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教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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わたしたち

ユン・ガウン監督作品。

ソンは、親に残業代でもでないと何か買ってもらったり海に連れて行ってもらえない庶民の子。小学四年の日本風の歳の数え方で言うと10歳のいじめられっ子。

冒頭シーンはドッジボールの組み分けで、ソンは最後までどちらのチームからもとってもらえない。ゲームでは一番最初に当てられ、外野でボールは回ってこない。

誕生日パーティに呼ぶからと掃除を交代させられ、教えられたところは知らない家で、友達のいない子。

そこに夏休み直前にジアが転校生としてやって来る。初めてできた友達として、休み中は、まあ仲良く遊ぶ。休みが終わって学校が始まると、ジアはボラたちと遊ぶようになる。ソンは関係を修復したいと思うが、行き違いがいくつか起こる。

ジアは裕福で成績がよいが、親の離婚と再婚問題、かつていじめられっ子だったことなど諸問題を抱えている。ソンが、ジアのいくつかの嘘を行き違いからクラスの子にばらしてしまって更にケンカとなる。

ソンの弟ユンの話しがきっかけで、ジアとの関係の修復を図ろうとする。そういう小学校中学年くらいの子どもの関係を中心に描いている。いじめと映画の紹介にはあったが、いじめもあるが日本の基準からすると、ソフトだ。

 

この日の上映にも監督が登場してインタビューがついていた。

この映画は監督の子どもの頃の体験をベースに脚色されていると述べていた。

現実は必ずしもうまくいかなかったらしいが、二つの台詞が印象に残った。

一つはソンが「誤解は解かなければ」という台詞。

もう一つは、ユンの「ケンカばかりしていていつ遊ぶの?」。

 

この映画には、子どもたちが思わず意地悪したいと思ってしまう原因となる出来事がほんとうにたくさん描かれている。親に愛されている行動を見ると、愛に満たされていない思いの時には、愛されている子に意地悪をほんのちょっとしてしまう。そういうちょっとした嫉みなどなど。

だから、そこに生まれた誤解を解くには、意図を正確に伝えることなのだ、と。その果てに「わたしたち」という主語が誕生するというメッセージがあるようだ。(日本じゃ「誤解」と言う側が間違っていることが多いが。)
3本の映画の中で、これが一番ドラマがある。
東京や愛知などは、9月下旬から封切られ、その後全国に。


 

 

 

 

 

 

| 映画 | 06:16 | comments(0) | - |
夜、逃げる

名古屋城の石垣。観光用のニセ本丸より今を象っている。

 

単館上映だとみないだろう作品だが、行ってみた。

山田佳奈監督初映画、主演は菅原佳子さん、上映後にまたまた二人へのインタビューがついていた。

作品は、29歳の売れない女優が高校の同級生とバイト先の漫画喫茶で偶然出会う。同級生は振られた彼氏につきまとっている。高校時代のこと、今のことを語り合うというか「言いあう」映画。

言い争う日本語文化が29歳よりは私にはもっと若い世代に見える。また、若者の階層的には、上層や最下層でもない中間層という感じがする。ドラマ好きの私からすると好きにはなれないタイプの映画。監督は劇団を主宰しているそうだが、かつてマイナーな小劇場や大学生の演劇部の演目のような構成に写った。そこの先がねらいなのかもしれないが、まだ先ではない気がする。

途中の相手への怒りが嘘っぽく見えてしまうのは、もう少しなんか相互関係がないと次回は見ないかもしれない。けれど、劇団を始め、映画を作ってしまうところへと歩みだすエネルギーは良いよなと思う。

 

今日も「わたしたち」に行きたいのだが、間に合わないかもしれない。その時は断念。

今日が過ぎると後期、秋学期というらしいがなじめない言い方が徐々に始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 07:34 | comments(0) | - |
彼らが本気で編むときは、

あいち国際女性映画祭で上映するというので出かけた。

 

トモは母親と二人暮らしの11歳の小学生。

母親は洗濯はするらしいが、飲んで帰って寝てしまい、ご飯を作ったりはしない。

ある日、子どもをそのままに消える。

トモは母の弟のマキオのところに行く。

マキオはトランスジェンダーのリンコと暮らしている。

 

差別と偏見のまなざしにさらされているが、リンコはトモにご飯を作ったりと世話をやく。やがて、母親が帰ってこないならトモを養子にとも考える。

リンコは、自身のトランス・ジェンダーとして悲しい出来事にであったときに、編み物をして心を落ち着けてきたことをトモに話し、性転換手術の象徴として毛糸で編んだ男根を108個編んだら供養し、戸籍も変えることにする。

そこにトモの消えた母親が、男に振られて戻ってくる。
さて、トモは・・・・
というストーリー。
監督の荻上直子氏とはるな愛氏の対談が上映後についていた。
はるなさんはサービス精神旺盛で、多様な生き方と志向のLGBTの人がいるのだということを自身の体験を織り交ぜつつ語っていた。
性的マイノリティのカップルのところに子どもがやって来る映画をなんか見たことがある。だが、日本映画としては記憶にない。はるなさんも言っていたが、続きがあってもよさそうだ。108個の編み物を煩悩として燃やすのは、映画制作者たちの男根主義への訣別を象徴させているのだろう。
そう思った。
DVDはつい先日に発売になったらしい。


 

| 映画 | 07:17 | comments(0) | - |
ローサは密告された

麻薬と警察の腐敗を描いたフィリピン映画。ローサは、子ども4人と夫婦2人で雑貨店を営みながら麻薬も売っている。

警察に摘発され、警察署に連れて行かれる。だが警察署の玄関からではなく横から地下へとつながる部屋に連れて行かれる。そこでは、奇妙なことが起こる。押収された麻薬の一部が警官らしき人物に分けられたり、押収された現金が警官のポケットに入っていく。

さらに現金を持ってくれば釈放するという。払えなければ売人を密告するように言われる。こうして一人の売人を密告し、さらに5万ペソ(日本円にして約10万円)を警官に要求されてかき集めてくる話し。

ローサも密告するが、同じ事情でローサも密告されて捕まったのだ。

ドゥテルテ大統領の麻薬撲滅政策で警官が何千人も殺害しているというニュースの構造がやっと飲み込めた。

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警察の腐敗も麻薬同様に変える必要があるが、貧困が腐敗を生んでいると映画解説にはある。その腐敗の上にドゥテルテ大統領が誕生してしまう構造があるようだ。勉強になった。

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映画はドキュメントスタイルなので、最初から最後まで突き放して見ることになる。
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| 映画 | 08:13 | comments(0) | - |
ヒトラーへの285枚の葉書

実話の映画化作品。ドイツ兵が森で射殺されるシーンから始まる。そのドイツ兵の両親に死亡通知が届き、それまでのナチス支持の見方を変えていく。

「総統は私の息子を殺した。あなたの息子も殺されるだろう」といったカードを書いて街に置いたりはりだす活動をはじめる。

ヒットラー政権批判のカードが街にまかれると言っても手書きで一枚ずつだが、警察が捜査をはじめる。やがて夫婦が逮捕され、斬首されて映画は終わる。

 

この映画は、カードを書いて配布した活動の合間に、ナチ政権下のベルリンの暮らし、親衛隊が犯人をねつ造し自殺に見せかけて殺害させていく捜査の仕方などが見える。

ユダヤ人への迫害の仕方も単に親衛隊だけが組織的に行っただけでなく、市民がユダヤ人の住居に泥棒に入って、それを近隣住民や警察が黙認・加担する。他方で、ユダヤ人の暮らしをこっそりと支援する人も登場する。

 

日本にもあった国防婦人会が協力を一件ずつ強制して歩いたり、権力者の家は特別扱いしたりといったことも描かれる。

 

政権批判を行っただけで死刑となっていった時代、そういう風景をつくり出そうとする現在の安倍政権とそれに加担する言論が重なって見えた。

 

名古屋は今週の金曜日まで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 07:05 | comments(0) | - |
ラスト・プリンセス

日本に併合されていた朝鮮の王の娘=徳恵翁主の物語り。

高宗の娘であったことは史実。日本に留学させられていたことも史実。対馬藩の末裔である宗氏と結婚したことや離婚したことは史実。戦後、帰国できず、精神病院に入院していたことは史実。帰国運動をする人がいて朴政権時代に帰国したことなどは史実。

独立運動に参加したというのはフィクション。

 

徳恵翁主役のソ.イェジンの演技や敵役のユン.ジェムンの演技が話題にさせられているが、やはり日本が朝鮮を併合する際に李王朝を利用・服属させるための圧力や暴力の中で生活と命を翻弄された人を描いた作品としてみる方がよいだろう。

日本に加担するユン.ジェムンのような人々もいたわけだが、侍女のポクスンが殴られながらも徳恵翁主の側にいようとするシーンなど迫るものがある。ポクスンが徳恵に礼の動作をかろうじてするシーンは、これが抵抗の意思だという強さが際立つものとなっている。これに日本軍は勝てない。

 

久しぶりの映画。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

| 映画 | 00:14 | comments(0) | - |
午後8時の訪問者

診療所の代理の医者のジェニーのところに夜8時過ぎにドアベルが鳴る。

しかし、診療時間が過ぎていたので応答しなかった。

翌日、アフリカ系の女の子が遺体で見つかる。

自分が応答してさえいれば、助かったかもしれないと、身元の分からないその子の名前を探し始める。

 

フランスにおける移民問題が背景にある映画だと考えて観に行ったのだが、それだけではなかった。

発作を起こしたアラブ系の少年の治療に反応できなかった研修医は、民族差別ゆえにかと思ったが、後半で明らかにされるように家庭内暴力の記憶であった。

 

不法滞在故に、生きているときも死んでいるときも少しずつ軽い存在として扱われていく。

そのことが浮上する映画。

 

ところで、フランスの個人開業の診療所は、医者一人で何でもやっている。受付もいないし、看護師もいない。これは知らなかった。
 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 07:08 | comments(0) | - |
わたしは、ダニエル・ブレイク

映画の原題は、ダニエル・ブレイク。邦題は、終盤にダニエルが壁に書く抗議の言葉からとっている。

ニューカッスルに住む大工のダニエル・ブレイクは、心臓が悪く、仕事を止められたので、その支援の手続きにでかける。ところが、心臓の病気であるにもかかわらず、他の障害の有無をチェックされて基準のポイントに満たないからと、就職活動のための支援要請書を提出するように求められる。就職活動の条件を満たしながら、その間の支援を受けるようにというわけである。これが納得いかないダニエル。さらに、支援を受けるための仕組みが細々とやっかいなものとなっていることが一方に描かれる。

他方で、二人の子供を抱えるシングルマザーのケイティと知り合い、貧困問題が描かれていく。貧困にあえぐケイティとの交流を通じて、フードバンクの仕組み、貧困を抱えると何が冒されていくのかが描かれていく。食・衣服・人間関係・そして尊厳が損なわれていくことを描いている。

 

行政の末端業務は業者委託され、マニュアル通りの対応となっていく。その不合理を厳しく批判した映画だ。

それに対して、ケィティがダニエルの書いた手書きの履歴書を読み上げるラストが何が重要かを力強く訴えかけてくる。

根っこのところでの人への敬意こそ最も大切なのだ、と。

 

この間、他にも映画を見たのだが、気に入らなすぎてしばらく書き込まなかったが、本作品は貧困問題に関心のある方は見ておくべき映画。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 06:00 | comments(0) | - |
天使のいる図書館

奈良県広陵町の図書館が舞台の映画。

新人図書館司書の吉井さくらは、「性欲の美的表現が恋愛」と言ったり、なぜかモノ化して人の精神活動を捉える。あるいは機械的包含関係で対象を分析するために、対人関係がうまくいかない。

 

図書館に一人の高齢の女性が昔の写真を持ってやってくる。その場所を探しに一緒に出かけたりするようになる。ところが約束の日に現れなくて、、、という物語。

 

この映画を見ていると、図書館と図書館司書の役割がみえる。レファレンス係は、単に本を探すだけでなく、ブック・トークをしてみたり、所蔵している過去の新聞で調べたりといった役割があることがわかる。結果的に、TSUTAYAなどの利益中心主義の本販売業の運営する図書館とは異なることが浮き上がる。本業で売れ残った本を買い取ったり、都合の悪い本は並べなかったりといったことをしないのが図書館。多様な期待に応える公共性がほんわかと映し出されていた。

 

印象に残ったのは、本等を貯蔵する施設が図書館なわけだが、先輩司書が「本には読んだ人の記憶が残っている」という台詞。多少厳密さに欠けるが、そういう趣旨の台詞であった。「そうだ」と思った。映画と直接的関係はないのだが、知識のため込みと記憶の区分ができるなと思った。

現代社会を知識基盤社会などと言って、知識をモノ化・無意味化しているが、人が知識と向き合うのはそんなこととは全然違う、と思いついた。人はただ知識を蓄積しない。そのときごとの必要や思い出や理解の仕方と共に「記憶」する。無機質な知識としてため込むのではない。ここに知識基盤社会論の欠陥というかモノのとらえ方の偏りを見つけた。

 

小さい劇場だが7割くらい席が埋まっていた。ヒロインは「あさが来た」に主人公の子ども役として登場していた小芝風花さん。登場人物それぞれに人生のエピソードをもう少し重ねた台本になっているとさらによい映画となる。

 

 

 

 

 

 

 


 

| 映画 | 07:33 | comments(0) | - |
ラ・ラ・ランド

公開から二日目に行ったら満席で断念して、平日に。

なんだか観たことのあるダンスやシーンが連続する感じ。写真の踊りの形も別の映画でいつか観た。ミュージカル映画もあれば、普通の映画のシーンも思い浮かんだ。設定は違うが、シーンが同じだ。ストーリーでも反復という基本を何カ所か使っていた。

 

ストーリーは、俳優とジャズピアニストとしての成功を夢見る二人が、挫折しながら出会い、成功はするものの別の道を歩んでいくというもの。ものすごく盛り上がるとか、感動的だとか、新たな発見があるとか、そういうことはない。

そういうことはないけれど、心地よい音楽とシーンが連なっていく。

 

ところでラ・ラ・ランドというのはLA(ロス・アンジェルス)からきている俗語だそうだが、二人(複数)の夢のロスなのでラ・ラ・ランドとなったのか?もしれない。

夢見る側からのロスしか描かれないのも徹底している。夢を描いてやってくるものの、夢にたどり着くことは難しい。運良く夢は得られるかもしれないが、人生は描いたとおりとはならない。そうでなくてもそこに道(人生)はあると軽めに言っている。

 

今日は東日本大震災から6年が過ぎた日。放射能が漏れ続けている現実を直視する視線があるかないかを指標に一日を過ごす。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

| 映画 | 07:28 | comments(0) | - |
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