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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
岩垣 攝,子安 潤,久田 敏彦
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ローサは密告された

麻薬と警察の腐敗を描いたフィリピン映画。ローサは、子ども4人と夫婦2人で雑貨店を営みながら麻薬も売っている。

警察に摘発され、警察署に連れて行かれる。だが警察署の玄関からではなく横から地下へとつながる部屋に連れて行かれる。そこでは、奇妙なことが起こる。押収された麻薬の一部が警官らしき人物に分けられたり、押収された現金が警官のポケットに入っていく。

さらに現金を持ってくれば釈放するという。払えなければ売人を密告するように言われる。こうして一人の売人を密告し、さらに5万ペソ(日本円にして約10万円)を警官に要求されてかき集めてくる話し。

ローサも密告するが、同じ事情でローサも密告されて捕まったのだ。

ドゥテルテ大統領の麻薬撲滅政策で警官が何千人も殺害しているというニュースの構造がやっと飲み込めた。

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警察の腐敗も麻薬同様に変える必要があるが、貧困が腐敗を生んでいると映画解説にはある。その腐敗の上にドゥテルテ大統領が誕生してしまう構造があるようだ。勉強になった。

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映画はドキュメントスタイルなので、最初から最後まで突き放して見ることになる。
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| 映画 | 08:13 | comments(0) | - |
ヒトラーへの285枚の葉書

実話の映画化作品。ドイツ兵が森で射殺されるシーンから始まる。そのドイツ兵の両親に死亡通知が届き、それまでのナチス支持の見方を変えていく。

「総統は私の息子を殺した。あなたの息子も殺されるだろう」といったカードを書いて街に置いたりはりだす活動をはじめる。

ヒットラー政権批判のカードが街にまかれると言っても手書きで一枚ずつだが、警察が捜査をはじめる。やがて夫婦が逮捕され、斬首されて映画は終わる。

 

この映画は、カードを書いて配布した活動の合間に、ナチ政権下のベルリンの暮らし、親衛隊が犯人をねつ造し自殺に見せかけて殺害させていく捜査の仕方などが見える。

ユダヤ人への迫害の仕方も単に親衛隊だけが組織的に行っただけでなく、市民がユダヤ人の住居に泥棒に入って、それを近隣住民や警察が黙認・加担する。他方で、ユダヤ人の暮らしをこっそりと支援する人も登場する。

 

日本にもあった国防婦人会が協力を一件ずつ強制して歩いたり、権力者の家は特別扱いしたりといったことも描かれる。

 

政権批判を行っただけで死刑となっていった時代、そういう風景をつくり出そうとする現在の安倍政権とそれに加担する言論が重なって見えた。

 

名古屋は今週の金曜日まで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 07:05 | comments(0) | - |
ラスト・プリンセス

日本に併合されていた朝鮮の王の娘=徳恵翁主の物語り。

高宗の娘であったことは史実。日本に留学させられていたことも史実。対馬藩の末裔である宗氏と結婚したことや離婚したことは史実。戦後、帰国できず、精神病院に入院していたことは史実。帰国運動をする人がいて朴政権時代に帰国したことなどは史実。

独立運動に参加したというのはフィクション。

 

徳恵翁主役のソ.イェジンの演技や敵役のユン.ジェムンの演技が話題にさせられているが、やはり日本が朝鮮を併合する際に李王朝を利用・服属させるための圧力や暴力の中で生活と命を翻弄された人を描いた作品としてみる方がよいだろう。

日本に加担するユン.ジェムンのような人々もいたわけだが、侍女のポクスンが殴られながらも徳恵翁主の側にいようとするシーンなど迫るものがある。ポクスンが徳恵に礼の動作をかろうじてするシーンは、これが抵抗の意思だという強さが際立つものとなっている。これに日本軍は勝てない。

 

久しぶりの映画。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

| 映画 | 00:14 | comments(0) | - |
午後8時の訪問者

診療所の代理の医者のジェニーのところに夜8時過ぎにドアベルが鳴る。

しかし、診療時間が過ぎていたので応答しなかった。

翌日、アフリカ系の女の子が遺体で見つかる。

自分が応答してさえいれば、助かったかもしれないと、身元の分からないその子の名前を探し始める。

 

フランスにおける移民問題が背景にある映画だと考えて観に行ったのだが、それだけではなかった。

発作を起こしたアラブ系の少年の治療に反応できなかった研修医は、民族差別ゆえにかと思ったが、後半で明らかにされるように家庭内暴力の記憶であった。

 

不法滞在故に、生きているときも死んでいるときも少しずつ軽い存在として扱われていく。

そのことが浮上する映画。

 

ところで、フランスの個人開業の診療所は、医者一人で何でもやっている。受付もいないし、看護師もいない。これは知らなかった。
 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 07:08 | comments(0) | - |
わたしは、ダニエル・ブレイク

映画の原題は、ダニエル・ブレイク。邦題は、終盤にダニエルが壁に書く抗議の言葉からとっている。

ニューカッスルに住む大工のダニエル・ブレイクは、心臓が悪く、仕事を止められたので、その支援の手続きにでかける。ところが、心臓の病気であるにもかかわらず、他の障害の有無をチェックされて基準のポイントに満たないからと、就職活動のための支援要請書を提出するように求められる。就職活動の条件を満たしながら、その間の支援を受けるようにというわけである。これが納得いかないダニエル。さらに、支援を受けるための仕組みが細々とやっかいなものとなっていることが一方に描かれる。

他方で、二人の子供を抱えるシングルマザーのケイティと知り合い、貧困問題が描かれていく。貧困にあえぐケイティとの交流を通じて、フードバンクの仕組み、貧困を抱えると何が冒されていくのかが描かれていく。食・衣服・人間関係・そして尊厳が損なわれていくことを描いている。

 

行政の末端業務は業者委託され、マニュアル通りの対応となっていく。その不合理を厳しく批判した映画だ。

それに対して、ケィティがダニエルの書いた手書きの履歴書を読み上げるラストが何が重要かを力強く訴えかけてくる。

根っこのところでの人への敬意こそ最も大切なのだ、と。

 

この間、他にも映画を見たのだが、気に入らなすぎてしばらく書き込まなかったが、本作品は貧困問題に関心のある方は見ておくべき映画。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 06:00 | comments(0) | - |
天使のいる図書館

奈良県広陵町の図書館が舞台の映画。

新人図書館司書の吉井さくらは、「性欲の美的表現が恋愛」と言ったり、なぜかモノ化して人の精神活動を捉える。あるいは機械的包含関係で対象を分析するために、対人関係がうまくいかない。

 

図書館に一人の高齢の女性が昔の写真を持ってやってくる。その場所を探しに一緒に出かけたりするようになる。ところが約束の日に現れなくて、、、という物語。

 

この映画を見ていると、図書館と図書館司書の役割がみえる。レファレンス係は、単に本を探すだけでなく、ブック・トークをしてみたり、所蔵している過去の新聞で調べたりといった役割があることがわかる。結果的に、TSUTAYAなどの利益中心主義の本販売業の運営する図書館とは異なることが浮き上がる。本業で売れ残った本を買い取ったり、都合の悪い本は並べなかったりといったことをしないのが図書館。多様な期待に応える公共性がほんわかと映し出されていた。

 

印象に残ったのは、本等を貯蔵する施設が図書館なわけだが、先輩司書が「本には読んだ人の記憶が残っている」という台詞。多少厳密さに欠けるが、そういう趣旨の台詞であった。「そうだ」と思った。映画と直接的関係はないのだが、知識のため込みと記憶の区分ができるなと思った。

現代社会を知識基盤社会などと言って、知識をモノ化・無意味化しているが、人が知識と向き合うのはそんなこととは全然違う、と思いついた。人はただ知識を蓄積しない。そのときごとの必要や思い出や理解の仕方と共に「記憶」する。無機質な知識としてため込むのではない。ここに知識基盤社会論の欠陥というかモノのとらえ方の偏りを見つけた。

 

小さい劇場だが7割くらい席が埋まっていた。ヒロインは「あさが来た」に主人公の子ども役として登場していた小芝風花さん。登場人物それぞれに人生のエピソードをもう少し重ねた台本になっているとさらによい映画となる。

 

 

 

 

 

 

 


 

| 映画 | 07:33 | comments(0) | - |
ラ・ラ・ランド

公開から二日目に行ったら満席で断念して、平日に。

なんだか観たことのあるダンスやシーンが連続する感じ。写真の踊りの形も別の映画でいつか観た。ミュージカル映画もあれば、普通の映画のシーンも思い浮かんだ。設定は違うが、シーンが同じだ。ストーリーでも反復という基本を何カ所か使っていた。

 

ストーリーは、俳優とジャズピアニストとしての成功を夢見る二人が、挫折しながら出会い、成功はするものの別の道を歩んでいくというもの。ものすごく盛り上がるとか、感動的だとか、新たな発見があるとか、そういうことはない。

そういうことはないけれど、心地よい音楽とシーンが連なっていく。

 

ところでラ・ラ・ランドというのはLA(ロス・アンジェルス)からきている俗語だそうだが、二人(複数)の夢のロスなのでラ・ラ・ランドとなったのか?もしれない。

夢見る側からのロスしか描かれないのも徹底している。夢を描いてやってくるものの、夢にたどり着くことは難しい。運良く夢は得られるかもしれないが、人生は描いたとおりとはならない。そうでなくてもそこに道(人生)はあると軽めに言っている。

 

今日は東日本大震災から6年が過ぎた日。放射能が漏れ続けている現実を直視する視線があるかないかを指標に一日を過ごす。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

| 映画 | 07:28 | comments(0) | - |
アイヒマンを追え

アイヒマンが登場する映画は相当数見たと思うが、フリッツ・バウアーという検事の存在は知らなかった。上映最終日にようやく見ることができた。

 

ナチスの戦犯アドルフ・アイヒマン捕獲作戦の影の実録ドラマだそうだが、ここでも戦犯をそれなりに裁き続けたドイツと日本との違いをこの映画でも読むことができる。

1950年代後半、検事長フリッツ・バウアーのもとに、アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという手紙が届く。連邦政府が動かないことを知る彼は、イスラエル諜報部にこの情報を流す。映画は、その間のドイツ国内にいる元ナチ関係者の妨害をかいくぐり、戦争犯罪と向き合うことこそが未来をつくるという見方を全面に打ち出している。

 

同性愛者という設定が本当かどうかはわからないが、ナチスがこれを犯罪として処刑していった歴史からみれば、検事がそうだという設定は誠に必然のナチ批判となる。また、戦後も同性愛を犯罪とする法律に従って自首し、そのことでアイヒマン確保を実現するという選択を選ぶ人と、アイヒマンのように戦争犯罪を犯罪と見なさず正当化する人間たちの対比がこの映画の核心部分。

 

今、日本の戦争犯罪を主題とした映画が作成されるだろうか。「この世界の片隅に」は被害のまなざしが支配的で視点が異なる。

次に見たい映画が、今週はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 07:15 | comments(0) | - |
未来を花束にして

イギリス映画。邦題はロマンチックだが、内容は全く異なる。

原題は、SUFFRAGETTEで「婦人参政権論者」となる。邦題は、参政権を花束にたとえて、モード・ワッツらに現代が花束を贈られていると述べたかったのであろう。もう少し普遍化して、未来が花束のようになることを願った人々の物語だといいたかったのかもしれない。

 

1912年のイギリスの婦人参政権運動に参加していく7歳で洗濯工場労働者となったモード・ワッツの物語。

洗濯物を届けに行く途中、ショーウインドウに投石する婦人参政権運動の騒動に巻き込まれる所から始まる。最初は、さほど乗り気でなかったが、劣悪な労働条件、家庭の中でも無権利状態の中で、話を聞きに行く。やがて運動の弾圧に揺れながらも屈しない人となっていく。

 

山場は、モード・ワッツが、7歳の時から洗濯工場で働き始め、12歳で正社員となり、24歳となって「別の生き方があったのではないか」と自己のこれまでを語る部分。モードのこれまでを語ることが、参政権がなく声を聞いてもらえないなかで発生していることとつながっていることを示す。

もう一つは、メリル・ストリープ演じるエメリン・パンクハーストの演説。モードの証言と対をなしている。

 

女性に参政権を与えない男たちの理屈が途中で多数語られる。女には判断力がないなどなど。どう考えてもそれらに根拠がないにもかかわらず、暴言・妄言が100年前までまかり通っていた。人は妄言に騙されやすい存在のようだが、妄言はただされてきた。ただすことに多くの人の声があったと気づかせる映画。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 07:45 | comments(0) | - |
天使にショパンの歌声を

カナダ映画。

原題は、「オーギュスティーヌの情熱」。1960年代、修道院付属の小さな寄宿学校は音楽教育を中心に運営されているが、財政難から廃校の危機にある。

この危機に、校長のオーギュスティーヌは社会に存続を訴え、ピアノのコンクールで優勝を勝ち取ろうとする。だが、転校してきたピアノの才能のあるアリスは親不信の問題児。

 

この映画の見所は、演奏される音楽。コンサートホールの響きとは違った教会に響く歌声。

多くの場面でショパン、リスト、バッハ等の曲が演奏される。ショパンの曲は「別れの曲」、姪役の子は本当に演奏している。

もう一つは、財政的に不採算な寄宿学校学校を廃止しようとする総長と校長のオーギュスティーヌのやりとりの場面。経費の削減や総長に従うよう求める総長が「謙虚はないの?!」というと「志を高くと教えている」と互いに聖書の言葉を持ち出して応酬する。

こうしたやりとりは、女子用寄宿学校がこの時代どんな位置にあったかを踏まえないとわからない。

学校卒業後に働くことは期待されておらず、貞淑な妻となることが期待されていた。これに対して音楽の教育を中心に据えることはかなり異例であったのだろう。

この点を踏まえないと、校長の「情熱」の意味が音楽教育にだけ熱心な教育者ということになってしまう。

 

邦題の「天使」は何をさしてつけたんだろう。天使とは寄宿学校の生徒のことという俗っぽい想像でつけたのではなく、財政問題しか見ない教会経営者ではなく、教会にいる天使に歌声が響くようにつまり存続していくようにということか?誰がどういう意図で邦題をつけたかは調べなかったので不明だが、原題よりロマンティックに響かせたかったに違いない。

 

ところで、一貫した主題の元に映画がドラマとして構成されているタイプの映画が私は好みらしいことはわかった。

他方、今ひとつはっきりしなかったのは、「音楽の力」の具体的な中身。全部聴いていたいなと思ったりしたのだが、「音楽の力」「ショパンを理解している」とは何かは未解明。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 映画 | 06:46 | comments(0) | - |
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