CALENDAR
S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< October 2018 >>
                                 
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
岩垣 攝,子安 潤,久田 敏彦
RECOMMEND
ARCHIVES
CATEGORIES
                
ウソで育つ道徳性

10月8日の朝日記事。左上がよくできた記事の部分。

要するに、二宮金次郎を取り上げた「道徳科」教科書では、小さいときから読書に励んで、10代の時に工事の人にわらじを寄付し、菜種の収入で勉強したと書いてあるが、ウソもしくは根拠のないお話しであることが記されている。

読み書きを学んだのは10代後半で、それ以外は証拠のない創作話しが事実だというわけである。二宮金次郎の話は、かつて自力更生運動に動員され国家への奉公話などに利用されていった歴史を抱えている。

 

これは一例で、かぼちゃのツルも外へ伸びることが生物としては自然なのにそれがいけないかのように描かれている。手品師も約束を守ること以外は選択してはならない行動と判断となっている。このあり得ない不自然が並ぶ。

 

こうした虚偽で道徳性は育つのか?

これに対しては、事実を知ったら道徳性が崩壊するだろうと考える。ならばだまし続けるという人がいるだろうが、それは無理というものだろう。危険なのは、事実を知るまでの期間である。

 

では、事実に即した個人のお話しが採用されていた場合はどうなのだろう?

物語が真実性にあふれ、文学性において優れた作品が並べられていたらどうだろう?

 

この場合にも道徳性に一定の影響を与える可能性があるとしても、限定的なものに留まる。

道徳性を規定するのは、現実の人間関係と社会関係であって、情報知が主要な側面となる物語には限界がある。自律的行動をとおした検証を経ていないからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 07:05 | comments(0) | - |
国語の授業265号

児童言語研究会編の『国語の授業』265号子どもの未来社が送られてきていました。

ここに私の論文「新学習指導要領の21世紀枠を破る」が掲載されています。4月の東大農学部での研究会の時に原稿を依頼されたもの。

児言研は学生の頃に『一読総合法入門』を読んだのが最初で、「一読なんだ!」と思ったわけですが、実際の授業記録を報告する教師の場面に出くわして、入門書から受けた印象と違うことが記憶にあります。一つは、授業としては一読だが、教師の教材研究過程では一読じゃなくて何度も読み返してる!ということ。二つは、読みは詳細を極めるものでしたが、テキストを読む際にテキストが基本となっていましたが、子どもの読みの予想が入り込んでいることでした。

 

今号にもその頃のアプローチは生きていて、近年の国語の授業記録や教材研究の文章としては珍しく、逐条的な教材の読みが書き込んであるものがあったり、詳細な授業記録が書き込まれています。詳細な授業記録はまず学校から消えたように思います。ビデオの登場という人がいますが、そうではなくて、文字に書けなくなったのだと思っています。想定しているのは学校が公式に発行する官製研的文書の記録。

そこを書き続けています。指導案をこの雑誌の書式に書き直して、実際の授業記録を加えたものが3つほど掲載されていましたが、授業を分析の対象になり得るように提示するところが「志」かなと思いました。

ついでに言うと、この指導案の形が今年は一部の学校では急激に変わっています。ごく少数の人用にはメモ的意味はあるでしょうが、大多数の教師には無益に見えなくもありません。

 

ともかくご一読いただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:13 | comments(0) | - |
改訂された放射線副読本

10月1日づけで、文科省編の放射線の副読本が改訂されて公表された。

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/30/10/1409729.htm

 

フクシマ原発が地震によって破壊される直前の2010年11月に公表された副読本は「原子力わくわくランド」と「チャレンジ!原子力ワールド」でした。これらは、2011年4月に原発を安全とするなど誤りがあるということで撤回されました。

その後に、2011年11月に放射線等に関する副読本が小学校用から高校用まで作成されました。これには、原子炉が安全とは書かれませんでしたが、放射線の性質やその利用が羅列されました。福島以後でしたが原発災害には触れない内容となっていました。

 

そして今回は、フクシマ原発で何が起こったのかから一応始まっています。目次を見ると以下で、違いがすぐにわかります。

はじめに

1章 原子力発電所の事故
1-1 どんな事故が起きたの?
1-2 どんな被害があったの?
 (1)住民の避難
(2)風評被害や差別があった
1-3 事故から立ち直るために

(1)食べ物ものは安全なの?
(2)食べ物ものを調べる
(3)空気中の放射線量を測る.

(4)放射性物質を取り除く作業(除染).
(5)未来への出発.

2章 放射線について知ろう
2-1 放射線って、何だろう?

(1)身の回りの放射線

(2)放射線と放射線を出すもの

(3)放射性物質の変化
2-2 放射線を受けると、どうなるの?

(1)放射線の影響を測る単位

(2)自然から受ける放射線の量

(3)体に受ける放射線の量と健康
2-3 放射線から身を守るには?
(1)事故のときに身を守るには

(2)事故が起こったときの心構え

 

フクシマで起こったことを部分的にですが記述しました。

またその対策の一部を書き込みました。

しかし、そこに問題がはっきりと見て取れます。

1つは、福島での原発がメルトダウンしておこった放射性物質の飛散と被爆、現在の状況について正確に記していないことです。現在も漏洩し続けていることが明示されていません。

2つは、対策の1つとして食品などの検査を続けていることとその結果の数値が並んでいますが、それで安全であることだけが強調されています。そうでない問題指摘はすべて「風評被害」で片付けようとしている姿勢が見えます。

3つは、原発災害の被害の補償の問題が取り上げられていません。

4つは、放射線に関する2章の記述は、従来通りでその利用に価値をなんとか見いださせようとしています。

 

放射線のことしか記していなかった副読本よりはましですが、その内容はかなり偏っているように読めます。

 

中学高校用も基本的に同じスタンスで説明が詳しくなるだけの違いと一読しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:13 | comments(0) | - |
問いに応える

今日から本格的に講義が1つ始まる。この起源は、軽さを前に出していたようだ。改善を続けたようだが、まだ課題があるとオリのときに聞いた。問いと応えをどうつくるか、そこに課題があることは間違いない。

 

先日拝受した本は、Q&A方式で端的な問いに短く答える形式で編集されていた。

コンパクトで問いの中心に簡潔な解が用意されていた。この端的さと簡潔さが1つのメリットだ。

その反対に教育学で有名と言えば、問いと答えの間の重要さを大田堯は何度も語った。間の豊かさを教育に求めた。

 

問いが設定できれば半ば解けたようなものといったのは確かマルクス。

本質的な問いを立てなければ解けない。こういう角度の問題もある。

 

問いと応えの間も、さらに応えの不完全さ、未完性とでも言うのだろうか、それらも重要だ。むしろ完全性よりもその未完性が私は重要だろうと思う。

 

最近よんだ文章では、是枝監督になる弔辞。

「人が死ぬとは、その存在が、普遍化することだと考えています。私は母を失った後、逆に母という存在をあらゆるものの中に、街ですれ違う、あかの他人の中に、発見できるようになりました。」と一応の解を与える。普遍化させることができたといった後から否定していく。「母を失ってあなたと出会ったなどというこじつけは、正しくないかも知れない。けれど母を失ったことを、何とか作品にしようとしたからこそ、希林さんと出会えたことは間違いないのです。」間違いなく出会ったが、なお正しくないかもしれないとその不完全さを含めている。

 

こうして問いへの不完全さや未完性は、その後に続く者へ参入を許し、歓待する仕掛けなのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:37 | comments(0) | - |
公開シンポへの短い感想

29日午後の和歌山大学で行われた報告への短い、短い感想。

 

最初の秋田報告。

コンピテンシーへの各国の関心とその違いから、その形成についての授業への氏の関心の向かいどころを話された。ある種の学習論と捉えることもできると松下さんが途中述べたが、そういう印象は強い。授業論レベルの検討課題はそれとしてあることは間違いない。

 

松下報告は、元のコンピテンシーモデルを日本の資質能力論は3つにしている問題やその位置づけの再構成をしてみるという報告だった。知識・技能、思考力・判断力、態度などという3つと、その後のコンピテンシーとの関係を今少しはっきりさせる余地はありそうだ。また、そう考えるとしてもコンピテンシー・ベースにする理由はまた別。さらに形成論はここでも課題か。

 

付属小の方の報告は、キャラクターの所為か率直な印象をもった。前の日の授業参観の時の資料を見ると、学校は新学習指導要領対応の指導案に移行しているんだ!とおもった。

 

ともかく、新学習指導要領の中で議論され、試みられはじめている(学校の)現実を社会的視野と交えて考察する必要性を意識した時間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:15 | comments(0) | - |
授業と働き方

文科の教師の労働時間に関する調査結果(2016〜2017実施)とその分析が先日公表された。

概要版は以下にある。

 

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/30/09/__icsFiles/afieldfile/2018/09/27/1409224_001_3.pdf

 

このデータがどれくらい正確に調査されたかわからないが、新しいデータであることと分析の仕方が従来と少し違う点があって目を通しておくことは有意義だ。勤務時間に影響を与える要素を取り出そうとしている点だ。

 

「小・中学校ともに、「年齢が若い」「担任学級児童生徒数が多い」「6歳児未満の子供がいない」「教務主任」「学年主任」「校務分掌数が多い」「男性」「通勤時間が短い」教諭の勤務時間が長い傾向。」

などという調査しなくてもわかっていることもあるが、いくつか気になったこともある。

ここでは、授業に関わることを取り出す。

「教諭(主幹教諭・指導教諭を含む。)の1週間当たりの学内勤務時間(平日)が 60 時間以 上と 60 時間未満の2グループに分けて、業務内容別の勤務時間を比較したところ、

・小学校では、「授業準備」「学校行事」「成績処理」において差が大きい。

・中学校では、「部活動」「授業準備」「学校行事」「学年・学級経営」「成績処理」において差が大きい。」

授業準備は、教材研究もあれば、それこそプリントの用意のようなことも含む多岐にわたる。

この時間の差の問題は、微妙な問題をはらむ。

授業準備が短いからよいわけではない。

同様に長いからよいわけでもない。

また、時間のかけ方に個人差があることもまた事実である。

単純に短くしろといわれては困る。また、本来、日本の教師は、授業準備にかける時間が保障されていない。この見地から考える必要がある。

こうした問題は、アンケート調査では見えてこない。

 

教師の持ち授業時間数が増やされてしまっている中で、これを減らすことと共に考える必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 10:28 | comments(0) | - |
原作と改作

久保喬の「二わのことり」を所収した自選作品集が届いた。

この作品を改作した「二わのことり」が小学校1年生用の「道徳科」の教科書にある。

改作された文章は、原作の前半部分で終わっている。

改作の程度は教科書会社によって違う。光文書院は出だしは原作に近い。別の会社は書き出しからまったく変えられてしまっている。

ヤマガラからは誕生日でよばれ、ウグイスからは音楽の練習でよばれたミソサザイが、どっちに行こうか迷って、最初はウグイスのところに行く。他の鳥たちもみんなこっちに来ている。ウグイスの家は梅林で明るくごちそうもあるが、ヤマガラの家は山奥でさびしいところにあるからと読める文がある。この後、改作の仕方は教科書によって違う。ヤマガラはちっとも楽しくないと書いてしまってある教科書もある。そこまでは書かずにヤマガラのところに行くことにしたとして、ヤマガラが喜んでくれたとして終わっているものもある。ともかく教科書は、この辺りまでで終わっている。

 

原作は、そこからクライマックスに向かう。

ミソサザイはワナにかかって怪我をして寝込んでしまい、ご飯を食べられずにいる所を様子を見に来たヤマガラに助けられる。怪我が治って二羽の小鳥は楽しそうに林を飛び回りましたと終えている。

 

道徳用教科書はこの素材で友情を取り上げることになっている。友達のことを考える思いやりの類いがねらいとされる。

改作された文章を読むと、「ヤマガラのことも考えようね!」という方向がもう決まっていることがわかる。

しかし、原作は、ヤマガラも他の鳥たちもウグイスのところに行く必然が記されている。梅林で明るくごちそうもある。他方、ヤマガラのところは遠くで暗くごちそうもない。どっちを選ぶかと言えばウグイスが必然だ。また、ウグイスのところに行くのは、音楽の練習をするという理由もある。こういうことが原作にはきちんと書かれている。改作されたものにはこの辺の事情の省略が目につく。

 

道徳科は思いやりが大事と強調して終わるのだが、そしてミソサザイ以外は思いやりがないかのような扱いとなるのだが、なんだか不自然でしょうがない。そう思うのは、観念化された言葉としての「思いやり」が飛び交っても、思いやりは生まれないからだろうか。原作にあるように、それなりの関係とともに他者を気づかうのである。この辺りが省略された道徳性は、はたして道徳性か?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:08 | comments(0) | - |
無意味な観点別評価

昨日の記事に、観点別評価は問題と書いた。

しかし、なぜ問題かを明確に記さなかった。

 

まず観点別評価とは。

「各教科・科目の目標や内容に照らして、生徒の実現状況がどのようなものであるかを、観点ごとに評価し、生徒の学習状況を分析的に捉えるもの。」文科省のHPにある説明。

周知のように、現状は、ほぼ全ての教科が「関心・意欲・態度」「思考・判断・表現」「技能」「知識・理解」の4つと規定され、国語は特殊で5つ。これが今度は知識と技能がくっついて3つになる。観点別評価という点では変化がない。

 

常識的には、「一生懸命にやってるけど、テストの成績が伸びないね」とか、「成績はいいけど態度悪い」みたいなことを想定するといい。これを観点別に評価して数値化している。たいてい3段階。

 

しかし、私の見方としては、これは変だ。

学習活動は、知識も技能も感情も意志も働かせて成立する。総合的な性格を持っている。三つでも四つでも解体してしまえば無意味でしかない。意欲だけ喚起するとか、とにかく覚えさせるということが発生してきた。むしろ有害だ。

その証拠は、観点別評価というキーワードで検索するとすぐに見つかる。外形的に成績を上げる「技」を並べているサイトがある。

 

学ぶということはそういうことではないだろう。知識の中身そのものに思考を働かせる仕組みや意欲を喚起する要素があり、その人の暮らしや社会関係が学びの活動を規定している。バラして何の意味があるのだ。

 

学習状況を捉える観点にそれらがあることを認めたしても、観点別評価をすることとは別だ。

 

また、観点別評価をはじめたのは1990年代からだが、評価のための業務量を増やした。

個別単元にこだわって、観点別評価を続ける限り仕事が減らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:35 | comments(0) | - |
より問題は観点別評価

中教審WGの議論で教科別の「評定」を無くすかどうかに関する議論があったと報道された。

このWGは、指導要録に関する方針を出すWGで、原案づくりが課題だから、今後なお紆余曲折があるだろう。

 

教科別の「評定」を無くすというのは、指導要録だけなのか、通知表とか通信簿といわれるもののモデルに関してなのか確かめておかないと話が違ってくる。二つは関連はしても別物だ。

いわゆる通知表は、それぞれの学校が決めることになっている。だから同じ市内でも学校が異なると違うことがある。指導要録は項目が決められて同一のものとなる。

ここで話題の評定というのは、数字・記号で、小中学校の場合は三段階や五段階で記されてきているものだ。高校は、通知表は5段階ではなくて、10段階や100点満点などのものも多いが、内申書には5段階でつけられている。

小中学校の場合、教科の評定以外に、観点別評価が現在記されており、通知表にもそれが記載されている学校が多い。高校はこの観点別を記載している学校は少数派。評定や学年やクラス内の順位を記してあるところが多い。

 

無くす意見が多かったという評定の現状の多数派のつけ方は、各教科にある観点別評価を総合してつけている。観点別評価は現在のところ4観点の教科が多く、各観点に比率が決められていて、その総計で評定がつけられている。さらに実態で言うと、到達度による絶対評価ということになっているが、限りなく相対評価に近似している。

ともかく、観点別評価とそれらを合わせた評定がつけられている。

今回、この評定をなくしても観点別評価が続くならあまり大きな変化はないと推測した。

なぜか。

観点別評価が続くなら同じだ。受け取る側も作成する学校側も、それらを合計して普段のランクを考えるに違いない。高校や大学の入試の時にもそれらを合計して得点を出すに違いない。

作成する教師の負担の軽減には一切つながらない。エクセル計算しているところが多いのでプログラム変更でおしまいだ。

 

観点別評価の抱える問題点は残されたままなのではないか。

観点別評価という名前の観点別評定はそのままだ。

敢えて評定と観点別評定のどちらを止めるか?と聞かれたら、観点別評定を止める方を押す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:22 | comments(0) | - |
高校教科書基準の改訂

高等学校教科用図書検定基準のパブコメの結果が18日に公表された。

 

気になった一つ目は、学習指導要領と教科書の関連の項目に、内容とその配列・構成の欄に「その際、知識及び技能の活用、思考力、判断力、表現力等及び学 びに向かう力、人間性等の発揮により、資質・能力の育成に向けた生徒の主体的・対話的で深い学びの実現に資する学習及び指導ができるよう適切な配慮がされていること。」と加筆されたこと。

目標や評価の項目が並んだだけといううかつな解釈もあるだろうが、教科書の執筆スタイルを拘束したと読むべきだろう。

パブコメにも「基準により特定の指導方法が強制されることを懸念する」とあった。これに対する回答が「主体的・対話的で深い学びの実 現について、平成28年12月の中央 教育審議会答申において、特定の 指導の型を目指した技術の改善に とどまらず、一人一人の個性に応 じた多様で質の高い学びを引き出 すことを意図するものであると言 及されており、特定の指導方法を 誘導するようなものにならないよ う、留意してまいります。

これは、気持ちレベルで済む話しならそれでもいい。たが、これは教科書検定基準なのだ。まさか、教科書に個性に応じて書き分けたものを作成するつもりもその能力もあるわけではなかろう。すでに特定の指導法に陥っている現実がある。できあがる教科書は類似の手法が並ぶと見るべきだ。

 

次が話題の焦点関連規定。ここでは、地歴科だけを引用するが公民科にも同様の記述がある。

[地理歴史科(「地図」を除く。)]1 選択・扱い及び構成・排列
(1) 図書の内容全体を通じて、多様な見解のある社会的事象の取り上げ方に不適切なところはなく、考えが深まるよう様々な見解を提示するなど生徒が当該事象について多面的・多角的に考えられるよう適切な配慮がされていること。

「不適切はいけない」とか「多面的・多角的はいいこと」だと読んではいけない。

教科書記述に対して、この基準をどのように適用するか、どの見解とどの取りあげ方が不適切かを教科書検定をする側が決定するという問題を抱えているからである。

パブコメもこれに関連するものが多い。文科の考え方は「新学習指導要領のもとでは、これまで以上に課題を追究したり解決したりする学習活動が見込まれることから、個々の記述だけでなく、単元や題材など一定のまとまりも含め、教科書の記述において、生徒がより一層多面的・多角的に社会的事象を考察できるような適切な配慮を求めるものです。 また、個々の申請図書の記述の適否については、検定基準に基づき、学術的・専門的な観点から教科用図書検定調査審議会において判断されるものであるため、恣意的に判断されるようなことにはならないと考えます。 このような検定基準や学習指導要領に基づき、適切に検定を実施してまいります。

学術的・専門的な観点から判断されるとあるが、内閣の見解を書き込ませるというすでに実施されている事態と整合しない。それでも整合するというなら、この回答の意味は表層の言葉の語義と異なると読まねばならない。

また、「文科省という政府機関が判定すること自体が学問研究に対する政治の介入」だというパブコメには、「申請図書の記述の適否については、その調査審議の時点における客観的な学説状況に照らして、いまだ「通説的な見解」として広く受け入れられている学説がない状況において、申請図書の記述では、生徒が誤解するおそれのあるものとなっていないかといった観点から、教科用図書検定調査審議会の専門的・学術的な知見に基づいて判断されるものであるため、国が恣意的に判断するようなことにはならないと考えます。」と回答している。

だが、ここも問いへの回答となっていない。「誤解のおそれ」はいかようにも拡大解釈可能だ。また、審議会が政権からどれほど独立しているかを保障していない現状において有効に機能しない可能性が高い。また、学習指導要領の目標規定もここには作動してくる。すなわち、歴史総合の枠組み、公共の枠組みが特定の歴史観や社会観と結びついているという問題である。その枠組みは、次の検定基準に記されている。記号ばかりで表に見えないが、そういう意味だ。

「2) 学習指導要領第2章第2款第3「歴史総合」の2「内容」のBの(1)、Cの(1)及びDの(1)それぞれに示す内容の資料については、全てを取り上げ、Bの(2)から(4)、Cの (2)から(4)及びDの(2)から(4)において活用できるよう配慮がされていること。」科目枠組みと関連しているのである。近代化や国際秩序というかなり問題のある枠組みのことを指す。

見えなくてもひどく拘束的規定なのである。

 

どう書くのか、教科書執筆者の見識も問われる。

そして、できあがる教科書をどうさばくかの教師の見識も問われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:44 | comments(1) | - |
| 1/139PAGES | >>