CALENDAR
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728   
<< February 2018 >>
                                 
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
岩垣 攝,子安 潤,久田 敏彦
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
ARCHIVES
CATEGORIES
                
「絶対」はない

少し前に読了した『ガンディー』岩波書店は非暴力主義であったことになっているが、社会的な暴力の廃絶をめざしたとはいえ、結果的には暴力の容認となる事柄もあった。

読みかけのまま放置中の佐伯胖・佐藤慎司編『かかわることば』東京大学出版会によれば、ピアジェ的発達段階論は否定され、関係の中では三人称の視点を3歳児も持てるという。

そしてまた読みかけ中の『しあわせになるための「福島差別」論』かもがわ出版には、ある種の絶対化が福島を差別することに思いと逆になってしまう議論があると紹介されている。短い文章が多いので事情を読み切れていない点もあるかもしれないが、そしてその主張に賛同しない点もあるが、ある種の絶対化は誤謬をもたらすことはあると思われる。

 

今の時代、反対向きの二つ傾向が氾濫している。

一つは、みんなによい顔をするネット情報。これも近しい者だけによい顔をしていることが多く、信頼に値しない。

一つは、ヘイトだ。これはわかりやすい自分視点だけ。その自分視点が実際は他者の言説に乗っているだけで、信頼に値する自分さえない。

どちらも流れに従属していて、自律性が欠如している。失われた自己を絶対化する操作は、それこそ安易な絶対化だ。

 

他者を信頼することと自分なりに確かめることを絶対化せずにつなぐ道を歩んでもいいのではないか。板倉聖宣の業績は何だろうと考えていたらそこに行き着いた。(これは氏の評価ではなく、そうした論点とつながりそうだという意味。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:45 | comments(0) | - |
初めての面接練習

教採対策の一つである面接練習におつきあい。

 

面接には、個人面接と集団面接があり、そのやり方も採用単位ごとにいろいろ異なる。採用担当の方が、進行と面接の質問事例や討議テーマ例を並べた資料を用意してあった。

学生は教採対策講座は受講しているらしいが、面接練習を実際に行うのは今回がはじめてらしい。初めてらしく発言の順番が回ってくると焦って話しの筋がズレてしまったり、同じような回答になって、面接担当のベテランから指摘されていた。これらは、何度か練習をすると上達するに違いない。

 

うまくなりにくいだろうと思われたのは、定番の回答内容。対策本の回答例や世間的「中庸」が基準になって短く応答しようとすると応答が画一化する。「ボランティアをやってました」とか「バランスが重要です」といった類いの応答がそれ。これはある種の常識が二重三重に支配しているのでやっかいだ。センター試験が高校の授業のあり方を支配する構造と似ている。ボランティア活動もしただろうが、そこにこそ学んだかどうかは疑う余地がある。バランスという中身の取りようによっては妥当な場合もあり得るが、バランスという発想が事態とかみ合わないことが現実には多い。ともかく学生は留保をつけて普遍妥当な応答となるように努めるのだが、そうした一般化された問題のある理解が教師像や教育活動の一般方針に本当になっていっている節がある。

 

具体的に考える方がいいのだが、これはなかなか面接状況という中では難しそうだ。

面接練習は練習をしすぎると、定型化が進行する学生がいる。定型化すると一人ひとりの違いもなくなるので、面接の無意味化が進行する。個性もそれなりに打ち出さないと教採というゲートを超えられないばかりか、学校が多様にならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:46 | comments(0) | - |
論の後

1970年代。名前を知っている何人かが女教師論を書いていたことを読了した「教師の声を聴く」で先日知った。

著名な実践家で、一人は東京の女性教師。一人は算数教育で有名な四国の教師。ずっと前に話しを聞いたことがあったり、著作を読んだりしたことがある。他にも何人か存在を知る人が取り上げられていた。

 

四国の算数教育氏は、数年前に亡くなられたと記憶する。

何を語ったのかというと、担任に女性教師を望まない親たちがいるという言説が当時あり、四国のその教師はそのような親の希望を正当とみなし、40代女性教師のプロ意識のなさを記していたとある。70年代の「女教師ハズレ論」の議論の一つのタイプとして取り上げられている。取り上げた論文は言説研究的論文のくだりなので、だから良いとか悪いとか書いてあるわけではない。しかし、批判的まなざしは明らかにそこに見える。

 

だが、算数教育氏にしてみれば、教材研究にもとづくユニークな教材と授業構想を打ち出し続けていたわけで、その後も発表し続けた教師だった。そこに特質があった自負があろう。そういう男性教師からみると、それに取り組まない教師は、「プロ意識がない」と映ったのだろう。実際にそういう女性教師が周囲にいたのかもしれない。

しかし、算数教育氏の主張は、過剰な一般化と視野の狭さにおいて批判されるのはやむを得ない。

というのは1975年は、ようやく育児休業法が成立したばかりという時代だ。それまでは子どもができても出産直前まで働き、産休もままならず退職する人も多くいた。育児休業法ができてもそのまま取得することさえ困難なこともあった時代だ。また、女性教師だからこその「よい」指導もあるという言説もあった時代だ。そうした諸状況を考えると算数教育氏の議論は批判的に取り扱われることになる。

教材研究に没頭する教師がよい教師という教師モデルを基準に、それに合わない教師をダメ教師と見なす見方がそこにあるということになる。

以上のような教師論をここで記したいわけではない。

 

算数教育氏の論が40年以上後になって、本に取り上げられ、批判されていくんだなあという感慨だ。

算数教育に関わる仕事の価値がなくなるわけではないが、別の角度からは課題が指摘される。別の課題が指摘されるほどの存在感を持っていたわけだが、生きていたら納得して、どんな主張をするだろう、そんなことを思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:39 | comments(0) | - |
ネットワーク化の不便

まだ壊れてはいないが一台のデスクトップはいつストップしてもおかしくないほど時が過ぎた。

代替えしようと新しい一台の梱包を解くと、接続コードは電源とUSBが一本だけで、マニュアルもサイトアドレスを記した紙が一枚。

 

旧いデスクトップの設定を接続コードでつないで読み込ませようと思っていたらすぐにはできないことがわかった。

 

確かに別の読み込ませ方があるわけだが、接続ジャックの形状が変わっている。たまにしか利用しない部分はいつもいつも不便に感じる。前と同じように直接つなげられる手法も残しておいてほしかった。

多岐にわたるパスワードの設定もまことに面倒。

 

面倒なので、壊れるまで使い続けることにしようかと思案中。切実感が違って取り組める気がした。

 

本職の仕事だけをしたいもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:35 | comments(4) | - |
前期入試

来週は勤務先の前期入試。

何とか方式というのが色々あってよく分かってなかった。「そういうことか」とやっと先週になって理解した。

要するにセンタ試験の利用科目数の数、大学の試験科目数の組み合わせということらしい。

 

複数回受験という意味もやっと理解した。

一度の志願で複数受験できる制度をそれぞれ別に受験するものだとばかり思っていたら違った。

受験科目数の多い受験方式から前期試験は始まるが、そこで一回受けておけば大概は二回目の受験が不要となるらしい。だから初日を過ぎると順次受験者が減るようなのだ。

勤務先の場合、数学はテスト範囲が限定されている。試しに過去問を眺めた。移項していけばいい問題などは今の私でも解ける。

「私学ってそうするんだ」とおもった。

 

「未来の教育」の期待とはたぶん別の方向を向いている感じなのだが、大学の創立者のスローガンの要するに堅実ということを反映しているのだろう。いや、そうなっているというべきかもしれない。

 

教育政策を念頭に置くとき、広く全体をみわたさないと誤る。

政策にすぐに動かされる部分とそうでない部分。

 

私の試験監督は初日なので、監督時間が長い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 09:29 | comments(0) | - |
卒論発表会

本日は、勤務先の卒論発表会だそうだ。

各大学・各専攻によってやり方が違う。別の私学の様子を聞いた所では突っ込まれて涙ぐむ学生もいるという。前の勤務先では毎年一人二人はそんな感じもあったようだが、ここはどうなんだろう。

 

テーマの選択が半分以上卒論のできを左右すると今までは思っていた。深まりようがないトレンドにあわせた表層のテーマを選ぶともう卒論としてのできは難しかったような気がする。

 

私が配属された発表会の部屋は、比較的いいテーマを選んでいたように思う。本文は別にして、発表のみでいうと部活の体罰を取り上げた発表が一番よかったように思う。調べていく中で部活強豪校の方が体罰が横行し、同時にそれを受け入れていく生徒が多いことを明らかにしていた。

 

あまりよくないのは、テーマに関する基本文献をもう一度紹介するタイプのもの。理解するのに精一杯で、自分がどこにもない。

先行研究に読まれてしまっているものもどうかなという感じ。別の視点や主張に出会ってない場合に多い気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 09:12 | comments(0) | - |
千畝の碑

会議の後で撮った杉原千畝の早稲田大学14号館の南側にある碑。

 

昨日の続き記事。

リトアニアを訪問した首相は、13日に次のように述べた。「日本から遠く離れたこの地にあって杉原千畝さんは、大変な困難な状況の中、強い信念と意志をもって、日本の外交官として多くのユダヤ人の命を救いました。」

しかし、ここにはウソがある。

 

写真にあるように碑には、「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」とある。

明確に当時の日本の外交官としてではなくと、記してある。日本人などと国家や民族に同化して讃えられることを拒否する姿勢がそこにある。

 

いま「道徳科」の教科書にも取り上げられているが、それらの意図はその頃の日本で世界から賞賛される人がいない中で、わずかにその可能性を持つために、国家主義的思想の涵養のために利用しようということであろう。しかし、それを否定する把握を本人がしていたと解釈できる碑文。他人の事績に自己を同化して、自己のランクアップを目指す発想は人として貧困というべきだろう。

 

この碑は、2011年に建てられている。当時、リトアニアやイスラエルの大使らが参列して序幕された。だから関係国は外交官としてではない観点からだったことを皆知っている。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:58 | comments(0) | - |

勤務先へのいつものルートを変えたら「平和公園」の案内板があった。

公園のさらに奥は墓園らしい。

平和公園というと広島が有名だが、名古屋市内にも同名の公園がある。そこも霊園と聞く。

 

墓碑も「いしぶみ」の一種。

勤務先にも創立者の碑がある。

今日、これから出かける早稲田大学には昨今話題の杉原千畝の「いしぶみ」があるとマップに表示されていた。早稲田高師を中退しただけで碑が建つ。

 

「事跡などを示す文字を彫り刻んだ石」を残すことに何の意義があるのかわからないことも少なくない。

歴史的事件の場合にも、いつまで歴史的事件として意義があるのかわからない。記念の植樹も移転だからとあっさり伐採されることも少なくない。

他方、個々の人の生はかけがえのないもの、それを知る人がいる間何らかの形の「いしぶみ」にすることは意味あることと考えることができる。

 

時間的展望をどのくらい持つかに依存するということまではわかった気がする。その多様さのなかでその意義は何だろう。わからないことは多い。

 

(中教審委員の著作を読んでいると、「今まででいいんです」といいながら、オチではそれではダメで答申のスローガンと論理で終わるパターンがよくある。これは詐欺的論述ではないか?と時々思う。そういう足跡は消えた方がいいのではないか。しばらくは破綻として残っていた方がいいのではないかとも思う。原稿思案中。関心事は今ここに集中している。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 08:08 | comments(0) | - |
旧すぎ

「中学校の部活動について、学期中は週2日以上を休養日とし、1日の活動時間は平日2時間、休日は3時間程度までに抑え、合理的で効果的な練習」とスポーツ庁の会議案。

おそらく20年以上前に問題点・対策として聞いた内容だ。

無駄に長い練習。

中学生の健康を害する部活。

特定種目に特化しすぎ。

ついでに部活における上下関係と暴力。

これらについての議論は旧すぎ。

それらをやめるという方向はもう決まっている。どう現実化するかだけが課題だ。

 

旧すぎ。

夕刻のNHK地域ニュースに連日、自衛隊の日常関連のエピソードが織り込まれていた。以前は見かけることがなかった。政府広報放送局と呼ばれるようになったNHKがその姿を拡大したのだろう。

しかし、それより80あるいは90年前頃は、テレビはなかったが新聞・ラジオは軍関連プログラムであふれていた。そこへ今風に回帰しているのだとすれば、やはり旧すぎ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:36 | comments(0) | - |
全国学テの時間は何の時間?

センター試験の日ということで、テストの話題から。

来年度は、4月17日に実施されるのが全国学テ。

この時間について次のような教育課程上の読み替えをすると文科から通知が先日出された。

 

4)教育課程上の位置付け
  調査の教育課程上の位置付けについては,教育委員会及び学校の判断により,以下のとおり取り扱うことを可能とする。
ア 教科に関する調査については,以下のとおり,当該教科の授業時数の一部として取り扱うことを可能とする。
(ア)小学校調査
1 国語及び算数:それぞれ1.5単位時間相当
2 理科 :1単位時間相当
(イ)中学校調査
1 国語及び数学:それぞれ2単位時間相当
2 理科 :1単位時間相当
イ 児童生徒質問紙調査については,特別活動(学級活動)の一部として取り扱うことを可能とする。

 

国語や算数あるいは理科に読み替えるのは、ホントは変だけれど、まあわからないでもない。

ホントは変という理由は次のことにある。教育課程の編成権は学校にあり、それを上から悉皆テストを強制し、権限がないのに教育課程上の位置を指示するのは越権行為と考えることができるためである。その意味では「ホントは変」と言えなくもない。

 

もっと変なのは、「児童生徒質問紙調査」の時間が特別活動の時間に読み替えていいよという点。かなり苦しい説明になるだろう。アンケートに回答しているだけで、教育活動ではない。子どもの生活に係わることも質問項目にはあるが、「自己の生き方に ついての考えを深め,自己実現を図ろうとする態度を養う。」(小学校学習指導要領特別活動の目標)にあたるだろうか?アンケート結果は数ヶ月先だ。自分がどう答えたかも忘れているだろう。

教師としては、何の時間でもないことになるとキツキツの時間割をさらに圧迫することになるから、何の時間であれ読み替えられてればいいと思うだろうが、「教育は意図的活動のはずなのに」とまじめに考える誠実な人はいぶかしむに違いない。

 

これを「マジ卍」に言語化すると、教師と子どもの時間を奪っておいて、教育課程上に位置づけたことにして不当性を隠している、という感じだろうか。

 

雪がひどくならないことを願って本職の原稿を書こう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:20 | comments(0) | - |
| 1/191PAGES | >>