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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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伊達市の副読本の問題点

伊達市の放射線教育の副読本の問題についてこちらにもしつこく記しておきたい。

副読本の本文を読んでもらえるように、関連するところを引用して問題点を記しておきます。
伊達は福島市の東隣の市。現在も時間当たり伊達市の計測数値では0,75〜1マイクロシーベルトの地点が二カ所あります。これは市役所のHPのデータです。高いところの数値は、一応の基準の目安とされる0,23マイクロシーベルト時の3倍から4倍の数値です。また、計測の仕方が地上から高い計測であることを問題という人もいます。さらに、山林など除染をしていないところは、もっと数値の高いところもあるという報告がある地域です。
さて副読本の件。
副読本の問題点は、100ミリシーベルト以下なら安全と言ってしまっている点が一つ。
日本人は、生涯のあいだに約半数ががんになり、そのまた半分くらいの人は、がんが原因で亡なくなります。放射線も遺伝子を傷つける原因の一つです。放射線の量が少ない場合には、放射線でがんが増えたかどうかわかりませんが、広島や長崎で原爆の放射線を受けた人たちを調べると、100mSvより多くの原爆放射線を受けた人たちでは、がんになる人が少し増ふえることが分かりました。伊達市に住んでいる人たちは、一生住み続つづけたとしても、放射性セシウムから100mSvを越こえる放射線を受けることはありませんから、伊達市に住む人にがんが増えることはないでしょう。」10頁
 
これだと低線量被曝の放射線の影響に関するリニアモデルが否定されてしまっていて、閾値モデルが採用されたことになっています。しかし日本政府採用のICRPの見解とも異なっています。生涯にわたって低い方がいいと言っており、100ミリシーベルト以下でも数値に比例すると考えることになります。
二つ目の問題は、原発由来の放射線量が排除されている点です。
「この図にある1年間に受ける放射線の量は、世界中の平均の値です。チベットやアンデスのような、標高の高い地方では、宇宙から来る放射線は4倍くらいになります。大地から受ける放射線も、その土地の岩石や土の性質で大きく変化し、地球上にはこの平均値の5倍や10倍ある地方もあります。日本国内でも、花崗岩の多い西日本は、東日本に比べて大地からの放射線が 1.5 倍くらいあります。また、空気から受ける放射線は、住んでいる建物の材質などで大きく変わります。」9頁
この説明とその前の図には、放射線の総量が年間2.39ミリシーベルトを自然界から受けているとあります。
しかし、世界一般の話しで、被爆線量の年間数値に福島原発等からの放射線量が加算されておらず、伊達の計測値とも違ってしまうことになっています。宇宙からや地球内部からの放射線被曝の数値は間違っていませんが、正しさで嘘を言っていることになります。

除染の効能について、一度実施するともう大丈夫と読めるように記されていますが、そんなことはありません。
その代表的なものが除染活動です。除染とは、放射性物質のそうじのことで、家の周囲の地面などに降ふり積つもった放射性物を、 集めて、閉とじ込こめて二度と散らばらないように管理します。みなさんが 部屋をそうじするのと同じです。
しかし、山林は除染していないなどの理由から除染後にまた数値が高くなるのであり、今もF1から出ている等の問題が無視された表現となっています。

以上少なくとも事実をめぐって三つの問題点があると私は読みました。
安全と恣意的に思わせる副読本になっています。
現実を認め、危険性があるからこそ安全への取り組みが重要なことを解き明かす副読本にすることが期待されます。
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| 教育 | 07:09 | comments(0) | - |
桃太郎裁判

法教育の一貫で、今、桃太郎の模擬裁判が話題だ。

こうした取り組みは広がっていいと考える。
何よりも現実の諸問題を取りあげることに接近するという点でいい。
おとぎ話だが現実の問題から遠いようできわめて近い。
奇妙な道徳科の話しよりずっといい。
ただ、二つ検討が必要だ。
一つは、判決をつくるなら、刑法に関する知識が必要となる。小学校の子どもにそれは難しい。子どもたちに刑法を適用させて判決をつくらせるとなると、中学から高校生だろう。
二つは、中高生に行う場合、自分たちで調べる時間が必要だ。自分たちで調べて判決を出したとして、その判決が妥当かどうか専門家による評価が必要だ。適当な議論で判決が決定されていいわけがない。政治家の国会答弁のような水準でいいわけがないことは教えなければならない。
| 教育 | 07:37 | comments(0) | - |
日韓の授業計画の差

12日に日韓教育実践研究会と慶南歴史教師の会の交流会が早稲田で開催された。

本筋のテーマではなくて、細かな周辺的などうでもいいことかもしれない事柄を記しておきたい。そういえば、今日は「終戦記念日」と日本では呼び、韓国では光復節と呼ぶ日。二つの言葉のトーンに大きな違いがあり、この大きな違いを理解することとは関連がないと言っていいほどの違いなのだが、以下に取りあげる違いに私は、日本の教師と韓国の教師の置かれた差を見ている。

 

日本からの実践報告の目標と授業の計画は次のように記されていた。

「江戸図屏風」や「朝鮮人来朝行列図」の中に描かれている朝鮮通信使を中心に、当時の日本と朝鮮とのつながりについて調べ、理解を深める。

1「江戸図屏風を見て、気づいたことをまとめる」、2「国立歴史博物館へ行き、自分が立てた課題について調べる」、(途中省略)8「なぜ、たくさんのお金や人を使って朝鮮通信使を招いたのかを考える」

ここにはある特徴がある。

 

韓国からの実践報告の授業計画には次のようにある。(1と3の細目は省略)

1.第二次世界大戦の内容分析、2.第二次世界大戦を詳しく見る、(ドイツが主導したヨーロッパ戦争、日本が主導したアジア太平洋戦争、世界地図に戦争の内容を記録する)3.考えを広げる。

ここだけでははっきりしないかもしれないが、韓国の報告資料には教科書の見出しが記されており、「全体主義国家の出現」など項目や内容のとらえ方がその文言から読み取れる。それらとつなげると違いを感じることができよう。

 

それぞれ一つだけの事例で日韓を代表させてしまうのは手続き的に問題含みなのだが、私は代表させて問題がないと考える。

日本の目標記述や授業計画には、理解の内容が登場しない。子どもの活動が文字通り記され続ける。

韓国の計画の場合には、子どもの行う活動を記す点で同じなのだが、内容のとらえ方が日本よりは見える。

この違いが気になっているのである。

 

日本の指導案はもう20年以上は少なくともたつと思うのだが、内容に関する事項を計画の部分に記さない傾向を強めたように思う。

今回の日本側報告者は、普段の授業計画の書き方に合わせただけで、内容に関する理解を持っていなかったわけではないのだが、直接に聞いてみないとどのような理解であったのかはわからない書き方なのである。

 

どうして内容に関する分析の記述が希薄で、子どもの活動ばかりが記される授業計画なのか。

それは、日本の教師たちの方が内容統制が厳しく、内容理解を画一的なものとして前提にしているからではないか。もしくは明確に示さない対応でやり過ごす知恵なのではないか。そう思うのである。

 

日本の教育の不幸をそこに見ることができるように思う。前にも記したことがあるが、日本と比べればあくまでも相対的にだが、韓国の学校と教師の方がずっとのびのびと教育活動を行っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:17 | comments(0) | - |
ディベートは国語じゃない

「ディベートは国語じゃない」という発言を聞いた。

発言者は国語教師。

国語の教師としても実績のある人の発言であった。

 

これは何を意味しているのか。

文脈からすると、論理ばかりを追求していて、言葉あるいはコミュニケーションの総合性が失われた活動であり、国語もしくは日本語教育ではない、ということと受け取った。失われているものとは、例えば、内容にかかわる感情などのことだろう。

 

国語・日本語教育ではないと述べながら、この手法を採用する他教科も同時に批判したのだと解される。すなわち、述べたいことがあるわけでもないのに語るディベートで社会的テーマを取りあげても、そこに「声」(人の熱を伴った語り)はないのではないか。そんな音の行き交いを社会科と言うのか!という批判である。

 

傾聴に値しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:12 | comments(0) | - |
WS形骸化の中でリアリティを

福島駅近くの岳陽中学校の放射線量。毎時で0.123マイクロシーベルトという数値は、基準の6割ぐらいなので、基準内だが高い。

 

福島原発事件から6年半あまり、フクシマからの距離に応じて記憶も切実感も薄れる傾向がある。

他方で、教育実践は、ALの流行・ワークショップ(WS)的活動の流行がある。その中で、ALやWSの形骸化すなわち学習者の感想・認識表現の定型化が進行している。

 

これに対して、リアリティの回復が喫緊の課題。これがあるかないかが教材研究の当否と並んで実践の質を決定する。つまり、定型化されたWSを反復する実践は問題外なのだ。

 

そういう立ち話を福島の教師とした。福島でも、リアリティを生み出す取り組みを新たに織り込んでからでなければ、福島の柱となる学習活動は成立しない。これは、だから、学習者の学ぶ時と場所と状況と切り結んだ変換が必須だということである。

定型化された学習、マニュアル化された進行では学びの不成立といっていいのだということ、だからフクシマから遠くても成立するとも言えるし、近くても成立しなくなるのだと述べた。

 

今日は、静岡。

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 06:53 | comments(0) | - |
過剰な一般化の否定

各分野でも世間でも過剰な一般化は、いいことがない。

自然科学の世界では「統一理論」が宇宙の物質世界だけのことだが、名前の付け方にはこれですべて説明がつくかのような表現が見える。そこに過剰な一般化の気色がある。

 

人間社会の出来事、教育の世界にも過剰な一般化が無数にある。

「これで名人」「これでわかる」「ほめて○○」「○○勉強法で一番」といった学習法の一般化。ひどいのが学校挙げて1つの手法に決定してしまうような無法な一般化もある。

 

笑ってしまうような行動の強制にも同じ論理がある。

例えば「すれ違う人ごとに挨拶」(面倒すぎるだけでなく、挨拶の精神からの逸脱だ)、「廊下の右側通行」(誰も守れない)。挨拶した方がいいときがあるが、一般化して強制されると意味は変転する。

理不尽な規則にもある。

髪の毛の長さや色の規制。持ち物検査や服装規定と検査。男女交際禁止規定(去年学生に聞いて未だにあると知った)。

これら、規則にはそれらが守られていると誰も「非行少年少女」にならないという一般化の信念がそこにある。

 

過剰な一般化は、弊害を生み出す。

一番の弊害は、強制となること。その結果、二番に意欲をそぐこと。そのため三番目に結果が思わしくない。

以上、確率的妥当性はあると思う、という一般化をしてみた。

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:57 | comments(0) | - |
ALの数字に根拠なし?

アクティブ・ラーニングがはやり、その根拠として人によっては引用されるものにラーニング・ピラミッドがある。

だが、これには根拠がなさそうなのだ。(不確かで断定まではしないが、根拠論文を探せなかったので、ひょっとするとあるかもしれない。)記事内容としてはたぶん二番煎じ以下なのだが、記しておきたい。

 

私のように疑問に思った人は他に何人かいるらしく、下記のような探索がある。

国立国会図書館が行っているサービスに「レファレンス協同データベース」というのがある。そこに以下のような回答が記されている。

以下、引用。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ラーニングピラミッドの元のデータ(論文)を探している。特に平均学習定着率の根拠となった論文は何か。」

 

回答(Answer)    
(1)Edgar Dale の "Dale's Cone of Experience” が元になっている
→(出典)Edgar Dale"Audio-Visual methods in teaching" 1946

(2)web上にある"Learning Pyramid"にはパーセンテージがあり、出典は"National Training Laboratories"となっている
→パーセンテージが表記された根拠となる論文は見つけられなかった

 

回答プロセス(Answering process)    
(参考)
ラーニングピラミッドの平均学習定着率
講義(5%)→読書(10%)→視聴覚(20%)→デモンストレーション(30%)→グループ討議(50%)→自ら体験する(75%)→他の人に教える(90%)


(1)Googleでラーニングピラミッド(Learning Pyramid)を調査
様々なサイトで引用されている。
出典は、以下の二つのどちらかになっている。
・Edgar Dale"Audio-Visual method in teaching" 1946
→当館所蔵あり("Cone of Experience"が載っていた)
・National Training Laboratories(出版年などはなし)

(2)National Training Laboratories と Learning Pyramidを調査
学習定着率の根拠がない、という記事がいくつかあるが、逆にきちんと出典が明記されている記事・論文を見つけることができなかった。参考となる論文としては、以下を紹介。(当館契約データベースで調査)
A REBUTTAL OF NTL INSTITUTE'S LEARNING PYRAMID. 
By: LETRUD, KÅRE. Education. Fall2012, Vol. 133 Issue 1, p117-124. 8p. 

↑上記論文では、定着率のパーセンテージの出典は、
"NTL Insdtute, Personal Communicadon,October 14. 2009"となっている

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

また、アメリカ版のWikipediaにも信頼できない旨の記述がある。

ワシントンポストの2013年3月6日付けにも信頼できない数字だという記事がある。

よって、学習のピラミッドを根拠としてALを推進しようというのはやめておいた方がよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:59 | comments(0) | - |
自発性依存と民主主義の欠落

自発的に子どもが取り組んでくれるとこの上なく喜んでしまう教師は多い。

宿題のカードを集めるなんてことを決まっている係ではなくて、自発的に手伝うなどと言ってくれると喜んでしまう。過日もそういう記録を通読した。厳しいだけの型どおりの教育を推進する学校が多い中で賛同したくなる気持ちは分からなくもない。

 

しかし、それでいいだろうか?

係が決まっていたとしたら、係の仕事を奪ってしまったことにならないだろうか。

 

自発性が優先するということになると、係の影が薄くなる。次に係を決めるときに係に立候補する子がいなくなるのではないか。

自発的に申し出ることがない仕事は、一体誰が行うのだろう。

 

係が決まっていない仕事、係では担えそうもない大きな仕事の時などに自発的に申し出る場合と、自発性依存は異なるとみるべきだろう。仕事には実務的性格が伴うものがある。

ことは、民主主義に係わる問題だ。

決定を自発性に依存するのは、民主主義を損なう場合があると知るべきなのだ。

 

また、学級につくられるたぶん自発的な集まりを○○会社と呼ぶことにも違和感がのこった。私的利益を追求する集団なのだろうか。私的利益を追求する集まりならば、メダカの世話を放置したとしても学級の問題にはなりにくい。

 

30年あまりまえの「ゆるやかな集団づくり」がはじめたアプローチを部分的側面に取り込み、フレネ教育の一部を真似ながら組織問題が放置されている。放置されているのは、民主主義。取り込まれた研究と実践を行ってきた側がもっとも大事にしてきたのが民主主義。

授業づくりは、教科研究に基づく授業づくりを後景にしりぞけ、ゆるやかな活動主義的鍛錬主義が顔をのぞかせる。ここにも課題があるように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:42 | comments(0) | - |
誘導を「考える道徳」

「考える道徳」になったはずなのだが、そういう形跡が見えない。

 

採択が始まった「道徳科」の教科書にいうほどの変化がない。旧来からの教材が配置され、取り扱い方が書き込まれ結論が徳目項目通りだ。一番ひどいのが教育出版だが、もっともひどい内容か他社のよりひどい内容かを競っている。

 

実践も旧来と変わらないものが相変わらず流通している。

「葛藤場面」における登場人物の「気持ち」を聞いて、選択されるべき行動をとった時の「気持ち」を言わせる古い古い注入の授業方式が相変わらず書店に並ぶ。

あるいは、とるべき行動を考えさせる場合も、考える範囲は狭く限定され、状況認識を歪めて捉えさえる知性破壊型道徳が横行している。

例えばである。10回連続漢字テストで満点を取るとご褒美がもらえると親と約束する。10回目まで満点だったが、採点ミスを見つけて教師に言いに行くというお話しである。正直とは何だろうと言わせる筑波の附小の教師方式を採用した授業記録があった。気の毒に学校がこの方式を採用しているらしく、それにあわせた授業を行った結果だ。

最初に「正直とは何だろうね」と聞き、物語を読んだ後に、もう一度話しに即して「正直とは何だろうね」と聞く誘導方式だ。

満点を条件に褒美をだすやり方や親子関係は問われない。

採点ミスをした教師の問題も問われない。

たかが漢字テストを一生の大事にしてしまうほどの問題に祭り上げてしまう視野の狭さも問題とならない。

考えるといっても考える幅はひどく狭い。

「考える道徳」は普通に考えることを阻害している。

 

「正直」が問われるべき時を抱えている人々が世間を賑わせているが、これらと係わることなく授業を進めることは可能なのだろうか。世情で話題となっている省庁の一つは他ならぬ文科省だ。

 

お上はダメでも庶民はまともに育てたいものだ。

ダメなお上を識別できる力を育てることこそ道徳的力ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:52 | comments(0) | - |
定義とその普遍性の開始

世情ではフェイク・ニュースが流れる中を、学生の文章を読み続ける。

 

私の評価基準の一つは、主張の一貫性やその根拠やデータの真理性に置いている。

 

読みながらどうにも気になったこと。

自分も学生の頃にできてなかったと思うのだが、使用した言葉を一般化してどこまでも広げて捉えることがむつかしいようなのだ。途中で止めてしまう。

 

例えば、国家主義。国家を優先させる思想という程度には押さえておいてほしいのだが、国家のことを「ときどき」「考慮に入れる」程度につかんでいるらしい。「主義」というにもかかわらず、個人ではなくて国家優先の思想や政策があらゆる事柄に貫かれるとは考えてないらしい。

 

あるいは主権といえば、近代国民国家を前提に存在する概念だとはなかなか考えてもらえない。だから、主権者というと、最初からどうしてもそこから排除される人々が居るということを想像してもらえていない。主権者以外の存在を排除している暴力性がそこにあると考えてもらえていない。

 

私も自分の知っている分野に限られるのだが、例として取りあげた類いの言葉は知っておいてほしいと思ってしまう。

 

他方で、そこを直感的につかんでいるらしい学生もいる。具体的事例、とりわけ顔を思い起こす事例につなげて考えているようだ。抽象的な言葉を一方では一般化してとらえること、他方では具体的に捉えること、この二つの広がりや豊かさを同時に追求することが課題かなと改めて思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:21 | comments(0) | - |
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