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1週間ほど夏休み

明日から1週間程このブログは更新されません。

お盆が終わったころに再開するつもりです。

よい時間をお過ごしください。

 

フィールドワークにでかけたり

本を読んだり

墓参りもしないといけません。

 

そのために、原稿を送信し

講演用レジュメを送信し

諸連絡をなんとか片付けました。

 

メールも読まないつもりででかけます。

急ぐ方もお待ちください。

 

私に督促されている方は、安心することなく、仕事を片付けてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 08:57 | comments(0) | - |
絶対の排除

今日は長崎忌。

 

思い込みによる絶対は、その外側にいる者には喜劇に見える。山根と田中とあったからアンガールズの話題かと思ったらミニ独裁の喜劇ニュースだった。より重要な政治や社会問題から目をそらす政権と広告会社の戦略らしい。

 

絶対と言えば、私にとっては西田哲学。この絶対的矛盾的自己同一というとよく分からないのだが、西田哲学の影響を受けたというその時代の人の具体例を思い浮かべると、どんなことを問題にしていたのかがわかる。戦争まっただ中、教育勅語は天皇のために死ぬことを最高の価値としていた。それができるかどうかを当時の青年は議論していた。いろんな想いが内にある中でそれをできるとする心境に立とうとしていた。当時の小説や回想録にたくさん登場する。

「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」などと言って、思いの方か行動の方かどちらかは人によって違うようだが、無になれると思い込んで出撃していった。それで戦争協力の哲学に戦中はなっていたが、「全身全霊をかけて事柄に向き合うこと」への肯定的把握は、職業の違いを越えて支持されやすい。政治的立場を越えて支持される精神として、戦後も、そして今も支持する人々がひどく多い。西田哲学だけをそうした時代精神の起源にするつもりはないし、それは俗流解釈だという人もいるだろうが、西田哲学をいくらかかじった当時の人々の具体的把握の一つにあったということは間違いないと思う。

そういう誠実さを信条とした人々は、しばしば行動と思想とが不可分につながっていると捉える。この捉え方を私はまちがいだと見なす。行動の仕方を基準にしようと、思想の側を基準にしようとどちらでもいいが、二つが不可分につながっていると捉えると、どうにも変わりようがなくなる。

 

この心情の人が教育の世界にこれを適用すると、一生懸命であることが重要と見なす人は、休むことやサボることが一切悪となる。すべてを一貫させたくなる。被教育者にこれを適用すると、子どもは批難の対象となる。追い込むことになる。

他方で、すべてを一生懸命に取り組み、すべてを一貫させようとする人は、すぐに壁にぶつかる。そうならない現実が出現するからである。すると途端に反対の思想と行動に転換していく。悪い意味の「いいかげん」「適当」「その場しのぎ」「ご都合主義」に転換する。ミニ独裁者を見るとそれがよくわかる。

 

一つの原理ですべてを説明したり、行動の基準にするようなことはしてはならない。

いつも複数の、時に矛盾する考え方や事態の中で、複数の思いに囚われながら暮らしていく。いくつかを捨て去り、いくつかを残し、いくつかを拾い集めて暮らしていく。

そういう中に教育も位置づけ直さないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:20 | comments(1) | - |
久しぶりに

久しぶりに横浜の友人と会う。

当時よりは、今を聞く。これからの難しい時間をどう暮らすのか歓談。
教師が教えたいと思うことをそのまま無垢に教えようとしてしまう実践報告があって、それを教師の権力性という言葉で指摘する言い回しがあった。そういう風にも言えるのだが、実践者の側の実感は少し違うように思う。
教える側の存在の意味に関わっているのではないだろうか。
教えたい内容の大枠について、概要的にはつかまえているものの、内容の把握あるいは取り組む手がかりがおそらく十分でない。だが、それ以上に、学ぶ側をどんな存在とみるかに課題もある。
学び手をつい啓蒙する存在と見てしまう。相手を下に見て、教師と同じ考え方を増やすとだけつかむような見方である。
あるいは啓蒙される存在とみるよりは、学び手に教師が挑む存在と見る方もある。ここでは教師本人が思っているよりは学び手と意外にも張り合ってしまう存在と見ていることがある。そこには受け入れるだけの存在とは別で、独立した存在という見方を持ち始めているが、張り合っているが故に挑んで征服してしまう可能性がある見方でもある。
どちらの場合であれ啓蒙にも制服にも失敗し続けると、教える側の自己否定につながる場合がある。それは認めにくいと思ってしまう反応もある。この経験を繰り返すと、教えたい内容が学び手につかまれたように見える言動に子どもを誘導してしまうのではないか。
どちらであれ、その判断の起点になっているのは意味の問題である。
どこで転回するのか。
途中書いてきた事柄が全て転回点となるのではないか。
概要止まりの内容把握を一歩超えること。
一方的情報源とは異なる出会いを学び手が経験するアプローチをとること。
学び手を啓蒙や挑む存在ではなく、また新たに認識を再構築すると言うよりも、問題提起と学び手なりの認識の自己形成を支援するという把握が必要なのではないか。
そういう風に思われた。
| 暮らし | 07:51 | comments(1) | - |
内と外をみる

昔、城丸氏の話しに警察官と教師は、覗くのが好きだ。

警察官は、犯罪者ではないかと疑い、本当に更生したのかと覗きたがる。

教師は、子どもが心からの反省をしたかどうかを知りたがる。

そこで、反省文を書かせる。

しかし、内面はそう簡単にはわからないものだと述べ、わからないけれど最善と思われる働きかけをするものだ、と述べていたことを思い出す。

 

別の文脈で、日本軍の上官は兵隊に向かって「精神が入っていない」と暴力を振るった。軍と学校は、儀礼など形を制定したが、形が制定されると今度はそこに精神が入っているかどうかわからないので、「精神が入ってない」と責め立てた。こうして無限の忠誠を求めるようになるという批判を展開していたことを思い出す。

 

この罠にはまりやすいのが権力者なのだ。

 

内面と外面は同じでない。同じではないが、一定の連関をしていることは間違いない。しかし、そこにはずれがあるものだ。ずれがあってよいのではないか。

課題にしたい目の前の行動的な選択をどうするかを優先するということでよいのではないか。内面からすっかり生まれ変わるような変わり方を期待すべきではないのではないか。

「責め立てる」アプローチは、「道」が好きな過去の「求道者」たちでおわりにしたい。

 

そんなことを思いだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:32 | comments(0) | - |
10回目の全国学テ報道から

文科のサイトには昨夜の段階でまだコメントがないが、4月のテスト結果を相変わらず県と政令指定都市別に発表したようだ。新聞各社は差が縮まったとコメントしたり、個票データを一定の条件で公開することになったなどと報道している。

私が最初に結果が発表されたのを知ったのは、昨夕のテレビ報道だが、少し可笑しかった。
1)実施された1回目からずっと同じ傾向が基本的には続いていて、同じことを言っている。「B問題に課題!」と言い続けている。しかし、文科のHPにある先週公表されたOECDの日本の教育政策評価の文書では、PISAの結果でも国際的にトップクラスの成績と書いてある。それなら課題というほどのことはないとも言える。
2)順位を気にしないようにといって、順位を発表している。矛盾したまま10年続いてる。
3)上位の県と下位の県は概ね固定しているが、一部変動した都府県がある。上昇したところは、上位常連の地域と同様に、いわゆる過去問などの対策がとられていることが知られている。過去問解いて改善策とは言えないだろう。だからホントは何点なのだろう?
4)愛知について、小学校は最下位を争っているが、中学は上昇する。この説明が授業改善が進んでいるからとあった。ここが一番可笑しかった。中学の授業改善の方が進んでいるように聞こえるのだが、そんな話しは聞いたことがない。愛知の高校進学率は全国の下位を争っている。小学校と比較して中学校の授業の方が全体として優れているということも聞いたことがないが、中学校間で他の地域と比較した話しなのだろうか?何と何を比較しているのか不明だった。
文科の担当者は愛知を名指しで言ったわけではないが、全国の状況として次のように述べている。「小学校では「川岸の浸食」に関する実験結果から理由を記述する問題の正答率が20・2%と低かった。中学校でも実験結果を考察する問題の正答率が19・8%だった。文科省の担当者は「知識重視の授業から、実験結果に基づいて考える授業への転換が、まだ十分に進んでいない」」(7月31日付け読売新聞ネット記事より)
考える授業になってないのに「改善」か?この文科コメントが愛知にも妥当するなら、中学で上昇する根拠は他にありそうだ。
愛知について言うと他に理由があると思われるが、すぐにデータが出てこないのでここには記さない。
わけわからない説が語られていて、税金を50億円以上つぎ込んでもったいないことだ。(中学の道徳教科書に多く採用されているMOTTAINAIはこんな状況で使うべきなのだ。)
Bに課題というが、どの国と地域でもB的問題の得点は低いのが普通だ。難しいのだから当たり前。あらためて言う価値がない。
10年で500億円以上がつぎ込まれた。今後、テスト科目はさらに増えそうな気配だ。まったくもって無駄使い。

 

| 暮らし | 06:18 | comments(0) | - |
夏の散歩ー蝶のコレクションを見る

台風が接近した日、中部大学の名古屋キャンパス(鶴舞公園駅)で蝶のコレクションを見た。

 

藤岡コレクションと呼ばれるものから日本産チョウ類の希少種11種類の標本と中部大学周辺のチョウや昆虫の標本が展示してあった。

展示解説には、昆虫の多様性を生み出した進化の過程、近年の生態系破壊や地球温暖化などの影響を受ける昆虫の変化などを解説してあるとあったが、時間が短くてそこまで読み取れなかった。

大きな蛾の「ヨナグニサン」、マレー半島にいる巨大な「テイオウゼミ(帝王蝉)」は初めて見た。

 

チョウの収集というと同じものを標本箱にたくさん並べたものをよく見かける。なぜそんなに収集するのかがわからない。

雌雄、形が違うといった明確な差があるというなら理解できるが、私には同じものが並んでいるとしか思えない。質問したかったのだが、時間がなくてできなかった。

 

開館は月曜から金曜の10時から16時まで。

原稿の締め切り日で緩い記事となった。

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:41 | comments(0) | - |
セミ

講演を終えて一時間に一本の列車を待つ。

4時を過ぎてホームは日差しを遮るものがなく、蝉が私の服に止まった。

私が動くと慌てて飛び立った。

 

そこで一句。

人影も涼と見えたか安曇野蝉

 

そのままの言葉しか浮かばなかった。

 

 

 

 

 

 

 
 

| 暮らし | 08:34 | comments(0) | - |
左利きは訴える

左利きはどんなことに不便かを伝える授業を考えた左利きの学生が持ってきた左利きにも配慮したシスコーンのビニル容器。

開封する際の切れ込みが左右どちらにもついている。向かって右側に切れ込みがないと開けにくいというのである。たいていは、左側にしか切れ込みがないが、これは両方についている。

左利き用のハサミは有名で、それは知っていたが、これは知らなかった。

 

もっと深刻な左利きの不利はないのか?と聞くと、「板書!」だという。右利きはチョークで線を引くと文字を書けるが、左利きは押さないといけなくて、文字を書きにくかったという。

左利きの教師はたくさんいるので、皆困っているのかというと、そういう人もいるだろうが、黒板に向き合う角度を変えていたような記憶がある。

どうだったか?

 

左利きの不利はものすごく深刻ではなさそうだったが、ちょっとずついつも損らしい。

 

 

 

 

 

 

 


 

| 暮らし | 06:08 | comments(0) | - |
二つの会の案内

二つの集まりで新学習指導要領関連の話しをします。

 

一つは、7月21日(土)長野県教文会議主催、第3回総合研究集会です。ビレッジ安曇野というところで開催されます。この場所には前にも行ったことがあります。途中の風景が学生の頃を思い起こさせます。合宿で大糸線を北上した頃のことが思い浮かんでしまいます。私の登壇は、午後1時から3時まで、「膨張する資質・能力論と探究学習を教材研究ベースに」と題して、『教育』8月号や『生活教育』7月号に書いた内容を柱にお話しさせていただきます。

 

もう一つは、7月28日(土)14時から中部大学名古屋キャンパス(鶴舞駅からすぐ)で開催されます。

憲法の理念を生かし、子どもと教育を守る愛知の会という長い名前の集まり。

「改訂学習指導要領の中での主権者教育」という題。

18歳選挙権が実施された後の学習指導要領という状況をどう読むかということだと理解していますが、こちらはまだ資料の作成がまったくできていません。

 

8月にも三重で近いテーマの話しをする予定です。

中学校の道徳の教科書採択などの行われる今年の夏、じっくりと資料を読みたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:55 | comments(0) | - |
顔色をみるAL

山口二郎のツイートに、ALは「顔色伺い」じゃないかという論評への賛同が記されていた。

元の文章を書いた野口雅弘という方を知らないが引用しておく。

「近年、教員の一方的な知識提供ではなく、学生の主体的な学びを重視する「アクティブ・ラーニング」が広がっている。基本的には肯定的に捉えてよいだろう。しかし、ここで行われるグループ・ワークは、メンバーの顔色、そしてその後ろにいる教員の顔色をうかがうことを強いる同調的なコミュニケーションを促進しているのではないかと思うこともある。」現代ビジネス(講談社)

 

この元の論評は、コミュ力重視の風潮がコミュ力を嫌いにさせるという見方を提示したものである。一部の階層に劣等感を生んでいるという意味ではそうだろうが、全体にあてはまるかどうかはわからない。また、ALを肯定的にとらえてよいかどうかには疑義がある。これらの指摘には訳あって賛同しないが、引用箇所の後半については、そういう場合があるという指摘は賛同しておきたい。

どの手法を採用しても、そこに顔色を見るという要素があると踏まえておくべきなのだ。

 

工学部の学生が傾斜地の測量の実習をしていた。測量地点に機材をハンマーで打ち込み、距離や斜度を計測している。師匠と弟子のように指示に従っている。きっと測量ができるようになるに違いない。課題が明確で行うべきことが決まっているとき、学生はそこに参加してくる。しかしこんな場合にも、顔色を見ると言うことがそこにあると押さえておいて間違いない。

 

ALは、参加を強いる手法となっていることがある。中には「自主的に」特定の結論へ誘導する手法であることを踏まえる必要がある。前に書いたように「暗闇のワークショップ」やエンカウンターの活動のいくつかは危険そのものという性格を持っていると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:20 | comments(0) | - |
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