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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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習熟度別クラス編成は「いや」

私の実感だが、「習熟度別クラス編成はいや!」が増えた。

授業のつくり方・考え方に賛成か反対かを○△×を学生につけてもらった。

授業のつくり方・考え方には授業観だけでなく人間の見方が表れる。効能ばかりでそのつくり方を見てはいけないのだということへの気づきを期待した。

 

一番嫌われたのは、習熟度別授業。

支持が集まったのは、思考力を育てるように授業を作ろうとするもの。

賛否が分かれたのが、ドリル中心の授業。

それと最新の研究成果を取り入れた授業。

 

中学・高校時代の経験が特に反映しているようで、以前よりも習熟度別クラス編成やプリントが変えられるのがイヤという声が大きかった。そう思う。「効率的なんじゃないか」というイデオロギーを吹き込まれているのだが、イヤだったことを記してあったものが多い。

 

ドリル中心は、ホントにつまらなかったらしく、賛否どちらの側であったとしてもこれまたイヤそうな顔では共通していた。しかし、入試やテストにはどうしても必要かな、という効能の側を見る学生は賛成する者も半分いた。

 

「最新の成果を取り入れる」が支持されなかったのは、それが大変だからというのが一番だったのは意外だった。そういうのを取り入れる人の授業が細かすぎてつまらなくなるという理由の方が多いかと思っていたのだが、それは二番目の理由だった。これは発見。そういう教師が減っているのかもしれない。特定の研究分野に力を入れる教師を沢山知っているけれど、大変さよりそれを楽しみにしている人が多いので、この辺は体験していない学生には想像できないのかもしれない。

 

授業の構成の仕方には、授業観や人間観が入り込む。

それぞれ宣伝されている効能のうち、本当はどうか証明されていないものも多い。

その一つが習熟度別クラス編成。それがよい結果をもたらしているというデータをまだ見ていない。

思考力を育てるという授業も、その暗記ややり方だけの授業が弊害を生み出しているというデータは沢山見た。だから、「このやり方はダメ」という方は分かるが、「これでうまくいく」という方はまだ少ない。

だから、これで完璧みたいなタイトルの本を見かけると、そういう本を出している人をそれだけで信頼できない人の側にいれることがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:47 | comments(0) | - |
「夏の楽しみ」の不整合

光村図書の国語の小学校3年生に「夏の楽しみ」と題された2頁がある。

七夕の歌、祭り、夏の行事や風習の挿絵が並ぶ。

正岡子規の俳句なども添えられている。

 

だが、どうも変なのだ。

夏の楽しみの夏とはいつか?現在の暦で夏と言えば、6月から8月、気温を考えれば9月も入れたいくらいの日々もある。

だが、添えられている俳句の七夕は、季語としては秋だ。天の川も夏じゃなくて秋の季語だ。

だから、7月の上旬に七夕を行うところは夏だが、俳句では秋となって不一致。旧暦で8月に行うところは季語と一致して秋となる。すると、単元名の夏の楽しみは夏か?秋か?ということになる。

 

また、挿絵では、二昔ほど前の家の縁側に七夕飾りに「星映し」がある。しかし、名古屋に住んでいる所為ばかりでなく、農村地域でも個人の家で七夕飾りを見ることはほとんどなくなった。七夕飾りをするのは学校と行政、商店やイベント会場ばかりだ。まして、「星映し」など見たことがない。

見たことがない風習は風習か?

 

七夕の起源は中国の南北朝より前にさかのぼるらしい。季節も起源の地と日本ではズレるだろうから、風習と季節感が一致しないのだろう。

 

この教材、日本の伝統とか風習をイメージさせたいらしいが、現実とあわず、幻想もしくは錯覚、もしくは前の時代の日本の風習だ。こんな幻想に浸っていていいのだろうか、と思った。

 

 

 

 

 

| 教育 | 00:12 | comments(0) | - |
道徳教科書のランキング

展示されていた8社の道徳教科書をランキングしてみた。写真の左が下位で右に行くにしたがって上位。

 

1位:日本文教出版

2位〜3位:光文書院、学研

4位〜6位:東京書籍、光村図書、学校図書

7位:廣済堂あかつき

8位:教育出版

 

1位は、低学年の部分も挨拶や決まりを守るばかりを強調しておらず、視野が相対的に広く社会の中で考える教材がいくらか多い。考えるとは何かにも論及がある。お話しの着地がどれもいいというわけではないが、視野の広い教師なら話しを広げられる。

2位3位は、日文教に次ぐ感じ。

4位から6位は、1から3位ほどでもなく、7位8位ほどひどいラインアップではないが、良さがないという感じ。

7位は、決まりを守る系が多く、日本国内的視野が目立つ。また、義務を果たしてはじめて権利が付いてくるなどと5年の所に書いてある。人権論として誤った把握をしている。検定意見がつかない方がおかしいと思った。前近代的把握が目立つ。

8位は、さらにひどい。約束を守って、家族を大切にしてなど、古い道徳観が中心で、国旗国歌が2年で取り上げられ、心の狭い国家主義的要素が強い資料が並ぶ。真性の「考える道徳」で批判意見を出しやすいという点ではこれが一番簡単。

 

以上4時間余り考えた結果。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 00:25 | comments(0) | - |
教師のライフステージ

締め切りがやってきた原稿のために、データを眺め続けた。

 

そこで見つけた共通の問題点の一つ。

教師の退職までのライフステージが単色なこと。

新任の時期の理想の教師、若手時代、中堅時代、ベテラン期と区分の仕方は微妙に異なるものがあったが、どれもこれもそれぞれの理想の教師像がほとんど同じだ。

もっといろんな教師がいていいだろう。

 

若手は、従順で、努力する教師。

中堅とベテランは、企画力と若手に助言と指導ができる教師。

 

岐阜出身の教師は、若手時代(1960年代)に学校で子どもと焼き鳥を作って食べたという。四国出身の教師は、親の帰りが遅く宿直室にやってくる子どもたちを風呂に入れ、ご飯を食べさせていた。どちらも管理職の言うことより、子どもの側を見ていた。

それぞれの時代と地域の子どもの暮らしを見つめる教師の方が指標をクリアしていく教師よりずっといい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:11 | comments(0) | - |
捉え直しの時間に

昨日は、慶応三田校舎で方法学会主催の「特別の教科道徳」に関する研究集会。

写真は、三田演説館。

 

報告は、松下良平さんの道徳構想の提案と、塩崎義明さんのリオ・オリンピックのエピソードを素材とした実践報告。

 

いままでの「道徳の時間」であれ「特別の教科道徳」であれ、お話しを巡って徳目を解説するか話し合うパターンが支配的という点では変わらない状況がある。新学習指導要領では「考える道徳」のスローガンが打ち出されているが、多くの実践は枠づけられた、かなり問題のある徳目理解にもとづく「考える道徳」となっている。それが、かぼちゃのつるや手品師の普通の授業展開に表れている。

 

これに対して、松下報告は、主権者の基礎を養うことを道徳の目的と位置づけ、分断と排除の社会に抗する道徳を内容的に対置する。

その一部として「道徳科」を位置づける。その際、道徳が分断と排除されている側にたって効力を発揮するときは利点となるが、逆に作用すると毒となると捉える。そこで、その内容をリベラリズム道徳、共同体道徳、ケアの倫理の三つに区分した上で、多面的・多角的に検討する時間にすることを提案していた。

徳目の固定的把握に対して積極的意味を持つと受け止めた。また、内容把握に対して現代的課題が全面に登場してくるという意味でも重要だなとみた。

 

ただ、それは、いかに子どもたちにとって判断の指針となっていくのか、自らの道徳として形成していくことになるのか、この点では年間35時間をともかく使おうということだろうが、ごくごく一部の取り組みであると共に、メインの活動の場ではないのではないかと思う。

 

塩崎さんの報告は、オリンピックを「国威発揚、国際的存在感、経済効果、都市開発、スポーツ文化の定着」として把握するNHKのニュース番組に対する疑問から、オリンピック憲章との齟齬を入り口に、50キロ競歩における新井選手とダンフィー選手が接触したかどうかを巡る出来事をとりあげて、オリンピックを国威発揚に利用しようとする発想が個々人の「スポーツをする理由」をゆがめていく問題を取り上げた報告であった。

塩崎実践は、松下さんのいう分断と排除の社会に抗する取り組みの一つとみることもできると評することもできる。社会の支配的な見方に対して捉え直しを迫るものとなっていたといえよう。

席上話題となったのは、どう捉えるかを考える問題提起のありようについて。焦点を絞らずに議論はできないし、テーマがなんだかわからなくなるような実践はできないだろうが、子どもたちの考える範囲の広がりをどう保障するかについて何人かの意見が寄せられた。ここは課題なのかもしれないが、だれのどんな考え方が暴力となっているのかという視点が、先行世代の責任の問題ともかかわっていると私はみる。よって、ただ、オープンにという議論には賛同しない。

 

道徳もしくは道徳性はいかに形成されるのか?この問いは残されたままだが、年間35時間以外の世界を視野に検討していきたいと思う。ともあれ、お二人の提案は、この春に棚に並んだものよりずっと興味深い世界がそこにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 07:40 | comments(0) | - |
ウサギとカメの下心

先日の続き。

ウサギとカメのお話しの教訓(下心)は何か。

府川によれば、大半は「油断大敵」となっていたとある。

カメの側に即すと休まず努力という把握もあるようだ。

どちらであれ立身出世の競争させたい日本の近代にあわせて読まれた下心であった。

 

だがもう少し考える。下心はどっちととる方が自然だろう?

両方あろうが、読み手(読者)を能あるウサギと見るか、愚鈍なカメと見るかで変わるだろう。話者が読者をどのように想定して語るか、あるいは読み手(読者)の自己評価がどちらであるかによっても変わるだろう。

 

ところで、能あるウサギがわざわざ愚鈍なカメに競争を持ちかけるものだろうか?

そういう疑問もある。

あるいは、愚鈍なカメが挑発に乗るのか?たゆまず努力するタイプのカメが無意味な競争に乗るのはおかしい?という疑問も成立する。さらに言えば、どのカメもたゆまず努力するものだろうか?

 

府川の本の終末にも記されているが、カメはなぜ寝ているウサギを起こさずに通り過ぎるのか?

先に冷やかしたウサギの性格は悪くてもいいのだが、カメの性格描写としては一貫せずよくないだろう。

 

本によってゴールはまちまちなのだが、ゴールすることに何の価値があるだろう?

冷やかしてきたウサギに勝ったところで何の意味もない。

ウサギにしたところで同じだ。愚鈍なカメに勝利しても何の名誉にもならない。

 

下心をこのように現実の世界に適用させて読み取ろうとすると、現実と対応しない不都合が多岐にわたって浮上する。

カボチャのつるはのびのびしてはじめて実をつけ、のびのびしないスイカは大きな実をつけることができない。それが現実のカボチャとスイカだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:23 | comments(1) | - |
活動し/させてしまう

5月31日のバラ。

つまりお仕舞い。

図書館のアプローチの壁にはツバメが巣をつくっていた。

 

課題を出されて提出が義務になっていると作業をしてしまう。

インタビューを行い、紙飛行機をつくって飛ばし、観察記録を書き、地域の祭りを調べて書いてきてしまう学生。

 

提出が義務ではなく自由記述だと空白のままだったり、その課題のお仕舞いに正解やまとめらしきものを書きこんだりするようだ。

 

課題自体が活動させてしまう構造を持っているものもあるようだ。

 

そういう活動させてしまう行き方が、実は、好きでない。自分も一部そういうことになっている講義を行っているが、本意でない。

講義のねらいはそこにないのに、活動してしまっている学生がいたりする。

 

自身が活動することではなくて、教えの構想を相対化して言語的に分析していてほしい、といつも思う。

 

以上、反AL論。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 07:09 | comments(0) | - |
下心という教訓

府川源一郎、『「ウサギとカメ」の読書文化史』勉誠出版、2400円と税金。

イソップ物語のとりわけウサギとカメの話しが日本へ導入・紹介された意図と読まれ方の研究書。

後日もう一度取り上げるが、知らなくて面白かったのは、次の3点。

 

1)日本への最初のイソップ物語の紹介は、1593年、イエズス会の宣教師の日本語教育用。そのためローマ字。

 

2)ウサギとカメのお話しの終わりに「下心」という教訓が書かれていたこと。下心とは教訓のことだと知った。道徳の教科書は下心にあふれているなと思った。

 

3)ウサギとカメが教科書に採用されていくとき、「下心」が付いたり消えたりしたことに関する府川の指摘が面白い。もともと原典に下心という教訓が付いていた。それが「下心」と訳して文語文の教科書時代には記されていた。それが口語文の教科書時代になると消えて、下心を忖度する授業が始まったこと。この指摘は、いろいろ興味深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:34 | comments(1) | - |
情報操作の時代を教える

このところ偽ニュース(フェイク・ニュースと呼ぶ人が増えた)が毎日流れる。どれがフェイクでトゥルーなのかわからない。

ウソかホントか仕分ける基準を作っていかないと、情報操作にだまされる。

 

かつては、大新聞・巨大放送局の言っていることなら信じていいと見なしていた時代もあった。

ネットも大手サイトなら大丈夫と見なす人もいるだろう。

だが、それこそフェイクの発信源であったりする時代だ。政権や大手こそフェイクを意図的に流す。先日は政権の代表と読売新聞幹部がご飯を一緒していると首相動静欄にも載っていた。

 

東日本大震災のときも情報統制がなされたことが明らかになっている。

共謀罪が現実化しようとする今日、真実を見分ける賢さこそ21世紀に必要な力だ。単なる情報リテラシーでは対抗できない。

 

明日は気象記念日で、それにちなむニュースが流れるという。

「天気予報が消えた日・太平洋戦争中、天気予報が軍事機密にされた時代―6月1日「気象記念日」を前に考える」 がNHKで放送される。

これは、教材になる。

戦時中、気象管制で全ての天気予報や暴風警報などを一般市民に教えることは禁じられていた。これに関する研究を行っている増田善信さんによれば、「昭和17年9月の台風の時だけラジオで放送することを許された。しかし、実際に放送されたのは、台風が九州西部に上陸した後であったため時間的に間に合わず、周防灘で1100人が高潮の被害でなくなった」事実がこの周防灘高潮被害で生き残った人の証言を含めて放送されるという。

 

情報操作の悲劇だ。

誰がウソをつくるのか。1つの歴史事実から学んでおくことが必要だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:19 | comments(2) | - |
自分研究か他者研究か

数日前の発達障害をめぐるNHKのテレビ番組は好評だったらしい。

その中の1つが当事者による自分研究というアプローチ。同一の障害の場合にもその現れ方は人によって多様な形があることなどから高く評価されているアプローチのようだ。

 

ここで考える。ベテルの当事者研究を思い浮かべるのである。

ベテルは当事者による自分研究を施設のメンバーたちと行う。この構造は、当事者が複数いる。自分研究の対象者でもある当事者と、自分研究の対象とはなっていない同一の障がいを持つという意味での当事者である。

 

他方で、『学びに取り組む教師』高文研における原田実践のイブキの場合は、イブキたちによる多様な人々の実情・経験を学ぶというものである。こちらの構造は、当事者が自分研究をしていないというわけではないが、中心は障がい等多様な他者をクラスで学ぶという構造になっている。直ちには当事者でない者を含んで他者研究が行われている。

 

自分研究が1つ。

ベテルは自分研究と他者研究が組み合わされているが当事者だ。

原田は自分研究もあるが、他者研究に力点がある。

 

この違いの意味づけはデータが少なすぎてできないが、構造が違うなということには注目しておきたいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:06 | comments(0) | - |
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