CALENDAR
S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< December 2017 >>
                                 
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
岩垣 攝,子安 潤,久田 敏彦
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
ARCHIVES
CATEGORIES
                
枯れ木と四季桜

1ヶ月前には紅葉した葉をたくさんつけていた。今はすっかり葉も落ち、枯れ木のようになった。

来年のゼミ決め期間だとかで、2年生が研究室に尋ねてくるのだそうだ。何人かの学生の話を聞くと、学校体験が自信を失わせていたり、反面教師的役割を果たすことになっている人もいるらしい。そうでない教師になれたらと言う学生もいた。

明るく笑い、時にのんびりしている姿からは想像できない思いを抱えている。
正門近くの小径には、小さい四季桜が咲いている。
早くに葉を落として先月から咲いていた。生の多様性をそこに見る。
生けるものに注目するのは、死を意識して成立する。単純すぎるとその意識の貧しさに呆れるが、意識形態の豊かさに驚かされることもある。
打ち合わせ時間に少し早かったので、鶴舞の古書店に寄る。一つは定休日だったが、開いていた方には、知り合いの著作が二冊並んでいた。そこそこの値段がついていた。
並んだ本で手にしたものは数冊。旧満州への農業移民のアカデミックな本、それと小沢有作の本。魅力的だったが、その領域に手を出すのか?と自問して棚に戻した。
一度は求められ捨てられた一群の本を眺め、そんな本があったかと迷う時間は、つながりながらもいつもと違う道に入るかもしれないという予感とともにあるのかもしれない。

 


 

| 暮らし | 07:20 | comments(0) | - |
同伴者をどう見るか

右写真は、桑野隆監修、若林悠著「風刺画とアネクドートが描いたロシア革命」現代書館、2200円と税金の表紙である。現在読みかけの本。なかなか興味深い指摘が並ぶが、一気に先に読む気にはならない。風刺画がどんどん並んでいるため、話題に追いつけないせいかもしれない。

 

この本のはじめにベリンスキーという美容師という風刺画があげられている。

床屋で美容師のトロツキーがソビエト共産党機関誌プラウダで客を包んで社会主義思想を広めようとしている。その後ろには、順番待ちの同伴者作家が列をなしている。そういう風刺画である。

同伴者作家というのは、説明によれば、革命を支持しているが完全な共産主義者ではない人たちのことを指すという。

この風刺画は、武力ではなく思想で社会主義を広めようとしているという意味でトロツキーを肯定的に描いたようにも読めるが、そうではなくて手法は違っても順番に思想の入れ替えを外から行っているまさに風刺とも読める絵だと私は見た。

 

ここで一番気になったのは、「同伴者」という位置づけだ。

流行になるとそれに乗り、より強いものが現れるとそこに付き従う、そんなイメージだ。教育や学校の局面で言うと、文科や教委の方針がでるたびに、その説明役を買って出るような人のことだろうか。

学校の子どもたちの人間関係にも中心となる子の側にいる子は「同伴者」とみることができるだろう。

 

私はそういうただ追随するトーンが前面に出る人を信じることが難しい。別の方針がでるとその方針の説明役に転じるに違いないからである。そういう人を気の毒だと思うことはある。事実に基づいて支持し、事実に基づいて反対するように立場をつくってほしいものだとついつい思ってしまう。

他方、信念の人としかみえない人も世間の人よりは信じていない。

これは、人は変わるものという人間観に学んできたことによるようだ。

 

難しいのは、事実をどこまで確かめると、同伴者ではなくなって自律していると言えるかという難問があること。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 暮らし | 07:35 | comments(0) | - |
2017師走に

本日の主題とタイトルは関係がありません。

 

推薦入試が終わり、来年のシラバスを書き込む締め切りが近づき、今年もおしまいの気分が湧いてきた。

年の変わり目を旧暦におく留学生は、その辺の感覚が違うらしく、そういう感慨はないと言っていた。

 

職場が変わって迎える師走は、だいぶ違う時間進行となっている。現在の勤務先は前期を春学期といい、後期を秋学期と呼び、名付けも違う。講義の持ち方、決定の仕方などわからないことが多い。先日は、7学部全教員の業績一覧の冊子が配布されていた。もらっても使い道がないのだが、それらの数を様々にグラフ化したもっと厚い資料冊子もついていた。無駄にみえた。

 

移民とPISA調査をクロスさせた本にあるが、PISA的リテラシーの差は、親の社会的階層格差、ホスト国の言語と文化的類縁性の遠近、社会的支援の格差に大きく左右されるとある。これらの格差要因は、量的に並べると、日本の学生にも当てはまる点がありそうだ。

 

来年度の研究室を決める「ゼミ決め」というのが昨日から始まった。学生が各研究室を訪ね歩くのが慣行らしく、テーマなどを聞く。個別に学生の話を聞くと、不安げな様子が見える。ゼミを知らないという一般的不安はどこでもあることだが、自分への不確かさがある気がした。その前に目を通していたレポートにも、自分の主張への不安が記されているものがいくつか目についた。

根拠のない自信は西野カナの歌と違っていらないが、もう少しキッパリと言えるように育っていってもらえるといい。他方で、どうしてそうさせることになったのだろうと心当たりがあるのだが、改めて「そんな風に思わせてはダメだよね」という思いと共に問いが浮上した。SGHの優秀校がいわゆる進学校で、なんと差別的なお金の支出をしていることかと資料を眺めたあとの感慨。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 08:01 | comments(0) | - |
隙間からすきま

紅葉もかなり落下して、青空エリアが広がった。漢字の字画で埋まった「隙間」がひらがなの「すきま」となった。これから3ヶ月の冬。

「冬構え」という物語りがあったことを思い出す。ストーリーは忘れたが、葛藤を片方に抱えながら、玄冬の迎え方を問うものだった。

ネットで住所を調べると固定電話の番号が表示されるサイトがある。試しに検索して表示された番号に電話をしてみると留守だったが、正しかったらしく翌日電話があった。行方不明者リストに名前があることを伝えながら、たわいのない近況の交換から元気そうなことが読めた。
今年の冬は何をしようと久しぶりに考えた。
広がったすきまを青空で埋める行き方もあるだろうが、実務的な作業と次の課題設定のための作業で埋める行き方もありそうだと思い至る。放置したままの作業課題がかなりある。住所録の整備のような単純作業から、研究に関わる実務などなど冬にふさわしいものを選びたい。

 

 


 

 

 

 

| 暮らし | 07:10 | comments(0) | - |
思索の残り

研究会や学会の配付資料、内輪の研究作業用メモ、講演や講義の資料がいろいろ堆積していた。

なお自分の研究用資料となりそうなものと、もう役に立つことはないと思われるものとに大別。今回の山は2003〜2005年頃のものが多かったが、内容的に何が課題とされていたかというと、一つはジェンダー問題、もう一つは鍛錬論的学力論の批判に関わるものが多かった。それから2学期制などの授業時間確保策。

 

何を残して、何を廃棄するかは微妙な問題。ここで廃棄すると二度と見ることができないものが悩みどころ。出版される前の前提となる原本資料類、授業記録類、研究会で検討事項となった関連資料は、貴重なのだが、今後利用するかどうかを指標にした。結局、半分にしか減らなかった。

 

報告書として作成された冊子も同様に二区分。概要説明型の報告書は、多くの場合価値が低い。データそのものを所収してある報告書が価値が高いのだが、全部が入用というわけではない。この辺りが悩みどころとなった。抜き出したが区分できてないままに多くがなった。

 

思い出的資料というのもある。仕事の観点では必要ないが、自身の思索と係わっていたり、世代が上の方々の講演記録・自作配付資料など肉声が聞こえてきそうな資料がわずかにはさまっていた。

 

何を残すかは、何が残すに値するかに依存するようだ。追求課題となりうるか、その価値があるか、ずっと問いかけながら選別。

悩んだ割に、廃棄は20センチあまりの高さに留まった。

 

紀要類は廃棄にしよう。J−Stageのサイトを覗いて見たが、探しにくいだけで持っている必要度は低い号が多いことを確認した。タイトルがあやふやでも何となく探すには本文まで視野に入る紙媒体がいいが、不要な論文が多く場所をとるというデメリットが廃棄に傾かせる。

思索の内容まで捨て去る気分がしてくるので、まだ実行できないでいる。

 

残す価値のある思索とはなんだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:59 | comments(0) | - |
振り返り概要

長く参加してきた会の集まりで区切りをお題に話しをするように言われて話したこと。

 

1 研究は、単一的(統一的)世界の把握をめざし、単純な見方をしているところから出発した。

 

2 それを徐々に転換してきた。とりわけ単一的な見方ではなくて、捉え返さなければならないテーマとしては集団観と科学観となった。

 

3 それらの過去のとらえ方の中それ自体に、積極的側面と否定的側面とがあった。この捉え直しを進めている。

 

4 どの時期にも個別の実践を検討し続けるサークルに継続的に参加し捉え直しの契機を得てきた。

 

5 それらの研究テーマと活動をずっと継続しつつ、知らない外部にも参加して、新たな視点を得てきたようだ。

 

以上、考えながら話したこと。

 

振り返りばやりで、一日数回振り返る動向は間違っていると改めて思った。前にも述べたように、振り返る前に前に進めだ。上記は約40年以上の期間のことを指している。研究対象の期間は、それよりさらに長い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:25 | comments(1) | - |
励ましという啓蒙

人は、本や人からの言葉に励まされることがある。

中島みゆきの「蕎麦屋」のような状況と言葉だ。

受ける側がそのように思うことはあっていい。

だが、関係を越えて、一般的な励ましに出会うと違和感を覚えることがある。

研究や実践研究という本職に関わることで、「励ますために書いた」などとそのまま口に出されたりすると、研究はそうじゃないだろうと思う。「励まされたかったかな?」と。

善意だとしても、内容的な新たな提起が重要なのじゃないか、と思う。

 

その感じがなぜ発生するのかを、時々分析する。

すぐ思い浮かべるのは、上からものを言っている事態だが、それだけではない。

例えば、教育のスタンダード化の中で教師が自由な教育活動が行えないでいる状況で、教師を励ますためのスローガンだけが行き交うような場合がそれに該当する。

何が欠けているのかというと、スタンダード化それ自体を自前で分析してなかったり、問題点を自分で新たに解明しようとしていない場合に、なんかどこかから安易に借りてきた感じがする物言いに聞こえるときだ。

 

だが、これが難しい。人の言葉は、いつも人から借りてきてしか使えないからだ。借りた言葉に、何かをその人なりに乗せているつもりでも反復にしか見えないことがありうるからだ。

 

しかし、なぜか借りてきたままの言葉とそうではない言葉の違いは感じられるものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:11 | comments(1) | - |
手帳

今年は手帳を少し変えてみた。

いつもは見開き一年分、次に月が見開き、次が一週間単位で見開き、最後にノートに付録タイプのものを使ってきた。

今年は、一週間単位のものがないものにした。この部分を使用する機会は少なく、研究会等のメモはノート部分で間に合うだろうと予測した。その部分は入れ替えも可能な仕様になっている点が決め手となっている。

 

予定を手帳にこまめに記す方を見かける。

私はあまり記さない方だ。

私は、ルーティンになっている予定は原則として記さない。

思いつきを希にメモすることがあるが、これも活用することがさほど多くない。

 

結局、研究会やら外での単発の仕事の日時と場所の略称を記す程度となる。

 

たぶん、10年分くらいの手帳は残っている。前年の研究会の開催記録を作るために、前の年の手帳で確かめたことがあって、そのことがあってからすぐには廃棄をしなくなった。

 

今は、手帳がなくても携帯やクラウドでその機能を果たすことができるのだが、私はそれを利用しない。消えてしまう等、信じていないからだ。紙媒体の方が結局長く残る。

今年はいつもより早く手帳を買い換えた。たいしたことは記さずに時が過ぎればと思う。

 

今日は獨協大学、16時とだけメモしてある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 08:31 | comments(0) | - |
暖房

来週の月曜から暖房が入るとお知らせ。

季節の移り変わりは早い。

昨日、アップした場所を歩いて見上げると、空の隙間があちこちにある。

 

季節の移り変わりにそれぞれの人は感慨があるだろうが、自然そのものは崇高でも何でもない。

自然の営みにすぎない。

 

この区別ができないと、自分の思い込みが世界の常識と錯覚することになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:33 | comments(0) | - |
暇と閑

閑話休題。

 

暇は、いとま。仕事のない時間、などと辞書に説明がある。

暇は、だから仕事が何か他にあった場合に使える字のようだ。

 

閑は、カンあるいはひま、しずかという読み方もあるらしい。

「のんびりと落ち着く。ひっそりと静か。」などと辞書にあるように、仕事があるかないかは関係ないらしい。

「忙中に閑を得る」などとこの字を当てるが、仕事がなくて暇とはちがって、静かな状態を得るということであるらしい。

 

閑がいいなと思ったのだが、暇でないとまだダメかなとも思った。

つまり、落ち着いた静かなときを持ちたいが、それだけの時間がえんえんと続く暮らしを想像してみると、私の場合趣味である本を読ことさえ続けられなくなるように思われる。仕事に引っかけて読むのではない本がけっこう多いと思うのだが、どこかで関連させているからかもしれない。

 

暇と閑。どうなの?

 

どちらも必須と言えば無難だが、必ず望まない局面がやってくる。

そう考えた昨日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:09 | comments(0) | - |
| 1/189PAGES | >>