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教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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模擬投票は政治教育の端っこ

高校の教師を中心に模擬投票の取り組みやその新聞記事が選挙にあわせて取りあげられている。

高校生を対象とした文科の新しい通達以後、模擬投票の取り組みが増えた。

全部禁止状況から比べたら前進ではある。

 

しかし、政治教育は、選挙権の行使に留まるものではない。

様々な政治活動ができるように、つまり選挙に矮小化されることなく政治活動ができるようにすることが政治教育であり、シチズンシップの教育と捉える必要がある。

 

直接的な政治活動こそ基本である。

また、政治活動は、国政の選挙に留まるものではない。地方政治もそうだが、日常の各種集団の政治も含まれるし、日常の親密な集団の中にも政治はある。それらが視野にあるだろうか。

 

様々な単位における政治が視野にあるかな、と疑問に思う。具体的には自治活動。これをもう一方の手で追求しない模擬選挙は、選管のCMと変わらないと見えることがある。

 

他方で、狭い意味の政治活動だけの貧困な世界がある。人間関係のことだ。内向きの心だけ問題にする心情主義や心理主義は、外出した方がいい。

これも教育の世界のことをさしているのだが、・・・・どうだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:23 | comments(0) | - |
嵐過ぎて

名古屋は台風一過の様相。なお風がいくらか強めなものの順次警報は解除となりそうだ。

 

当面の教育政策の動向を展望したい。

統制強化とその行き過ぎが一方に続くだろう。

だが、行き過ぎ批判は、もっと強くなってきている。

個別問題では、その批判意識に誰も勝てない。

 

個別問題の個別性に今のところ留まるが、その積み重ねが重心移動を起こすだろう。

ブラック部活とか組み体操問題とか、深刻な問題が起こった地域にまだらに部分的改善がわずかに生成している状況だ。

しかし、あの福井の池田町の報告書でさえ、そのおしまいに「子どもの権利条約」が引用されている。

「子どもの権利条約」には、保障されるべき子どもの権利が規定されている。すべての子どもは、その子なりに感じる力、考える力を持っている。すべての大人は、その子どもの思いをしっかり聴き、受け止める努力を惜しんではならない。

おそらくこの文言は福井にさえ広がらないかもしれないが、ひっそりと受け継がれる。

 

日本の教育課題は、戦後一貫して変わらない。

真理の教育、民主主義の教育だと確認できる。

 

嵐過ぎてなお。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:57 | comments(0) | - |
台風と学校

本日、夕刻より台風の影響が強く出る予測が名古屋では報道されている。

同時に、今日は選挙の投票日。

 

こんな日は、学校管理者は、学校に出校することになる。

学校が投票所になっている確率が高く、警報が出ると避難所となる学校も多いからである。

学校はいろんなことに対応させられる。

 

明治期の学校は、貧富の差に応じて学校に近寄ってくる人と来ない人が別れた。金のある人は学校に来た。そうでない人は来なかった。貧困を原因とした不就学だ。

いつの頃か、それが逆転する。学校に依存せざるをえない人の方が学校に来る。正確な言い方ではないが、学校に依存する層と選択的に依存する層に分かれた。何で依存するかが階層的な違いを生んでいる。逆も言える。階層的な違いが何を学校に依存するかが違う。勉強で依存する人と依存はしない人などなど。

 

昨夕のニュースでいち早く学校に避難してきた高齢者が一人で暮らしているからと理由を述べていた。災害でも公共的支援が先に必要な人とそうではない人とが別れる。この区分には同じ論理が背景にあるようだ。

 

台風と言えば、子どもの頃に大きな台風がやってきて雨戸がガタガタと一晩中揺れて怖いなと思ったことが一度だけある。何度も台風はやってきて、学校が途中で下校となって迎えにきた親の車に乗って帰った記憶もある。そのころ学校は子どもを帰したら終わりだった。

それからだいぶ時を経て、愛知に職を得て伊勢湾台風の記録写真とその時の新聞や体験記を読むと、勤務先だった大学の学生たちが多数救援に向かったことがわかる。何日間か大学も休講となり、支援活動を行ったらしい。

これらはあちこち水浸しとなり、電車も止まり、被災した学生たちも多く、復旧や支援が自発的に始まったらしい。

 

今は、組織的に対応が決まっている。

それぞれの対応に学校は動員される。これは、誰の仕事だろう。支援が必要な人々がいるのだが、学校が支援のターゲットになるのは必然性がないように思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:07 | comments(0) | - |
生徒指導提要の問題点

福井の中学校長は辞表を出したという。

こうした事態が発生する原因はいくつもあるだろう。ゼロトレで不寛容の空気の蔓延、スタンダードという画一主義の潮流など非教育的政策動向などがあるだろう。

その一つに文部科学省や一部の人々がバイブル化しているらしい文科省編の『生徒指導提要』がある。

 

そこに今回のような対応を生み出す原因となる次のような一節がある。

「学校においては日常の問題行動からしっかりと注意するなど、その行為の意味やそれがもたらす結果や責任などを理解させる毅然とした指導が大切です。そのためには、「社会で許されない行為は、子どもでも許されない」といった学校全体の基本的な指導方針の下、学級・ホームルームでも児童生徒の発達の段階を踏まえて生徒指導の方針を明確に示し、児童生徒や保護者に対して「社会の一員」としての責任と義務の大切さを伝えていくことが必要です。
もちろん、そうした指導は、児童生徒一人一人に対する温かな態度や教育的愛情を前提としたものであるのは当然のことです。つまり、毅然とした生徒指導とは、学校生活に起こる様々な問題について、その行為の過ちや責任をしっかりと自覚させ、健全な成長が図られるよう温かく粘り強く指導していくことです。」
150頁

 

この「毅然とした指導」が厳しい叱責を生む。

「社会で許されない行為は、子どもでも許されない」という一節も問題がある。許されない行為にたいして大人と子どもですべて同じと捉えていいはずがない。また、大人の場合もどう対応するのかは基本的人権に即してであり、これを許す仕組みが罰として社会にはある。

さらに、「温かな態度や教育的愛情」とは何かについて、厳しいことが愛情という把握が昔から存在し、自分を基準に判定する人々がいる。これを「粘り強く指導していく」と悲劇は発生する。

 

「生徒指導提要」は240頁あまりの長い文書だが、その内容は、問題点が散乱している。当たり前すぎて何も言わないに等しい論説もあれば、引用した一節のように問題点ばかりの下りもある。全体として教師の心がけばかりが書いてある傾向にある。

これをバイブル視する人々は、一部を都合よく解釈しすぎで、70名を越える執筆者の中には理論的にも実践的にも不適切な論者がかなり混じってしまっていたのではないか。

 

小学館の図鑑の毒キノコ問題は一カ所で回収だそうだが、それよりは数が多いのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:09 | comments(0) | - |
「対話学習」?

毎日新聞の教育欄の記事見出しに「対話学習」とあった。

その記事を見つけてから、書き出しを読み始めるまでの数秒を文字にすると、以下のようになる。

 

従来、国語科のなかに「言語力重視」などという方針が掲げられて、いくつかのコミュニケーションの型を体験する小単元や課題を設定する教科書が登場したので、それのことか?と最初は思った。

しかし、新学習指導要領関連のシリーズ記事の一つらしいので、言語力重視方針は変更されているからそうではないだろうと、すぐに気がつく。

これは、ALを授業に取り入れたつもりの記事らしい。すると、「対話学習」というのは、授業における話し合いのことらしい。写真からすると、グループか班話し合いを「対話学習」と言っているようだ。

子どもの発話が記事でそのニュアンスを正確に表現しているとすれば、これは、協同学習論か学びの共同体論の手法にのっているらしい。

二つの意味で、ヘンな言葉遣いだとざらつく。

対話は、原則として二人だ。数人でやってるのがヘン。

対話学習というと、対話を学んでいるニュアンスがあるが、記事ではそういう学習の形態のようだ。そういう場合、教育方法学では対話学習と言わない。学校教師文化の世界でもおそらく少数派の言葉遣い。

この二つが奇異な感じを与えている。だからもうちょっとだけ調べた方がいいよと思った。

 

ALを行うことは難しくない。特定の型とパターンを決めてその通りにと考えると、その型にあったあわないとなるだけだ。

それはつまらない。

教える内容にふさわしい学習活動だったかと考えて欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:36 | comments(0) | - |
ジャッジではなく通訳という例え

学会発表の実践紹介の分析部分に、以下のような表現があった。

 

大人はジャッジから通訳へ

(浅井幸子、黒田友紀、望月一枝、柴田万里子、ほかの子どもと女性教師のエンパワメントを促す学校改革、より)

 

わかりやすいのでいいなと思った。

子ども同士のトラブルの場合がまずは想定されているようだった。だが、それだけでなく授業にもそう考えておくといいと思われる見方だと思われた。

例えば、正しいか正しくないかを教師が決める授業に対して、どう言っているのかを他の子に聞いてみたり、どういう趣旨の発言かを全体に問いかけてみたりという教師の活動を説明する言葉になりそうだ。

教師がすべてを判定する授業は、真理を教師が独占しているだけではなくて、子ども相互の関わりも奪ってしまうのでよくないという趣旨に受け取った。

 

ただ、これは、教授学研究の中では、だいぶ前から「媒介としての指導」という把握として提唱されてきたことだ。そういうことを知っていてくれてるのかどうか聞いてみたい気がちょっとしたが、表現としては大変わかりやすい。

 

ジャッジから通訳へ

 

しばらく使ってみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:10 | comments(0) | - |
公開シンポから

日本教育方法学会の公開シンポの写真を送ってくれた方がいて利用。

登壇している右端が私。お隣が福井大の遠藤さん。シンポジストとしてお話し中が千葉大の大田さん。シンポジスト席が和光大の梅原さんと東大の本田さん。

 

公式のシンポの概要は来年の紀要に掲載される。

備忘録にもならないが、考えるべきだと思った点を二つか三つ。

 

一つは、新学習指導要領は統制の強化だという点で共通理解があったこと。その上で、どこに自由を見いだしていくか。ここには楽観論と悲観論がとらえ方の違いとしてあった。非系統的なまま統制だけ強化と悲観的だったのは大田さん。

 

二つは、「資質・能力論」のとらえ方。本田氏は、資質・能力の中心が教基法・学校教育法の態度目標に限りなく近いとした。これには異なる見方がいくつか出された。人格あるいは人間性との関係、キャラクターという言葉との関連など、これについては問題提起がそれぞれあったに留まったが、有意義な意見交換だったと思う。コンピテンシー概念と同様、あれこれ飲み込んで肥大させられるにちがいと私は見ている。

 

三つは、学校現場的には、学習指導要領の分析的検討ではなくて、すでに棚上げが始まっている印象を受けた。30%あまり学習指導要領は増量されたが、書いた人々の権力的努力に対して「棚上げ」気分が広がっていると感じた。この気分は、諦念と強く結びついているので、ある種の無視だが現実変革には作用しない。実践を開拓する方向の探求は、原因分析と共にでなければ道は開けない。

「資質・能力論」の解析と共に、「資質・能力」ではなくて「何を教えるか」を視点に検討する道が「なんとしても」・・と考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 06:23 | comments(0) | - |
語るに足る

FDで語りあえば、力量がアップすると述べた登壇者がいた。

私は、それは誤りだと述べた。

友達づくりをしているのではない。専門家養成を意図しているのである。

語るに足る自身をつくらねばならない。語りが聞くに足る内容であるためには、一定の作法に則って語られねばならない。専門性を持って語られた内容であればこそ、聞くことに、語り合うことに意義が生まれる。

その作法を意図的に学ぶ場が無く通過してきたのでは専門家とは言えない。

 

受け取った「教育方法43」の安彦論文は、今回の学習指導要領を批判するものであった。それは、戦後の学習指導要領の改訂ごとの違いを提示しながら、統制を強めた物であることを描いていた。ここには作法がある。安彦氏は前回までは、学習指導要領の作成責任者といってもいい位置にいた。その氏が批判の議論を展開している。保守リベラルの見地からも腹にすえかねる内容であったのであろう。それでもただダメだと言うのではなく、どの点でどこが違っていて、その違いの意味を示めそうとする。そこに作法がある。

これなしだったとしたら説得力はない。

語るに足る自身をつくらねばならない。専門性とはそうしたもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 05:41 | comments(0) | - |
AL批判

昨日に続いてALと資質・能力論の批判のメモ。

土曜日は、千葉大でそれと関わりのある公開シンポの司会業務がある。そこで、ということもあるが、自分の原稿のこともあって、この春から刊行された書籍も選択的にながめている。

 

先日は、到着したまま放置しておいた『教育学研究』84巻3号を開封。西岡論文が日米のAL論の動向をコンパクトに紹介していた。私の論文も批判的な動向の一つとして子安潤・坂田和子編『学びに取り組む教師ぁ拗睚幻Δ里發里鮗茲蠅△欧討れていた。

西岡論文のアメリカの動向の紹介が過不足ないとすれば、AL論こそ「エビデンスがない」と言ってよさそうだ。(もっとも、私はエビデンスとことさら強調する側の人をほぼ信用していないが。)

 

それは、ALの効果の検証について「大学段階における科学教育に限られている」と書いている文言(30頁)。小中高校のすべてについて証拠がないと言っていることになる。米国はそういう扱いだということ。

この部分の後の落ちは穏やかすぎだが、上記の一句は引用に使える気がした。

 

さて今日も閉塞状況に挑む表現と道を探す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:43 | comments(0) | - |
『たのしい体育・スポーツ』に論文掲載

学校体育研究同志会の季刊誌『たのしい体育・スポーツ』秋号(通巻305号)に、論文が掲載されました。

はじめて?前にも掲載いただいたことがあったかもしれません?忘れてしまった。たぶんあったようなかすかな記憶。

 

今回のタイトルは、「『学び』を公共の世界に奪い返す」となってました。5月か6月初め頃に書いていたので情けないことにタイトルを忘れていました。「公共の世界に」というのは、私的世界や国家主義に持って行かれようとしているからです。

目次のタイトルと執筆者をみて、もうずいぶんと昔、といっても20年にはならないと思いますが、大阪での研究会の場におられた方の名前がありました。上野山さん。お顔は思い出せませんが、名字が珍しいので記憶に残っています。

 

新学習指導要領のALと体育同志会のこれまでの実践との違いについて、お二人の方が論及していました。

文芸研の雑誌の最新号にも論及があったと思います。

こういう議論は必要で、さらに検討されるべきです。

もっと違う点もあると思いますが、「ALには対話と言うけど自己に帰結する」同志会の方の指摘はその通りだと思います。また、久保氏の57頁の資質・能力論批判には賛同します。久保氏の議論の観点をもう少し考えようと思っていたところでした。来週の締め切りの原稿に触れようかと思っています。その論文が刊行されるのは冬になりますが、『たのスポ』の私の論文でも注意深く私の論調を見ていただくと、資質・能力論だとダメなんだという部分が読み取れるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 00:11 | comments(1) | - |
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