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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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今週の心配事

人は、ほんとに些細なことが気になるもの。

今週の周辺身辺的気がかり。

 

・今日は元留学生がやってくる。初めての場所に迷わずに到着できるだろうか?

 

・週の半ばに雑誌原稿の締め切り日がある。終わるだろうか?

 

・科研の報告書の提出予定日だが、経費の計算書がまだだ。

 

・何種類かの出張書類の探し方と書き方がわからない。

 

・二つの関連する講義の展開の順番迷い中。

 

もっと細かい今日のお昼予定のお店は空いているかどうかさえ気になる。

来週になれば、また別の些事が気になるに違いない。

きっとそれぞれの日々にずっと続く。

 

気になる些事のいくつかは、私が選択した結果発生した些事。いくつかは私が選んだわけではなくて、遭遇してしまった些事。

選択した気になることだけになっても、偶然に支配された気になる事だけになってもつまらないのだろう。

 

気になる些事は、家にこもっていると増える傾向がある、とだけは言える。

外に出よう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:41 | comments(0) | - |
単位不足からの

図書館の吹き抜け。

まだまだ新しい勤務先の本の配置がわからない。図書館のカウンターや案内の人の配置は、前よりよい配置だ。ただ私の専門分野の本はすくない。教育学部しかない単科大学の図書館と7学部ある大学の図書館との差だから当然かもしれない。

 

新勤務地には、学年毎に進級できるための単位数の規定があるらしい。そこに何らかの理由で満たないと、休学という道が一つあるらしい。普通は、「単位取得に向けて来期こそ」となるのだろうが、必ずしもそうではないようだ。

留年する期間の学費捻出が課題となるために、休学を選ばざるを得ない学生が少なからずいる。その期間にバイトして貯めてから復帰をめざすという。
しかし、これはリスクが高い選択肢だ。
というのは、バイト暮らしが復学を難しくすることも少なくない。貯めるほど稼げなかったり、稼ごうとすると「バイト生活」の習慣から戻れなくなることがあるようなのだ。
今までの勤務先にもなくはなかった選択だ。だが、学費の差もある上に、下宿生の比率の高さもあって、休学の目的?意味が違う割合がより高い。昨日知ったこと。
大学の学費を下げる政策がとられないと、厳しい学生には厳しい選択だけが待つことになる。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:15 | comments(0) | - |
「深い学び」って深くない

いま、学校現場では「深い学び」に関心が集まっているらしい。

学校現場によく出入りしているAさん、情報が集まるBさん、議論の経緯に詳しいCさんが語り合っている。

 

Aさん:「横文字はだいぶ消えましたね。CBにAL。それでいまは「深い学び」ですね。」

Bさん:「たしかに。それどうすればいいのかが関心事になってますね。でも、その意味詮索してもつまらないですよね」

Cさん:「そうそう。主体的で対話的な学びのついでにつけられただけですよね。」

Bさん:「話し合いしておけばいいみたいな動向の軽さに対して、ちょっと足されただけ。」

Aさん:「すると、学習論として学問的規定や背景があるわけじゃないわけですね。DEEP LEARNINGという学習論があるけどそれらとは関係がない。」

Bさん:「だから「深い」という言葉のニュアンスとは逆に、軽い言葉ですよね。」

 

そんな雑談を創作してみた。

(Aさん、Bさん、Cさんには実在のモデルが存在しますが、キャラクターと発言は創作されています。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:17 | comments(0) | - |
大人の思考力・判断力・表現力

このところ教育の世界で重視されている力は、「思考力・判断力・表現力」にある。何度も持ち出されて長いので、ここでは「思判表力」と略すことにする。

個別の知識や技能より重要だとあからさまに語る文書や人がいる。最後人間力に収斂させている議論もあるが、それが何を指すのかご都合主義的に顔を変えるので訳がわからない。これもまたわからない。

 

昨日は、トランプがこれ以上血を流さないために巡航ミサイルでシリアを攻撃した。血を流さないと言って血の出る軍事行動を取る「思判表力」がわからない。

さらにわからなかったのが、安倍がこれに賛同したコメントをしていること。論理的な説明でないトランプの説に直ちに賛同する「思判表力」がわからない。非論理的な主張に同意できてしまう「思判表力」のようだ。敢えて言えば「従属力がある」とは言えそうだ。そういえば、復興相もそうだし、財務相、文科副大臣等々政治家を名乗る人の「思判表力」も惨憺たる状況にあるように見える。

 

そういう大人の世界があるのに、教育の世界に「思考力・判断力・表現力」を期待するのは、どうも信じられない。言う側のそれが疑わしいとき、言われた側は本当は信じない対応となる。それとも予知能力があって、反面教師としての教訓から強調しているのだろうか。

 

ともかくわかっていることは、政治家にこそ「思考力・判断力・表現力」を先につけてもらった方がよさそうだということ。

子どもに言う前に、大人の「思考力・判断力・表現力」が問われているとは言えそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:41 | comments(0) | - |
歓迎会

ドイツの最近の学力対策に関する報告を拝受。

中身はまだみてないのだが、同封の手紙に、かつて共にドイツを訪ねた時のことが触れられていた。あれから十数年が過ぎた。

その地からよいニュースを聞くことがすくなった気がする。排外主義的な雰囲気がその最たるもの。90年頃にはすでに右派の声は聞こえていたが、そして麻薬の売買現場に遭遇することもあったが、普通の人々の優しさが感じられた。そんなことを思い出した。

その頃の問題意識から何を積み上げたのか考えたいものだと思う。

さて何ができたか。何を今こそ追求すべきか、それは可能か。目次をめくりながら自身の課題を考えた。
新しい職場に行くと教職員総会。総会という名だったが、決定事項はなかった。総長と学長の方針が語られて新任者が紹介されて終わった。

その後は、今年着任した者が50人以上いるらしいが、400人以上が会場にいるという巨大な歓迎会。

ノンアルコールビールとお茶などの飲料に、定番の寿司等のつまみが並ぶ。

 

時間より少々早めに抜け出して鶴舞公園まで来ると、ここが花見客でいっぱい。油煙がホームまで漂って、人の話し声がワーワーと聞こえる。語りあいたい語りなんだろうなあ!?と通過。地下鉄の乗り換え通路もいつも以上に混雑している。

 

手紙と報告書は、研究と教育を真ん中においてこそ語りに中身が生まれるという「言い習わし」を思い起こさせた。語れる中身を今年も何とかつくっていきたいもの。語れる自身を育てながらでなければ、繰り言となって中身が生まれない。

今日から講義が始まるという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:24 | comments(0) | - |
どうでもいい発見

2月14日に学習指導要領案が公表されて、3月31日に幼小中の学習指導要領が確定した。

案から確定文に変更された一覧が文科省の以下のサイトにファイルとして公表されている。これは便利でいいのだが、問題は、変更を誰がなぜ行ったかについて不明なことだ。形式的には告示権者は文科大臣なので、大臣が行ったことになるわけだが、個々の項目について素人の大臣が判断できる知恵を持っているはずがない。大臣ができると思っている人はほぼいないだろう。すると誰が文言を変えたのか。そこが日本の場合は、パブリックコメントの後の扱い方が暴力的というか非民主的というか不透明なのである。

そのために、銃剣道が追加されたり、厩戸皇子がより正確なのに聖徳太子などと言う一般名詞に戻したりといった変更が恣意的に行われてしまう。恣意的に行うなら審議会は不要だ。

学問的でかつ民主的な制度に変える必要がある。

 

変更点の一覧は以下。

ww.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/__icsFiles/afieldfile/2017/03/31/1383995_4.pdf

実は、このファイルの中に間違いがある。

 

中学校学習指導要領の総則4頁を以下に変えたと記されている。

「豊かな創造性を備え持続可能な社会の創り手となることが期 待される児童に、生きる力を育むことを目指す」とある。

児童ではなくて、生徒というのが告示文を基準にすると正しい。

告示された文章は生徒に訂正されていて、このファイルの記述だけが間違っている。

どうでもいい間違いだ。

どうでもよくない誤りがもっと他にあるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:26 | comments(0) | - |
中部大学に着任

4月1日より、中部大学現代教育学部に教授として着任しました。

写真は今度の研究室。机や本棚は違いますが、並んでいる本や機材は変わりません。要するに古本屋に売るわけにいかず、家に持って帰ることができない本、耐用年数を過ぎた壊れてない旧い機材(旧い規格のビデオ再生には欠かせない)がここにやってきました。

 

午後からの入学式なるものを久方ぶりに見ました。淡々と進行し、学生さんはじっと静かに理事長や市長の話を聞いていて、そういう感じなんだなと知りました。

 

合間の時間にパソコンとプリンターをつなぎ、ビデオデッキとプロジェクターをつなぎ、試しに映してみました。鈴木和夫さんの授業風景が壁に映りましたが、スピーカーがないので音が出ません。

音をどう出すかを考えなければなりません。安いスピーカーはUSBかミニピン接続なので変換が必要です。音声の出るプロジェクターに替えた方が簡単かもしれないと思案。

これまで使っていた薬缶(なぜこの字なんだろう。調べると当て字とな。)を持ってきましたが、ここはガスがないので電気湯沸かし器を持ってくることにしました。

 

家からは少し近くなりましたが、道をまだ覚えていないので帰りはカーナビを聞いていたのに間違えて遠回りとなりました。

さてどんな暮らしとなるでしょう?

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:12 | comments(1) | - |
愛教大を退職

本日をもって愛知教育大学を退職します。

ここには34年6ヶ月つとめました。

最初の10年ぐらいがやりたいことに時間を多く注いだというか時間がゆっくり流れた日々だったように思います。行きたい研究会にだけ参加し、学内的業務はあっても大学らしい時の流れでした。卒論ゼミとは別に自主ゼミで本を読み、さらに若手研のようなことも行っていました。
学内的につまらなくなったのは、改組が話題となった頃からで、決定的になったのは法人化してからでした。一人でできない力量なのに一人で決めたがる制度が誤りを重ねるようになったためではないかと断定しています。(表現をわざと妙にしました)
原稿を書く仕事は徐々に増えました。一昨年から昨年にかけてはその中でも甚だきつい年でした。とにかく書く機会をいろいろいただきました。
いくつかの学会の仕事も誘われて続き、各種の自主的な研究会にも参加し、時に報告や運営に関与してきました。全国的な研究会もあれば、地域的な研究会もありました。知らない人が多い研究会にも参加していることもありました。研究上のヒントの大半はそこから得ました。本を読む動機もそこから得たことが多々ありました。これからも続けますが、多くの方に助力いただいたことに感謝しています。
学生・院生の反応はいつも一つの、あくまで一つですが指標にしていました。原稿を書くときには、その内容を無理矢理聞かせて意見を聞きました。その意見を参考にすることは少なかったのですが、学生の反応でできの善し悪しがなんとなくわかりました。また、学生は人の多様性を教えてくれました。私はうまいこと仕切ってしまうタイプでも、優しく励ますタイプでもないのですが、寛容な学生が多かったことに助けられたといっていいのだと思います。
寛容という点では事務職員の方々、生協の専従の人にも様々な実務的なミスをなんだかんだと助けてもらいました。
ありがとうございました。
今日も片付けつつ原稿を書いて、走るいつもの一日となります。
| 暮らし | 07:21 | comments(4) | - |
問題は忖度の後の検討

真意を推し量ることが忖度だから、それ自体に善し悪しはない。問題はその後の対応だ。

安倍昭恵からの問い合わせ、政治家からの問い合わせ自体が対応の方向を示唆し、国有財産を安く売るという違法・不適切な行動をとらせたと皆考えている。

 

道徳の教科書検定でも、22項目の徳目基準から教材をより純化できるとみなす偏向した検定官の意図をくむ教科書会社側という構図が、奇妙な物語を創造する。奇妙な物語で道徳を学ぶと奇妙な道徳性が育つのではないかと忖度する。

すなわち「道徳科」とは不自然なものの見方を「正しい!」と言い合う時間という見方だ。

これまでも不自然な道徳用教材は、奇妙な時間となっていた。本当の行動の指針は別に形成することになっていた。今までは、個々の学校・教師の意図をおもんぱかればよかった。検定教科書以後は、国家の意図をおもんぱかることになった。

 

そこで困ったことは、その国家に違法と不法、不適切の塊が他方に見えてしまうことである。違法行為が横行し、ウソを流布する存在であることだ。

すると、国家の示す道徳は、国家の代表者たちやその下僕には適用されないモノらしいという見方が広がる。国家にとってはまことに不都合な事態が生まれる。国家の側でない人々に見切りをつけられるというのは悪くはない事態だが、国家には不都合きわまりない。

 

だが国家が入れ替わっても問題は解決しない。見切りをつけた側にはどんな道徳の世界が生まれているかは未定だ。代表と下僕のメンバーが入れ替わっただけなら同じだ。

 

別の世界を生み出す一つの試みは、現在の出来事に孕まれている道徳問題を議論の俎上にのせることだ。

それこそが本来の議論する道徳だ。予定した範囲内の偽装された議論(偽装するのが「議論する道徳」の本性なのだが)ではなくて、事実に基づいた、知に基づいた推察(忖度)をすることだ。あまりにばかばかしいお話しにリアリティを回復する一つの道だ。(なお、これは一つであって、他により実り多い道が本当はある。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:18 | comments(0) | - |
初心の初心

先日見つけた満作の花。

これが咲いて、木蓮、アカシアも咲くと春だなと毎年思う。

 

今日は卒業の日。

こんな日、初心を忘れることなく暮らしてほしいと言ったりする。初心を出発の決意や方針のことだと定義しておく。誰にも初心はありそうだが、何が初心だっただろう。何だったかわからないなと思うことがある。改めて今の立ち位置から初心は何だったかなと振り返って、初心を決めることの方が多くないだろうか。

人や事柄によって違うかもしれないのだが、どうもそんな気がしてくる。卒業のような区切りとして比較的はっきりしたライフ・イベントのようなときには、初心を決める人もいるのかもしれないが、それでさえもボンヤリと過ごしてしまうことも多いのではないか。つまり、初心は後で追加されることもあるということ。

 

また、初心はいきなり創られるわけではない。そう決意させる要因がその前にある。すると、その決意させる初心がどこかにあったのではないか、ということにもなりそうだ。初心の初心だ。

 

初心が貫かれたのかどうかをどう決めるかはこれまた一つではなさそうだ。初心が抽象的な場合もある。すると初心の実現形態はいろいろありそうだ。一つの形だけが決心した事柄の実現形態というわけではないだろう。

そう考えると、初心を忘れたわけではないとも言えるし、忘れたとも言えないことはない。

 

出発の決意や方針である初心、おそらくあった方がいいのだろう。だが、その後のほうがより重要そうだ。方針そのものの価値を問うまなざしがどの程度澄んでいるか、判断する材料を豊かに積み上げ続けているかこそ大事なんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 暮らし | 07:10 | comments(0) | - |
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