まなかった論点を大きく取り上げているのは事実だが、このあたりから私の見方と少しずつ違いを孕み始めていることが感じられた。とはいえ今回の答申がグローバル化への一つの対応だという点は渡部さんの指摘通りだ。私は、国家主義的対応がまず前提にあると読んでいる。またこのグローバル化の方向それ自身に批判的なまなざしがある。ALが「自立的学習者」を育てるかどうかに関してもいくらか渡部論文と評価が異なる。

鈴木大裕論文は、氏の本の概略版で、米国における教育統制の仕組みが80年代に変わったこと、結果責任論を教育に持ち込み、教育の市場化と貧困化が生まれたことを記している。本を読むことがお奨め。

次の内田・中沢対談は部活話。学校における部活の実態と位置づけの抱える問題を簡略に語り合っている。他で露出していることもあってあまり新鮮味がない。労働問題やリスク無視の部活指導の問題点は対談の話が一つの焦点だが、部活指導の抱える課題は別に広大な世界がある。

中嶋論文は、教育の中立性がゆがんで捉えられている問題を論じている。2015年通知を誤って理解している向きは、一読することが必要だ。これは、このたび辞任した次官を含む北海道大学での学会の折の報告を文章化した感じだ。

 

感想を私の関心事からまとめると一つは、中教審答申が国家主義的学習指導要領を呼び込むという視点が弱いと思う。

二つは、ALが21世紀に期待される力を育てることに必ずしも成功しないことへの論及が一頁の半分の半分にとどまっている。

三つは、21世紀に期待される力そのものに疑義を提出すべきなのに、そのことへの批判的まなざしが薄い。

そんな三つの印象をもった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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科学報道の真相

瀬川至朗、筑摩書房、880円と税金。

科学報道にいかなるバイアスがかかるかをスタップ細胞報道、フクシマ原発報道と環境変動の問題の報道を事例に記した本。

 

STAP細胞の報道ではネイチャーと理研という権威に弱く、さらに「リケ女」へと話題を集める中で誤りを見抜けない報道となっていたことを新聞データ等で示している。

 

フクシマ原発報道では、政府と東京電力の発表を中心に報道するという『大本営発表報道』に終始したことを、「炉心溶融」という言葉の発表があるたびにどれくらいそのまま報道したのかを「発表と報道の相関指数」として示している。

 

地球温暖化について人為起源による温暖化説と自然変動説のどちらの報道記事がどれほどの割合であるか、国によって変化があることを提示している。米国はバランスを理由として二つの説を半々に紹介し、日本はIPCCに依拠して人為変動説の記事が圧倒的に多く、ヨーロッパは日本以上に人為変動説となっていることを示している。

 

これらの事例が示すところは、科学報道が権威やジェンダーに影響され、客観報道という名で大本営発表=権力従属報道となっていること、科学的に不透明な問題の場合にはその権威をどこに見るかで報道が左右されていることを示している。また「ジャーナリズム共同体」と瀬川は呼ぶが、例えば記者クラブのようなものが同一歩調を生み出す原因の一つとなっていることを示している。

 

そのような科学報道に対して、ジャーナリズムの原則に関する先行研究が、最終章で紹介されている。「客観性」とは出来事を伝えることではなくて、科学的方法を踏まえることだという。あるいは客観報道もその記者の見ている立ち位置からにすぎないことを踏まえること、中立あるいはバランス報道ではなくて、検証する規律があること、情報源からの独立性が重要なことを指摘して終えている。

 

科学報道あるいは新聞報道を利用することの多い教育にとって、その利用の仕方を考える考え方として一定の参考になった。読みながらずっと疑問に思っていたのは、環境問題の意見対立の原因について、経産省対環境省という言い方を瀬川はするが、それを政治的対立あるいは企業間の思惑の対立という表現は避けているように見えたこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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