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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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流行言葉が薄くさせる

もとの実践を行った人は、たぶんそれなりの力量があると推測させるものが多い。(一部例外はある。何でここにあるのか?みたいなものもなくはない。)

 

ところが、惜しいことに、内容があったのかなかったのかわからない記述に終わる抽象的な定型化された文が多数ある。

使用ワードが制限されているのかと思う。

どうとでもとれる表現というのか、学習者や教師の教材に関する具体的把握が見えない。

だから、別の単元の話しだと言っても通じないことはない。場合によっては別の教科の話しをしていると見てもいい。そんな錯覚を起こした。

惜しいと思われるものもあるのだが、惜しい。

 

そういう印象が残った。

 

「主体的・対話的で深い学びの視点からの授業改善に取り組んだ実践事例」を集めたサイトのことである。

小一から高三まで各教科で合計202の事例があげられている。

http://www.nits.go.jp/jisedai/achievement/jirei/index.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:22 | comments(0) | - |
思考力・判断力・表現力

『数学教室』6月号を眺めていると、秋葉広島前市長のエッセイに原発訴訟団の人見やよいさんの文章が引用されていた。

次の下りが目にとまった。

 自分で調べる

 自分で考える

 自分で判断する

 自分で意思表示する

 政治の話しを日常にする

 二度と過ちを繰り返さないように学びを伝える

 目先のことではなく、100年後を未来を考えて

 

ここには、主体がある。それに比べて「思考力・判断力・表現力」と三つ並べて使われる例のフレーズになると、主体が飛んでしまって、計測と評価ばかりが問題になっている。何ともヘンだ。

主体の存在しない三つの連語は、まあ幻想なので実態としての思考と同じでないわけだが、実態としての人の思考活動と対応させると、思考力と並べて判断力を位置づけるのは奇妙だ。思考はいつだって判断とともにある。考えるとは、一つの事象・事柄が既有の知と該当するかどうかの判断そのものだからだ。一定の条件が揃えば同一、条件が揃わなければ別と判断する。

幻想を詮索してもあまり意味はないのだが、主体ばかりか対象もない詮索が蔓延することだろう。

 

だから、主体と対象を回復する議論を織り込もう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:19 | comments(0) | - |
問われて応えて

「尊敬される教師とは」という調査結果によれば、

1)授業がうまく

2)相談に乗ってくれ

3)見捨てない先生

そういう三要素の組み合わせという調査結果がある。

 

学生によれば、その反対の教師は、生徒に馬鹿にされたり、いじめられたり、無視されたりしていたという。

そこで、少し角度を変えて、「生徒には好かれたい?」と聞くと、7割ぐらいが「好かれたい」という。それぞれの理由を聞いた後に、少数派の学生が「教師の仕事は好かれることじゃない」という意見も出されて少し「なるほど」という顔があるが、多数派と少数派に大きな変動はなさそうだ。

そこで、少数派の「別に好かれなくても」と言っている学生に、実習に行って子どもからの反応には色々あるけどなどと聞く。すると、「無視はされたくない」とかなんとか。「それじゃあ、やっぱり好かれたいんだ!」というと、過去の嫌われた教師の惨状をあげて「そこまでは」と言う。

 

「嫌いだと思って、無視したくなる子どもってどんな暮らしをしているんだろうね?そうやって見てみたら。」と言う。

たかが教師のささやかな失敗、小さな存在でもある教師に真剣に突っかかってくる子どもは、何を抱えているんだろう、そういうまなざしを一方に持ってみてはという趣旨のことを言ってみる。

 

学生は、問われて応える。応えて別の世界を見せる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:58 | comments(0) | - |
データに目的を

研究データとは何か、研究データをどう収集・作成するか。それが主題の研究会であった。

お二人の報告には、研究手法を研究目的に位置づけなおしたら使えるのに、今のままでは使えない、と思った。

 

お一人は、教師の発話や動きや視線を映像からカウント・抽出してくる。だから、一定の時間中に何語発話したか、どこを見ていたか、どのように行動したかがグラフや曲線として描き出される。しかし、何のためにそれを可視化するかの目的が見えない。教師と子どもで発話の比率がはっきりとわかる。しかし、だから何か?教師がたくさんしゃべっていけないわけではない。逆に、子どもがたくさんしゃべるとよいわけでもない。この点に関する目的の僕にこの手法が位置づけられるならば使えることが出てくるだろう。

 

もうお一人の、写真や映像をその当事者である保育者や保育の関係者がどう見るかをデータとして行くエスノグラフィーの手法も同様だ。自身の保育をどう見ているかがわかるが、それを明らかにして保育の何を明らかにするかが行方不明に私には見えた。エスノグラフィーに関する理論研究でこの辺りは既に取り上げられていると思っていたのだが、ただ現実や信念の現実を描くだけでなく、そのことで教育の理論や教育そのものをどう変えるかとつなげられる必要があろう。研究会の主題がデータをどう作るかということだったので持ち出さなかったのかもしれないが。

 

目的の部分を示さないと、そのままでは使えない。「発言を減らすほうがいい。なぜいいかはわからないけれどね」ということになってしまう。教育活動の目的や価値とつなげれば使えることが時にあるかもしれない。

もう一つの報告も同様だ。映像や写真から意図と言動のズレがどのような影響・作用を保育や保育者の関係に与えているかを示すデータとして使うのであれば協力する気にもなるが、ただ「こうでした」というだけなら勘弁してほしいと私なら思う。

 

研究には問題意識が不可欠だ、現状を説明するだけでなく、それを変えていく中に位置づけた問題意識が不可欠だ。その意味で、三人目の報告にあったが、フォイエルバッハ論における11番目のテーゼはここでも有効だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:06 | comments(0) | - |
文科筋のスタンダードなAL

文科省主催のALに関する研究集会の発表資料が公表された。

正式な会の名称は「教科等の本質的な学びを踏まえたアクティブ・ラーニングの視点からの学習・指導方法の改善のための実践研究」研究発表で、2018年5月9日,10日に開催された。

以下のサイトに資料が並ぶ。

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1405851.htm

 

ここに一瞥を送るのは、このテーマに関する文科筋的な意味の標準的な読解と対応が読めるからである。

県教委や市教委が8つ、国立大学付属が3つ、合計11の報告がある。
ALの解釈を反復するばかりで実践の内容や方向がうすっぺらい所もあるが、それらを除けば、それなりに何かを打ちだそうと苦労したことがわかる。
ただ残念なのは推測されたとおりなのだが、「主体的で対話的で深い学び」への取り組みに若干の所を除いて、教えるべき内容の研究が脇に置かれ、手法の工夫に集中してしまっていることだ。「深い」に論及したところでも、リフレクションの話しに留まっている。
教科内容の研究にコミットするニュアンスがあるのは香川。その次に中身はわからないけれど、いくらかくみ取れなくはないところが京都。
高校を対象にした所は流行に関係なく大学入学者数が(言外に)基準になっているところがあって「あらまあ」と思ったが、それで済むということでもあるという意味で無視の仕方を実証したのかもしれない。
このテーマに関する昨年来の私の議論において問題点として指摘した方向は、それなりの妥当性を持っていると思ったデータ。
反対語の英語は、もう定訳があるのだろうか?
forced learning, non-interactive learning, frivolous learning.
| 教育 | 07:41 | comments(0) | - |
物語道徳のねらいを転換

道徳科の教科書の多数は物語が使われている。

道徳科用のわざとらしい創作物語もあれば、童話や絵本を取り入れているものもある。

それらの中でいくつかの作品の取りあげ方を転換する。

 

例えば、光村の教科書に「友だち屋」(内田麟太郎)が取り上げられている。

普通の実践は、「よりよい友人関係を築こうとする心情を育てる」などと目標を掲げることが多い。

これを止める。

 

友情とは何かを思索することをねらいに転換する。

 

きつねは一時間100円でクマと嫌いなイチゴを一緒に食べる。

次にオオカミとトランプをして「お金をとるのか」といわれる。

そういうお話しだ。

 

すぐに「友だちってなんだろうね」と聞く。教師はひたすら聞く。子どもの意見には、他の子どもの受け止め方を聞く。

例えば、遊び相手になることでは同じだけど、お金を取らなかったら友だちなのか程度には質問するが、友だちになるとは何かと聞くだけで、まとめることなく終える。

 

こうして、いつか子どもなりの「友だち」の定義ができたらいいな、と願うだけでおしまいとする。

 

これを考えた契機は中村清二さんの論文が一つ。

やり方はともかく「こどものてつがく」大阪大学出版会や関連本を見て意義を見いだしたから。

 

これで転換の方策が二つになった。

一つは、社会的問題を議論する時間。二つめがこれ、世の中を哲学する時間。

 

三つ目も思い描くことがあるが、データを探してから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:46 | comments(0) | - |
専門教育と普通教育は別

小学校から中学校の教育は普通教育。

普通教育とは、すべての人のための共通の一般的・基礎的教育のことをさす。個人もしくは「国民」に必要とされる教育のことで、普通教育の対となる言葉は専門教育ないし職業教育。

高校の教育は普通科は普通教育、専門学科は専門教育と普通教育を行っている。

 

この二つは、教育として共通性もあるが、根本的に異なる点がある。

専門教育はダメなものはダメという点にある。学習者が理解しないでも「まあいいか!」ということが原則としてない。

適当につくったネジでは困る。使えない。

適当に覚えた看護の技法では困る。命に関わりケアとならない。

普通教育は、学習者に対して温室的保護機能が働く。「お試し」ということがある。その世界を垣間見ることに意義があることが多い。だから最終的にできないことがあってもいい。

 

順次熟達していくということはあるにせよ、一定の水準以上の知と技を使えなければ専門教育としてはどちらかの失敗であり、教える側に主因があろうと、学習者の側に主因があろうと不可となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:28 | comments(0) | - |
TALIS調査のシンポから

昨日は、OECDのTALIS調査の一つの「初期教員準備調査」に関するシンポに参加した。

内容は、直接に若手教員の調査結果の報告ではなくて、教育政策と実践におけるエビデンスとは何か?が最初の主題。写真のような三角形モデルを示していた。

データとエビデンスを区別するという点は「そりゃそうだ」と理解したが、報告者のこの三角形モデルには賛同しないなあという印象を残した。系統的にレビューされたもの(L1)とランダム試験や準実験研究(L2)だけがエビデンスとして認められ、ケース・スタディ(L3)や個々の意見(L4)はダメだという。それって臨床的世界を理解していないように思われた。

ただ一人、Emily Raineyという方だけが、このプロジェクトを含めて調査の枠組みに対する批判的視野を持っている発言をしていたように思われた。
他に使えそうなデータは、左の写真。
教師の自律性とネットワークと知識を三角形にして、サイズと歪みを見せている。日本は、ネットワークと知識はまあまああるけれど、自律性が低いというのが写真の右下にある。
自律性が高い国はイタリア、デンマーク、フィンランドなど、反対に低いのがMYSってマレーシアかな?韓国、上海、シンガポール。東アジアの国ばかりだ。
バランスがとれているプロフェッショナリズムが高いのが、ポーランド、エストニア、ニュージーランド、ロシア、イギリス。
知識重視は、フランスとベルギーなど。
自律性が低い日本について、ここ30年あまり自律性が極度に低いと思い続けていたのでこれは納得。
なお、このシンポの宣伝では、日本の通常のシンポと違って議論すると書いてあったが、そうは思えなかった。用意されたクエスチョンに順番に答えていくだけのことで、そこの進め方を見たかったので、そうでもないな感。
多忙は続く。

 


 

| 教育 | 07:07 | comments(0) | - |
四天王寺大学で

講義終了後に、藤井寺にある四天王寺大学で新学習指導要領とわたしの大学の授業について90分あまり話しをした。

勤務先の学生の様子からはじめて、新学習指導要領の特質とその特質に対応した教育をするのではなく、その後にやってくる変化を自分の目で捉える参考にいくらかはなると期待して授業を位置づけたいという流れ。強引に関連させた話しといえばそういう話し。

 

教師論の4月から7回目までレジュメと講義の配付資料の一部をそのままつかって自分の授業の趣旨を話した。

教師論で精神論を語るのではなく、教師の置かれた状況をたえず社会のなかに位置づけ、それがどう見えるかを学生に聞き、見え方には複数があることを示すように資料は配置していること。また、個人の教師の声も聞こえてくるように構成しようとしていることを話した。

 

会場には、教育学部以外の方にも参加していただいていると後で聞いた。

受け止め方はどうなのかはうなずいてくれている人もいたけど、全体としてどうかは心の中を読めないわたしにはわからない。

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 07:42 | comments(0) | - |
「考える道徳」の虚偽

「祖母のりんご」という光村図書に所収された道徳教材がある。

教科書編集趣意書によれば「祖母に優しい態度を取れないでいる主人公の姿を通して,社会の最小単位である家族を敬愛し,家族が協力して生活を営んでいくことについて考えられる教材を設けた。」のだという。

これだけを使って考える道徳の授業は可能だろうか。このように指定された教材で考えるとは、家族愛について家族愛が大事だと考えるに決まっている。

家族愛が大事だと決まっている場合、それを考えるとは言わない。

 

「祖母のりんご」という作品は、認知症が現れ始めた祖母の振る舞いに怒った孫だが、風邪をひいた孫にりんごをすってくれて優しかった祖母に感謝し「今度はわたしの番」という話し。介護の大変さが365分の1日の孫の優しさで解消してしまうという都合のよいはなし。これをそのまま家族愛に収斂させたとすれば、ものを考えない教育実践を行ったということになろう。

残りの364日をどうするかを想像しない「考える」は、その日の出来事だけで残りの0,997/年のことは考えていないということだから、ほぼ考えていないと断じてよいだろう。

 

そこで、報告者は、家族問題とは家族愛に解消できない諸問題があるという把握から、介護殺人のドキュメントを別に用意し、家族問題を考えようと構想を立てていた。

 

こちらの方がずっと家族問題を考えることになっている。もう一歩突っ込めば、家族愛に還元する考え方が、介護殺人を引き起こし、家族の対立と崩壊をつくり出すということでもある。

 

こうした方向転換を志向しない「考える道徳」は虚偽にまみれているということだろう。

幸い、教科書はダメでも実践は変えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:08 | comments(0) | - |
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