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教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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核兵器廃絶の教育へ

昨日は、ICANがノーベル平和賞を受賞した報道があった。

ICANは、「核と人類は共存できない」ときっぱりと語ってきた。

 

対して日本外務省の公式声明は、

「ノーベル平和賞を受賞したICANが推進した核兵器禁止条約は,日本政府のアプローチとは異なりますが,核廃絶というゴールは共有しています。今回の受賞を契機として,国際社会の核軍縮・不拡散に向けた認識や機運が高まることを喜ばしく思います。」

とし、

「大変意義深いものと考えます。」と言いつつも、

「現実的な核軍縮を前進させる道筋を追求していく」として、

「我が国としては,核兵器国と非核兵器国,安全保障環境の異なる非核兵器国の間の信頼関係を再構築し,核兵器国もしっかり巻き込む形で現実的かつ実践的な取組を粘り強く進めていく考えです。」

と述べている。

 

スローガンとしての核廃絶には賛成だが、日常は核兵器と共に暮らすと言っていることになる。ICANとちがって日本政府的「共存」といっていることになる。なぜなら、核兵器保有国は廃絶しないと言っているわけで、日本政府の発言はみんなが止めと言うまで核兵器を持つと主張していることになるからだ。みんなが賛成したらそうするという何とも主体性のない見地だ。

賛同しているようで実は反対する論理だ。それこそICANが批判する核兵器の保有に賛同する詭弁だ。

しかし、世界の多数は、ICANを選んだ。

 

核兵器廃絶の教育を関連領域に織り込むこと、世界の動向を内容としたつまり核保有国とそれに反対する世論となぜ共存できないかを明確にした教育が必要だ。そういう内容となっているだろうか日本のとりわけ社会科教育は?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:23 | comments(0) | - |
知識の質

センター試験の後継テストの試行が行われ、高校教育関係者はとりわけ注目していることだろう。

そこでのキーワードとなってきているのが、「知識の質」だ。

 

センター試験といえば、暗記と回答技術の代名詞のようになっている。センター試験用の各教科の解法参考書とコンパクト暗記本を眺める受験生の姿が電車バスの中に増加する。普段も勉強といえば、「覚える」こと中心の学習と授業が学年の上昇と共に増える。

そうした学習の問題は、ずっと昔から指摘されている事柄で変わらない。知識と知識の関係が切れているとか、事柄の理由・理屈を説明できないとか、具体的事柄とつながっていないとか、試験が終わると忘れるとか、昔から言われてきた。

しかし、全員がそうかというと、そんなことはなかった。理由や訳を理解する人もそれなりにいたし、今もいる。その証拠に、全国学テのB問題が活用的問題だと見なすならば、正答率は下がるが半数前後の人は正答だ。

 

話を戻して、「知識の質」と言うとき、その質の中身について、たいてい「活用などの」とつく。暗記しただけの知識ではなくて、使えるような状態にあることを指すようだ。「使える」というのは課題に適用できるという意味で、課題も暗記した知識をそのまま当てはめれば済むようなタイプでない問題ということらしい。

そういうのもある種の「質」といえなくはない。

 

だが、「知識の質」と言えば、重要な問題がある。その知識は正しいか、誤っているか、という問題である。

私の見解では、これがもっと重視されねばならない。

間違った知識を「活用」したのでは話しならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:00 | comments(0) | - |
教科書の国家支配

また文科省作成テキストが増えた。

来年度からの小学3、4年生の英語(外国語活動)用教材「Let’s Try!」を文科省が作成したという。

2020年度から始まる新学習指導要領の完全実施前の2年間は移行期間で、小3、小4で年間15コマずつ「外国語活動」の授業が始まる(もっと多く時間を設定するという忖度教委もある)。朝日新聞の報道に寄れば、「教科ではないため教科書がなく、文科省が教材を作成した」と記してある。

 

また、事実上の国定教科書が増えた。

希望の学校に配布とあるが、おそらくほとんどの学校が「希望」するだろう。

「参考」にするのだというところもあるだろうが、「参考」の対象となるのはそれだけという可能性がかなりある。

 

作成された教材の善し悪しではない。

国家が作成し、それしか使わない、使えない教育の画一化が問題なのである。

この内容の構成は、小学校英語の教科書のパイロット版の役割を果たすに違いない。

 

硬直した教育の仕組みがまた積み上がる。人の配置と共に、自主的な教材研究・教材編成を奨励する仕組みこそ整備されるべきなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:18 | comments(0) | - |
大きいとわかる!討論より合意?

以下のような文章があった。

「教科書やノートを大きく提示して見せることは、基礎・基本の理解や定着にとって有効だ。授業の流れを残して振り返るためには、板書の技術がこれまで以上に重要になる。」

ICT機器の導入を宣伝する中教審系の何とか委員の発言だ。

研究水準をどこまで落とすつもりなのだろう。

「教科書を拡大すれば子どもが理解する」という主張は、なんと素朴な。井上ひさしの小説に『一分ノ一』というのがあり、日本地図を実寸で作成したので巨大な上に重いという設定の話しを思い出した。大きければわかるというあり得ない話しを130人あまりの教師たちの前で話せてしまうとは。まことにめでたさも中くらいな師走。

 

もう一つ。

討論と対話を区別して、対話が良いと学び合い人は、次のようにいう。

討論は、声の大きい人が有利で、対話は大きさに関係ない。

違いを攻めるのが討論で、違いを探求するのが対話。

考え方が変わらないのが討論で、変わっていくのが対話。

自分の枠が変わらないのが討論で、想像を超えて新しい世界を知るのが対話。

気まずくなるのが討論で、楽しくなるのが対話。

 

これらの区分は、主観的区分。

一つ目。声の大きさはデシベルのような物理的大きさを指す場合と権威や話し方の質を指す場合と二つあるが、どちらであれ討論が声の大きさで決まるという説ははじめて聞く主張だ。説得の技術の話しならどちらであれ影響することは有るのではないか。

二つ目。討論が立場を変えないというのははじめて聞く断定だ。ディベートというゲームのことを想定しているのではないか。肯定と否定の立場をコロコロ変えたのではゲームにならない。ゲームで立場を変えたら八百長ゲームとなる。そもそも合意を目指す対話が成立するのは、違いを明確にするからだ。トゥールミンの本くらい読んだ方がいい。討論は、意見の違いを鮮明にしつつ、事柄の理非を争うものであって、一致点が見つかればそれは互いに承認するものでもある。

三つ目。何であれ合意を目指すのが対話なら、外の世界を自らの世界と同じだと既知の枠組みで理解して安穏としているのが対話とも言える。何でも「かわいい」で合意する会話を想起すればわかるように、合意にも多様な水準と質がある。

四つ目。ルールを守らないディベートや質問に応えない安倍答弁は気まずくなるかもしれない。だが討論すべてがそうだというのは暴論だ。仮説実験授業は討論を行うが、討論の途中で立場を変えることもあるし、実験の結果意見を変えることもある。だがそうしたプロセスについて楽しいという子どもの方が多いとされる。

 

研究と実践の質を落とさないようにしたいもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:38 | comments(0) | - |
『人間と教育』96号に資質・能力論掲載

昨日、『人間と教育』96号が送られてきた。

正確な書誌情報は、民主教育研究所編『人間と教育』96号、旬報社、2017年12月10日発行で、1190円と税金です。

そこに、私の論文「膨張する資質・能力論を教材研究ベースへ再構築する」(30−37頁)が掲載されました。

 

特集気痢屬海譴らの『学力』を語り合おう」には、佐貫さんほか写真の目次のメンバーが執筆しています。写真をクリックすると拡大するのでご確認下さい。

 

私の論文の主旨は、「資質・能力」という言葉が広められたわけですが、その概念に知識も、いわゆる能力も、態度も含み込んだものとされてしまったことを示し、従来の能力概念とは全く違ってしまったことをまず指摘しました。タイトルの「膨張」というのは、あれもこれも飲み込んでいるという意味です。言葉が、着ぶくれした概念になったことを含意させています。

しかしながら、この概念・構想の弱点として、1)特定の産業の期待に偏り、2)国家主義的で、3)そんな資質・能力があるかのような幻想にとらわれていて、4)無益な汎用的スキル論という弱点を抱えていることを論じました。

 

まもなく書店に並ぶでしょうからお読みいただければ幸いです。

他の方々の論考はまだ読んでいないので紹介できません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 05:49 | comments(0) | - |
主権は「民」にある

日本の仕組みを天皇制という観念の下にあることを意識させようとする反民主主義的な報道が、NHKをはじめ各局の報道番組で流されたようだ。憲法に象徴としての天皇について記述されているが、憲法の三原則は主権在民・基本的人権の尊重・平和主義にある。

この問題に関連する教育問題が教育勅語問題。

日本教育学会が「教育勅語の教材使用問題に関する研究報告書」をHPに公開した。
http://www.jera.jp/wp-content/uploads/2017/12/201712kyouikutyokugo-houkoku.pdf

 

教育勅語を資料として取り上げるのではなくて、その精神へと教育することが可能であるかのような193国会における政府答弁等があるが、それは誤りであることを戦後の教育勅語をめぐる法制ならびにその内容の側面から明らかにしている。

多くの資料もそのまま掲載されているので参照いただきたいものである。


世界の趨勢は、特権階級や特権的制度の廃絶に向かっている。カレンダー業者が気にする元号の呼称問題ではなく、天皇の治世を示すこととつながる元号使用は民主主義に反する制度の問題である。

個人の尊重と民主主義の社会であってほしいもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:16 | comments(0) | - |
板書って重要?

教育実践の中で、板書はどの程度の意味があるのだろう?

教育方法学研究の中でこれこそ重要だという位置づけの人を知らない。他方で、何の意味もないという人も知らない。
黒板などの教具に関する歴史研究は少ないけれどもいくらかある。
板書についての実践本も少ないがいくらかある。実践家の叙述の一部に論及しているものは多数あるが、その手法・技能が他の教育手法との関係でどの程度の意味を持っているのかに関する研究的論及は少ない。たいていが印象に残るようにする工夫として語られることが多い。中には見栄えを言っているだけのものや、形式を絶対化してどんな教科のどんな単元でも同じにさせようとする形式主義でしかないものもある。
例えば黒板。一度に多数の子どもを教える手段としての意味が大きく、一斉教授という近代学校の性格そのものという指摘は歴史研究の本にあったと記憶する。誰が作ったかは知らないが、黒板が学校に設置されたのはヨーロッパが最初というのが定説で、米国を経て、1872年に日本にスコットが大学南校に持ち込み、これがまもなく全国の小学校に普及したとされる。
一斉教授の近代学校というのは、黒板に文字を書いて、それを一斉に読んだり、書かせたりというところから始まり、使い方は多様化したし、色はクロから緑に変わっても、電子黒板になっても基本は提示という点で変わらない特質だからである。
冒頭に戻って、板書はどの程度重要なんだろうか。
経験的に後生大事にする人がいて、その形式が整っているかどうかですべてを判断してしまう勢いの人もいる。
不要だとは思わないが、必死になるほど重要だろうか?
教材そのものの理解や学習活動の構想や、指導の言葉の方が重要ではないだろうか。
それらの補助的役割に留まるのではないか。
だから、予定された発言が紙に書いてあったり、予定の構造図がパソコンに取り込んであったりすることも多いのではないか。
授業をうまく板書に配置していく人たちがいるが、そうする必要が子どもにとって必要な時もあるだろうし、そうでないときもある。
また、こうした板書の技術はいつ学ぶべきだろうか。
大学在学中に何時間もかけて学ぶ意味は今のところ見いだせない。
電子黒板やICT機器が普及すればするほど板書の技術に時間をかける意味は低下すると思われる。子どもに見せたいものとその提示の仕方の再利用が簡単になるからだ。取り込んでおけばいいのだから。
コアカリに例だとしても論及するほどの意義はないだろうに!(ここが一番述べたかった結論)
| 教育 | 06:42 | comments(0) | - |
金太郎飴

新人教師の教育係となって20校あまりの学校を回ったベテラン教師が「どこに行っても金太郎飴のような実践になっている」と指摘。

新人教師の授業だけでなく、経験年数を重ねた周辺の授業・学級を覗いた感想である。

 

さらにこの教師は、教師となって2・3年目以降、子どもに書いてもらったことに応答しながら教育を進めてきたので、金太郎飴になりようがなかったと言う。金太郎飴実践は、一人ひとりの子どもが何を言おうと何を思い描いていようと、所定の内容を所定の手法で所定の活動をさせて所定の結果を生んだことにするフォード主義の現代版だ。

そこは、人が教え学ぶという教育だけがない。

 

金太郎飴という言葉を引いたら、元禄飴が起源で、意外に遅く明治期に作られたとあった。信頼度の低いネット辞書からだから断定できないが、金太郎飴実践というのは、近代教育と共になのかもしれない。それにしても、同じ実践をしていては教育にだけはならない。同じでないものを生む仕組みを考えるのが教育実践研究と教育学研究なのだということをはっきりとさせたいものだ。

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:43 | comments(0) | - |
まじめで軽率な手品師から

手品師を教材とした実践報告を二つ聞いた。

 

一つは、電話がかかってきた時の手品師の心中を想像し、その後に自分だったらどうするかを尋ねる展開だった。報告者は、一つ目の問いですでにいろんな意見が出ていたので、二つ目の問いは要らないと思ったがしつこく尋ねたのでうまくいかなかったという。お話しを聞いているときは子どもの前で手品をすることになってよかったという顔が多く、問いに対しても約束を守る方の意見が多かったという。だが、最後に感想を書いてもらった時には、自分なら大劇場に行くという意見が多かったという。

ここで考えさせられることがいくつかある。

報告者は失敗と言っていたが、そうでもない。お話しとして「いい話」と、自分の選択とを子どもは区別できているらしいこと。ひたすら約束を守らせる結論に持って行く欺瞞的な道徳授業ではなかった点で、課題はあったとしても、「考える」ことにアプローチしていたと言えよう。

 

二つは、手品師が迷ったという下りまでを読んで、自分だったらどうするという問いだけで行った実践の報告であった。学年が4年生だったが、主張の点だけをみると6年生とさほど変わらない意見が出されていた。こちらは、子どもの前で手品をするという側が1、大劇場に行く側が2という比率の意見分布となっていた。理由も、夢が大事とか、夢はまた次の機会になどしばしば持ち出される理由は遜色なく出されていた。

 

二つの報告は、約束を守る側に巧みに誘導する実践が多い中で、率直に子どもの意見を聞いている点がよかったかなと思う。

課題は、手品師はまじめで優しいキャラクターだが、軽率で物事をあれこれと考えることができない問題を持っていることがもう少し見えてもいいかもしれない。そうした諸状況を考えて行動を選択することがまず土台に据えられるべきなのではないか。そう考えた。

考えずに約束をただ守るだけの人は、まじめだがよりよい選択ができない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:40 | comments(0) | - |
重要用語という発想

歴史に続いて生物でも重要用語を検討する動きがある。

学術会議による取り組みだ。

学習指導要領が政治的意図から構成されるのに対して、いくらか学習指導要領の動向も踏まえているように見せているが、この動きは入試と学問の動向からアプローチしようとしている。

この発想は、ある種の対抗戦略として教科書と教育を変える可能性を持っている。

 

生物については毎日新聞の報道が以下にある。

http://www.chunichi.co.jp/article/feature/kyouiku/list/CK2017111202000003.html

 

問題は、教科書を重要用語で埋めていいのか?という問題だ。

重要用語だけで埋めると、つまらない概説ばかりの教科書になってしまう。

入試対策が前面に出た教科書が作成されてしまった場合、その確立は高いが、そうなる。

すると、記事の後半にあるようなことは後回しになりやすい。

これまでの経験がそのことを示唆する。

 

また、選択の基準も明示していく必要がある。これが示されないと用語の選択をめぐる恣意の議論が前進しない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:38 | comments(0) | - |
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