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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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PISA批判のレビュー

『教育学研究』85巻第3号の情報的価値は、高山敬太の「PISA研究批評ー国際的研究動向と『日本』の可能性ー」だ。

PISAもしくはPISA的な動向を当然とする議論が支配的となっているなかで、その研究過程の欠陥や、これを批判した近年の研究論文の論調を紹介してくれている。

 

このところの私の関心との関係で言うと、読解のリテラシーは英語圏的リテラシーで国語教育における読解の観点が排除されて計測されてきたという下り。読解の二つの間にどんな違いを読むのかまでは論及がないのでわからないが、説明的文章の読解と文学的文章の読解で前者に比重が置かれているということと関わりがあると読んでよいとする可能性はあるかな、と想像した。これはあくまで私の想像であって、論者の議論かどうかは未定。

 

この問題で思いをはせるべき方向のいくつかが含まれている。

そんな印象だ。

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:38 | comments(0) | - |
フェードアウト

日が変わって降り出したらしい雨が、止む兆しを見せている。

昨年、たぶん一度、ブログを記さなかった日がある。書き込む環境をつくらなかったことによる。

今年は、たぶんこれまでにたぶん二度ある。さらに増える予定だ。

 

ジョグをはじめた頃は、「記録をつけると続く」と本にあったので、最初は専用のノートに記していた。距離だけじゃなくてタイムを書くこともあった。タイムを書くのは短期間に止めたが、日にちと距離は記し続けてきた。今も続いているのだが、徐々にオープンにするのはやめにしてきている。フェードアウトしていこうと思う。

 

先日、学生の頃にお世話になった水内先生の本を書店で見つけた。昨年刊行の奥付があった。久しぶりだったが文体というか、語り口が最初の頁から感じられた。だが、その間の積み重ねもあった。同じ棚には別の方の編著本が何冊か置かれていて、並ぶと同じ趣旨であることがタイトルだけでわかってしまって、ひどくつまらなく映って移動した。

とはいえ、自分も同じ趣旨の原稿の依頼が来るとどう差異化するか苦心する。同じタイトルでまったく異なるアプローチの文章を書けるといいなと思うことがある。しかし、おそらくできない。本の形とは限らずとも、新しいアプローチを生み出せるといいなと思う。

 

決定的なのは、関心を新しくすること。対象だけでなく方法論的アプローチもかわるかもしれない。そうなれば旧来の慣行も形を変えていく。どう変えていくことになるのかわからないのだが、そうした変化を期待している。

すでにしばらく前にHPはやめた、やがてここも止まる。

だが、やがていつか別の何かが始まっていくかなと想像する。しかもできれば、律儀にそうするのではなく、何となくそのうちにというプロセスをたどれるといいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 08:00 | comments(0) | - |
引用方式

論文の註の示し方は、沢山ある。

有力なのは、バンクーバー方式とハーバード方式である。こういう言い方が広がっているので使っているが、この言葉を使う理由はない気もする。

 

私は、バンクーバー方式と言われる方式に近い形でずっとやってきた。

人文社会科学系はこれが多い。本文には順に番号を振り、註(注、参考文献)に番号順で書誌情報を列記する方式である。

対してハーバード方式は、著者名と発行年そして時に頁が示され、参考文献一覧には著者名のアルファベット順で示される方式である。自然科学系と日本では心理学や社会学の分野で採用されていることが多い。

 

近い形というのは、正式と教えられた記載項目と記載順が欧文のバンクーバー方式といくつか異なるからだ。学会誌などはそれぞれ註記の仕方を定めていることが多いのだが、複数を例示しているところもある。けっこうやっかいだ。

 

慣れた方式の方がよく見えるわけだが、本文を読み飛ばすだけの場合にはどちらでも困ることはない。引用された文献の頁まで確認する時には、バンクーバー方式がいいと思っている。ときどきだがハーバード方式で頁が省略されているものに出会ったことがあって、探すのが面倒だった経験に影響されている。そんなに多くはないのだが、急いでいた時だったので「もう!」と思った。

 

書誌情報をどこまで載せるかも微妙だ。

自分の論文でも、編者名や出版年はしばしば省略する。本文を増やすためだ。版によって文章を変えられている可能性があるので重要だという人もいるわけだが、私たちの分野でそれが問題になることは少ない。

学会関連本だったり、スペースがあるときにだけ詳しく記している。

 

公式と簡略版との差を知らないのは困るが、知っていて省略する分にはかまわない気がするのだが、まれにこだわる人がいる。

このこだわりは良し悪し。

 

未だによく分からないのは、参考文献をどこまで載せるかだ。

これを書くにあたっても一応いくつか文献を見ているのだが、一つも記していない。

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:37 | comments(0) | - |
前のめり

後期の授業が始まった。

学ぶとぼくとつに新しい認識が生まれるという人がいる。しかし、それは同時に、本当は偏見が発生することでもある。ここで強調したいのは、「同時に」という点だ。同時なのだ。

「知ることは楽しみ」というフレーズを定番にしている人が昔いて、これを批判したのが高橋愼一だった。新しいことを知ると苦しみが始まると述べていた。

論文に引用したことがあるが、鶴見俊輔は学びほぐすことをヘレン・ケラーに会った時のエピソードで何度も強調した。知ることは偏見や定型的ものの見方を形成する。単純に真理に近づくというわけではない。

 

偏見の一つに人の見方と自分の見方がある。これはなかなか強力だ。「こんな人」と思い込むとこれを修正していくのは難しい。ある程度の体験に裏打ちされているから大変だ。

そこで、「いままでとちがって、できるかもしれない」という姿勢、前のめりになって見る見方が必要だ。期待と言っていいのか少々躊躇があるが、そういう方向が必要だ。

 

そんな話しを合間に織り込んでみた。

そうした方がいいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 08:09 | comments(0) | - |
封筒と郵便

自宅ポストに入ってくる通常サイズの封筒や葉書は、激減した。

最近は、大判の封筒が増えた。私の場合、それらは学会や研究団体からの広報、その次に企業の宣伝物が多い。これらは私信といえば私信だし、信書といえば信書だが、個人から個人に宛てて送られてきたものではない。団体から個人へなのである。

かつて、デリダの「郵便」が話題となったことがあるが、それらの議論とは関係がない。郵便と個人の関係が変わったなと大判の封筒を見て思ったのである。

 

近代郵便制度以降に限っても大分時間がたち、「個人の」私信が行き来していた時代を長く体験してきたので、つい「郵便」と言ったり、「郵送されてきた」などと今も言ってしまう。民間業者が参入してしばらく大判の封筒は郵便局を圧倒する時期があった。今は値段が改定されたりしたので再び郵便局扱いのものが増えた。それでも配送業者のものもそれなりにある。それらも郵便ということが私の場合は多い。かつての基準に合わないのにな、と思う。

 

かつての基準は、差出人が人としていて、住所と受取人の名前があって、その間に挨拶や連絡事項が挟まっていた。いまは、差出人が団体や組織になって、受取人も一応個人ではあるが、団体から見た属性が優位になっている。団体にとっての会員、会員という属性を持っているので会費の督促だったり、イベントの案内だったりする。

私信は、同じ案内をする場合でも、そこへの個人としての位置づけや意味づけがついて回っていた。今は、これが一般化した表現に統一されている。

 

コミュニケーションの一手段であった郵便的応答は、今のタイプが多くなった。

私信はeメールの類いが増えた。

 

とはいえ、今も大判の封筒が届く。

大判の封筒は、それなりに再利用するが、ゴミ袋程度でだんだんたまっていく。

 

 

 

 

 

| 暮らし | 10:37 | comments(0) | - |
映画を選ぶ

7月は一本、8月は一つも見なかった映画。

ずっと減少していたので復活させようとラインを眺めて、見てあげてもいい作品をリストアップ。

 

a)  乱世備忘 僕らの雨傘運動

b)  輝ける人生

c)  万引き家族

d)  判決、ふたつの希望
e)  500ページの夢の束
f)  SUNNY強い気持ち・強い愛
g)  カメラを止めるな!
もう、今日が最終日の作品がふたつある。
だからかなり無理して三本。
このラインアップの選び方に私の志向がある。
cやgは世間で話題だから。gは話題でなければ見ない。今回もスルーの可能性は高い。
fはリメイクということで面白かった原作との比較をしたいため。
普段なら、以下が真っ先に選択の対象となる。
eは自閉症の子のロードムービーらしい。
bは人生を振り替えるタイプの高齢者向け映画。
dは口論が法廷に持ち込まれて社会問題が議論されることになるらしいので期待が持てると思っている。がこれも日にちがない。
aはドキュメント。香港という状況を見たい。
新しい設定のドラマという視点が第一にくる。新しいが重要だ。
次は、社会を見るまなざしを探すことが第二。これも新しくないとだめ。
どれに行けるだろう。
| 暮らし | 07:38 | comments(0) | - |
原稿は横書き

皆さんはどうですか?

私は、原稿を書くとき、横書きでないと考えにくいのです。

 

人文系の雑誌や書籍は、圧倒的に縦書きが多く、先月も縦書きのフォーマットの見本ファイルが添付されてきました。ありがたいご厚意なのですが、作成には使えなくて、書き上がったらそこに流し込む予定にしています。

私の場合、原稿を書くとうことは思いついた完成した文章を打ち込むわけではありません。思いついた文の一部を打ち込みながら、そこに続く文を考え、考えた未完成な文に述語をつけて、一文を一応終了にします。ですから、ときどき、書き出しの頭の部分(主語であることが多いですが)と、述部との対応関係がずれることがあります。そうした文章としての修正をしながら、述べたい内容と一致させる作業を反復していきます。

文章を作成するという手の操作としては一つですが、行っていることは二つで、これを縦書きで行おうとするとうまくいきません。手の操作は縦書きも横書きもほとんど同じなのに、なんだか考えることができにくい気がするのです。

 

紙の縦書きの原稿用紙に原稿を書いていた時代もあったのに、今では横書きに慣れきってしまったようです。

ワードは縦書きと横書きでわずかに操作が違います。どこか指摘できませんが、その所為かもしれません。そのわずかな違いが煩わしさを生んでいるのかもしれません。

 

校正は当然縦書きが多いわけですが、それを修正する作業の時は、縦でも横でもあまり違いを感じません。校正の時は打ち込む操作がほとんどないことが一番の違いですから、やはり横書きで打ち込む身体になっているということでしょうか。

もしそうなら身体は操作されるものというのは本当ということでしょうか。

 

もう少し言うと、縦書きで大判の本は読みにくい気がいくらかします。

皆さんはどうなんでしょう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:08 | comments(0) | - |
倒木をみながら

勤務先の広場の木が倒れた。

直径30センチほどだが、根を張ってなかった樹木らしく倒れるのもヤムをえないように思えた。正門付近の倒れた別の木は、根を張っているが故にそのまま傾いて道を塞いだらしい。場所柄すぐに撤去された。

吹きだまった枝や葉を作業の人たちが忙しく集めていた。だから、今日は、痕跡を残しながらも撤去されていることだろう。
ロボット学会が開催されているらしかったが、台風のために一部予定を変えたらしい。
たぶんその企画の一環だと思うが、スタンプラリーが開催され、全部回ると大学ブランドのワインをもらえるとあった。学会でなんでまたスタンプラリーなのだろう。
お金を集めていそうな学会だなと10号館の横を通り過ぎた。
日常に非日常の復旧作業が付け加わり、日常の姿が少し変わって、またそれが日常となるのだろう。
昔、風で暗い霧を吹き飛ばしたいと歌う曲があった。いくらか飛んだだろうか。
(たしか、「お空の風をもらって帰って」だった。空に「お」がついているのがずっと疑問だった。幼さなのか、敬意なのか、単なるリズムなのか、・・・?)
今日も意味を探して歩く。


 

| 暮らし | 06:32 | comments(0) | - |
制度化すると疲弊する

9月1日は自殺の特異日だったので、防止キャンペーンが張られていた。今年は、曜日の並びで今日が月曜なので、おそらく今日までキャンペーンは続く。特異日と言っても数字が小さいので、妥当性はかなりゆるやかに見ておく必要があるのかもしれない。

 

ここ20年から30年のあいだに変わったのが進路指導の取り組み。

60年代に今のような進路指導は存在しない。大学入試のための模試が行われるようになっていた程度。当然センター試験もなかった。担任は、進路をどこにするかを聞くだけ。願書を自分で調達し投函するだけ。結果も3月に聞かれたので教えてあげただけ。

全部落ちる推測を自分でしていた医学部希望の同級生は予備校を自分で選んで通うことにしていたが、それを学校に報告することなど制度化されてはいなかった。今地元で彼は開業医をしている。

進学率が今の半分以下だった時代は、そうだった。それで困ることはほぼなかった。

時が経って、今は高校入学時点から進路に向けた歯車が回り始める。履修科目が進路と一々関連づけられ、適性検査の類い、学校によっては補習、入試情報と入試関連行事が卒業まで続く。適正なんかわかるはずがないのに、こまかく方向が示される。

 

大学もそうだ。就職に向けてセミナーの類いが並ぶ。看板をみてホントか?!と思ったのが男子学生用の身だしなみ講座に「マンダム」と名付けられていたこと。今の時代に錯誤を創作する動きをみた。そう言えば数年前、京都で就職用写真もきれいに見せる加工を宣伝するチラシを見せてもらったことがある。一桁値段が高かった。

 

面接対策は、これまた細部までトレーニングするコースがある。中には思わず「えっ」という形をそのまま反復する姿を見ることがある。これも制度化されていて、「東京何とか」などでは定式化してあるらしい。

コミュニケーションが定式化されると、演技となり、就職をめざす学生は役者じゃないから不自然そのものを体現することになる。その不自然さを私が採点すると、むしろひどく低くなるのだがホントの面接担当者はどうするのだろう?

 

私が大学の推薦入試で面接を担当していたとき、定型化された話しを定型通りに話す学生の評価は当然低かった。たぶん周囲の担当者もそうだったと思う。言わされている感じは、誰でもわかる。自分自身のホントの意見を言える学生の方がずっといいはずなのに、トレーニングするとよさが消える。

制度化されると疲弊して悪化する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 08:10 | comments(0) | - |
騙されやすい存在

児言研『国語の授業』の原稿の校正を行っていると、気になる一節があった。

「人は真理にも到達するが、騙されやすい存在でもある」

と書いてあった。自分の書いた文章だが忘れていた。

 

これを入れたのは、自分だけは騙されることなく正しく世の中を掴み認識していると思っている人が多いということがある。

自分だけは騙されないと思っていても騙されると日本銀行協会の振り込み詐欺に注意を呼びかけるネット広告があった。だが、その銀行協会の一員であるスルガ銀行が騙していた。なんと皮肉なネット広告だと思った。

ともかく、日常は騙されないと思っている人が多い。自分の把握が真理だと信じていることが多い。

 

浜田寿美男の新刊『虚偽自白を読み解く』岩波新書にもあるが、無実の人が自白し犯行内容を語ることがあるように、一定の状況ではウソだと思わなくさせられてしまう瞬間も出現するのが人間だ。そのように自覚しておくことが必要なのだ。原稿にはなぜ必要なのかを記さなかったが、そういう前提にたっていないと教材研究ができない。

 

なぜそう把握するのかというと、かつて人々の間に真理への楽観論が支配していた時代、「我々は正しくあちらはまちがい」という前提を疑えなかった人々が騙された。これは、学歴があるなしに関係なかった。このまなざしがあるなしは関係があったのではないかといくつかの人々の体験から推認している。そのまなざしがあってもあらゆることにいつもこの観点を適用できたかというそうではない。

 

しかし、だからこそ人は真理にも到達するが、騙されやすい存在でもある、と押さえたい。公式的教材把握が提出されている時代、それを疑うものだけがホントの授業をできる。そう思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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