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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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自分ごとの軽重

高校の新科目「公共」の科目としての特質は、「よりよい社会の構築や人間としての在り方生き方についての自覚を深めること」が繰り返し強調されている点にある。

一昨日19日の中日新聞の記事がその特質を簡潔に表現している。

http://www.chunichi.co.jp/article/feature/kyouiku/list/CK2018081902000003.html

すなわち、「社会問題を「自分ごと」で議論」する科目だとするものである。

 

人間としての在り方生き方というのは、従来の道徳の時間、小中の新学習指導要領の道徳科で使われる言葉と同じだ。そこには「􏰊􏶡􏰣􏲃􏰯􏱋􏰸􏰹􏰺􏰙􏰣􏰻􏰼􏰏􏱍􏱎􏰭􏱁人間としての生き方についての考えを深める学習」とあり同じねらいだ。

この在り方生き方という構想は、自己を内省し拘束する独特の把握をしてきたという経緯がある。

 

また、記事の実践にもあるように、人間としての在り方生き方を考えるにしては2時間前後で重大な問題に結論をつけることになる。ひどく軽い扱いとなる危険がそこに渦巻いている。

重い問題を軽く、多角的に考察するにはひどく短時間で通過する。

 

にもかかわらず「自分ごと」と思わせる取り組みがはじまるかもしれない。なんと恐ろしい教育だ。重大な問題を十分な情報もなく「自分ごと」と思わせて判断を迫る。

判断するために必要な情報を慎重に集めること、その情報や知識は確かなデータなのか、トランプや情報操作会社である○○堂や電○が発信源ではないのかといった吟味こそ重要だ。

 

身に降りかかる問題として捉えるとは、むしろそうした軽薄さの対極にあるのではないか。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:51 | comments(0) | - |
ソウルと晋州へ

先日、ソウルと晋州(チンジュ)に行ってまいりました。

まず11日は、光化門近くのソウル市立歴史博物館。いつも思うのですが、土器などの出土品は日本地域の出土品と類縁性を感じさせます。ここは無料でした。

ソウルも暑かったのでここに入って涼むことができました。午後はKTXに乗って晋州へ。

 

慶尚大学のセミナーハウスに宿泊し、約300円の朝食を食べてから12日は「日韓歴史教育交流会」。慶尚大学教育院の院長の挨拶を受け、双方代表の挨拶のあと研究会を夕方まで。

韓国の小・中学校の報告は、数年前と大きく変わっていました。倭寇の遺跡を子どもたちと調べる授業は、「慶尚型革新学校である幸福学校」と名乗る実践事例で、活動的になってしまっていました。

中学校の江華島条約の評価をめぐる授業も、ジクソー法を取り入れた実践でした。

 

私の質問に対して、「教師は、国家権力の知識の伝達者ではなく、知識の生産者」と述べていたことが印象に残りました。

 

13日は、有名な晋州城。ここは秀吉軍と戦った朝鮮側の城として有名ですが、慶尚歴史教師の会の中心メンバーが案内してくれているので、解説が通常とは違うもの。現在発掘調査中の城跡とそこにあった衡平運動の記念碑の移設問題などコンパクトですが、史実と伝説(論介の伝説)を仕分けしてくれているのがよく分かりました。

 

その後に日本側の城である泗川船津里倭城を暑いので短めに見て、慶尚大学の博物館へ。その後、夕方のKTXで再びソウルへ。

14日の朝、ソルロンタンを8000ウオンで食べてから浅川巧の墓地を見て、光化門の教保文庫という広大な書店へ。名古屋駅の三省堂よりずっと広い。ほんとに広い。

 

インチョンへのリムジンバスを待っている時、向こうに見えた正装した人たち。15日は光復節だからだろうか。一日前だがプレ企画で何かあるのかもしれない。このあとバス亭側にも正装した若い男女がやってきた。

例年よりも研究会の日程が遅めだったので見ることができた風景。

 

収穫がいろいろあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

| 教育 | 07:21 | comments(0) | - |
手配と自律

昨日までオープンキャンパス。

これが始まった当初と今はまったく様相が異なる。

 

始まった当初は、自発的に参加する高校生の数が多かった。また、受験の参考にとやってくるため、高校三年生と二年生が中心だった。

 

今は違う。というかすぐに様相は変化した。

今は自発的にやってくるというよりは、行くことが宿題となっていてやってくる。

 

大学の様子を見てみたいという要素が全くないということではないが、宿題としてオープン・キャンパスにやってくる。学校によっては、これに参加することが「総合的学習」の一部になっていたりする。

 

相当数の高校生は進学するので、関心が全くないということでないが、目的意識は各大学がはじめた頃とはまったく違っている。

参加者の層も違って、一年生からやってくる。まだ高校に入学したばかりだ。

 

進学先選びの手配師を生業とする営利企業やその影響下にあるほとんどの高校が手配して、オープン・キャンパスに人が来る。

ある種の制度化がないと情報も偏るから必要なのかもしれないが、手配されたイベントは存在を希薄にする。

 

高校生の持っていたプリントは、授業の課題として配付されたらしい。訪問した大学の就職率を聞いてくることになっていた。

しかし、この大学の就職率というのは、あてにならない。正規職と非正規職といった区分はない。また、就職率が100%に近い大学がよい大学ということも全くない。東海地区トップとされる名大の就職率は学部について言えば、学部生の6割近くが大学院に進学するが、残りの4割の92%が就職したことになっている。就職率上位とは言えない数値だ。

 

今は、あてにならない数字の典型だ。

ここにも指標の意味の変遷がある。制度化されると意味を変える。これを知らないものだけが騙されていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:06 | comments(1) | - |
教え合いをつくる

研究会で個人的に一番参考になったのは、「教え合いって、できる子ができない子に教えるだけで、できない子は教えられっぱなし」という指摘と対策。

確かに、「教え合い」というと対等に仲良くやっているように見えるが、通常「できない」子は教えられっぱなしとなって、教える側に回ることはほぼない。この固定的関係を時々でも壊すことには意義がある。人の見方を豊富化する契機の一つと考えられるからである。

 

授業のなかに「教え合い」に類似したことを考えている議論を思い起こす。

協同学習論も教え合いと言っていた。たぶん一番強調していたような印象が私にはある。しかし、教えるだけで「合い」はないことが読んだものや見たものはほとんどであった。

学習集団論は問いによって複数意見が出るという方向で、意見交換が中心で、「教え合い」はあまりなかった。状況が違うのかもしれない。

学びの共同体論は、「聞き合う」といって、そこから話し合う。厳密に言うと「教え合い」とちょっと違うのかもしれないが、自分の見方を教えあうことにはなっていく。ただ、聞いて内容があるかどうかは、やはり出来具合に左右される要素が避けがたくある。

 

報告者は、合唱で、教えられっぱなしにならないように、子どもごとにとりわけ「ターゲットの子がきたらその子にだけ教えて、後で他の子にその子の所に聞きに行くように言う」と述べていた。

ここでポイントは、「できる」子も知らない内容・不確かな内容であることが一つはポイントだ。

もう一つは、そういう子どもを見る目、子どもと子どもの関係を見る目がないと、これはできない。

 

「教え合い」を美しいだけの言葉と見なし、実態は教えられっぱなしという冷静なまなざし。何もしないでは固定的見方は変わらないという課題意識。そこに一つの対応策を考える教師というものの位置取りがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:13 | comments(0) | - |
現実の問題にこそ道徳が潜む

今日から研究会がつづく。

今年は、道徳の教科化が現実体となったばかりなので参加希望が多いという。

中学校は現在教科書採択中だ。

 

教科書で取り上げられているお話の中には、そもそも奇妙なものがある。

悪い中でも先頭を切ってよくないといわれる『日本教科書』の中学3年の56/57頁には「礼儀はなぜ必要なのか」があり、初めて人に会う時、窓を割って謝罪に行く時、プレゼントを人からもらった時の三つの場合の礼儀正しい振る舞いと無礼な振る舞いを考えることになっている。

まず、中三の歳にもなってあらためて取り上げる話題か?と思う。

仮にまあ、あってもいい話題だとしても、事例は、すべて中三が振る舞いをすることになっている。

しかし、礼儀をわきまえていないと思われる事柄なら毎日報道されている。それらの大半は中学三年生ではなくて、大人だ。

少し前ならモリカケ問題がらみの麻生大臣の無礼な言動があった。

それより後なら、謝罪しない日大の田中総長。

礼儀をわきまえていないのは、大人の方だ。しかも権力者に限ってそれができない。なぜそうなのかを考えた方が有意義に思われる。

 

学校で、各種の人の言動を検討することは意義がある。それは、道徳の教科書よりも現実の問題の中にあるからだ。

昨日今日なら東京医大の入試における男女差別問題などを取り上げる方がいい。日本教科書の91頁には「差別や偏見のない社会の実現のために、一人ひとり何ができるでしょうか。」とあるが、こうした今の問題を取り上げることの方が、計画通りに頁をめくるよりずっと重要なことだ。

報道によれば、東京都立高校は入試で男女定員の割り振りがあるという。これが差別になっていると記してあった。さてどうなのか。

現実の中にこそ検討すべき道徳は潜んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:55 | comments(2) | - |
更新講習の感想から

教員免許の更新講習の必修領域を三時間ずつ、午前と午後同じ内容で担当した。

今度の勤務先では初めて担当した。受付で団扇とペットボトルを配付していた。前のところではそれはなかった。団扇はオリジナルだったからCMのつもりのようだ。

 

教育政策の中で一番人気のないのが更新講習だが、多くの人が思うように、どうせなら有意義な時間にしたいと思う。

私は、新学習指導要領の特質と課題がテーマ。

 

新が告示されてから教委や学校の受け止め方のトレンドを示しながら課題を提示するという基本の流れをつくってみた。

これはこれで成功したと思う。多忙な中耳を傾けてもらえた気がする。

ALはトレンドの座から降りたこと、代わって汎用的スキルが上にきた。しかしこれとていつまでその座にいるかというと?

 

こうした話しへの反応は、私の一番のねらいである「相対化」をいくらかしてもらえたようにおもわれる。踊らされるのではなく、それぞれのまなざしで事態を見ること。教育のメインテーマである子どもの育ちにどう関与するかを「私」の側から考える、そういうことにいくらか拓いてくれるといいかなと思った。

終了時に書いてもらった文章はまだ全部を見ていないが、いくつかそのことに通じる応答があった。もっとも、現在のトレンドの頂点にいる探究は「総合になげました」みたいな身も蓋もない消化試合的な応答もあって、追い詰められているなと思った。そういう状況も実感できたこともしかし収穫。今回も学生の頃お世話になりましたと40代教師に挨拶された。

 

トレンドがつくられては捨てられていく仕組み自体を見据えて、その仕組みに乗らない教育の世界をいきたいもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:11 | comments(2) | - |
調べ上げる

堀崎嘉明さんより『朝鮮通信使、尾張路の旅』を拝受。

1607年から1811年まで、12回江戸期に朝鮮通信使がやってきた。そのルート上に尾張路がある。

そこでの様子の記録を集めて読んだ本である。

 

多いときには二千人にもなったという行列を見物に瀬戸からやってきた人の記録などが拾い集められている。庶民の受け止め方が見えてくる。

書画への揮毫を頼んだり、詩の唱和の交流があったりしたようだ。

揮毫は通信使に頼む人が多くて規制する制限令を出した、といった事柄が列挙されている。

 

こうした資料の収集から見えてくるものは、江戸期の国際交流の実態であり、『鎖国』という認識の誤り、現在の対朝鮮観の誤りを浮かび上がらせる。

秀吉の朝鮮侵略によって朝鮮から連れてこられた人を連れ帰ることも使命の一つであったが、実際に帰った人よりも残った人の方が多かった。その人たちの中には尾張藩に召し抱えられていく人もいたという。朝鮮出兵では、日本の家臣が朝鮮側の幹部になっていく人もいたが、状況に違いはあっても外形的に類似のことが発生している。

 

後書きを読むとこうしたことに取り組む切っ掛けが堀崎さんの大学生時代にあることがわかる。その後、高校教師となって、途中から言葉も学び資料もコツコツと集め、先行研究の検討をしてきたことがわかる。

いま、教材研究から阻害される仕組みの中に教師は置かれている。堀崎さんのこの仕事は、教師の通常の教材研究にかける時間をはるかに超えているが、これまでの多くの教師は、そうした領域をどこかに持っている一群の人たちがいた。そのことの教育力は誠に大きかったというべきである。

概要版でポイントだけを教える安直な世界とは違う中身を持つことの意味を考える一冊。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 教育 | 06:42 | comments(0) | - |
新学習指導要領と主権者教育

台風による警報が出ているなかの開催で参加者が少ない。帰りの地下鉄もがら空きだった。

このテーマについての根拠データと主張の基本を以下に記しておく。

 

新学習指導要領にも主権者教育に関する項目がある。

小学校社会科の公共施設の整備や租税の役割の理解、国民としての政治への関わり方の項目。道徳科も関連している。

中学校社会科の民主政治の推進と公正な世論の形成や国民の政治参加との関連についての考察などである。

高校も公共をはじめ位置づけられている。

 

中教審答申43頁には(主権者として求められる資質・ 能力)の項目があり、以下のように記されている。
○ 議会制民主主義を定める日本国憲法の下、民主主義を尊重し責任感をもって政治に参画しようとする国民を育成することは学校教育に求められる極めて重要な要素の一つであり、18歳への選挙権年齢の引下げにより、小・中学校からの体系的な主権者教育の充実を図ることが求められている。
○ また、主権者教育については、政治に関わる主体として適切な判断を行うことができるようになることが求められており、そのためには、政治に関わる主体としてだけではなく広く国家・社会の形成者としていかに社会と向き合うか、例えば、経済に関わる主体(消費者等としての主体を含む)等として適切な生活を送ったり産業に関わったりし て、社会と関わることができるようになることも前提となる。
○ こうした主権者として必要な資質・能力の具体的な内容としては、国家・社会の基本原理となる法やきまりについての理解や、政治、経済等に関する知識を習得させるのみならず、事実を基に多面的・多角的に考察し、公正に判断する力や、課題の解決に向けて、協働的に追究し根拠をもって主張するなどして合意を形成する力、よりよい社会の 実現を視野に国家・社会の形成に主体的に参画しようとする力である(別紙5参照)。 これらの力を教科横断的な視点で育むことができるよう、教科等間相互の連携を図っていくことが重要である。
以下略

 

 

主権者の把握が権利主体としてではなく、きまりを守り投票行動に参加する国民として描かれている。政治主体と国家・社会の形成者が区分されてとらえられていると私は読んだ。一例を挙げると、高校の「公共」は、「国家及び社会の形成者として必要な資質・能力を育んでいくことが求められる」「よりよい社会の構築や人間としての在り方生き方についての自覚を深めることに向けて」新設されており、主権者教育の観点から見ると「人間としての在り方生き方」に力点が置かれていると読めることによる。

 

以上のように見ることができるとすれば、そのままでは主権者教育はかなり狭量なものに写る。

他の道を探さねばならない。

これを越えて行くには、社会の諸問題を取り上げることになっているので、その捉え方を多面的にとらえる方向に転換すること。現実の社会的問題を検討しあう場所を学校につくる以外にないだろう。

その手がかりをいくつか話題提供した。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:26 | comments(0) | - |
存在を否定する者に

人の存在を否定する事件が続いている。

一つは死刑の執行。もう一つは、LGBTの人や子を持たない人への差別発言。

存在それ自体の否定は、憲法違反(11条、13条、14条、19条、25条)であるばかりか、人としての倫理に反している。この二点において批判されねばならない。

死刑制度については、憲法31条が「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」に根拠をおいているが、より上位にある条文にしたがって法律を変えれば死刑制度を廃止すれば済む。

 

ところで、教育学を専攻する者にとって難問は、後から来る者に、現行の法の不備や強制性をどう教えるのかという問題がある。

先に生きている者に従えと教えるのは、民主主義的でない。とりわけ民主主義を社会の原則として認める側は、それをすることは矛盾である。

ここに道を拓きたいと常々考えてきた。

そこで今のところの到達点は、現在を矛盾と課題を抱えた世界と教えよう。問われている課題にどう応えるのか、選択肢を後から来る者が選べるようにしよう。ここまでは到達した。

 

しかし、問題はまだ残されている。存在を否定する者は、後から来る者に判断を委ねない。だから判断を委ねる道を広げようとは言える。しかし、まだまだ道は広げられるべきだ。

 

7月3日にここで紹介した『ジェンダー教育の未来を拓く』に、トランスジェンダーの教員が自身の生い立ちから教員となったときのことを記している。最初教員となったとき、管理職からアウティングされ精神的ストレスであったと記している。少数者は一々説明することを求められる。こうした差別や存在の否定という現実に、上記の原則だけでは十分ではない。

どのような原則を教育論として打ち出せるかなお課題だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:50 | comments(2) | - |
責め立てる道徳科教科書

道徳科シリーズの5か6。

 

全国で中学校教科書採択が続く。

どの教科書会社も似たり寄ったりであることは、出だしを見るとわかる。挿絵は違っても同じことが書いてある。

見事に同じだ。ここに日本の支配された教育をみる。道徳科で学ぶことと学び方について同じことが書いてある。

 

若干の濃淡がでるのは、教材文。

どの教科書会社も同じ傾向だが、子どもの内心を責め立てる。

あの谷川俊太郎の詩でさえ責め立てる道具に使われてしまう。

学研みらいの中三に「ありがとうの深度」が採用され、「あなたのありがとうにはどんな思いが込められていますか?」と問われている。問われているようだが、どんなときも「ありがとう、と言おう」ということになっている。

 

続く向田邦子の「ひとりを慎む」ではもっと露骨だ。自堕落ではいけない!と迫る。

 

山本敏晴のように世界で活躍し、余命がゼロとなっても渡部成俊のように力強く生きよと続く。

 

道徳科の教材となったとたんに、子どもの内面を責め立てる圧力に変身する。

谷川の「ありがとうの深度」も様々なありがとうがあるという発見をした側から読むのと、感謝をしなさいという規範の前に立たされて読むことの決定的な違いがそこにある。

この違いに気づかないものは永遠の不幸の前にいる。

永遠の不幸から逃れるには、規範の前に立つのではなく、暮らしの中にいるしか術はないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:22 | comments(0) | - |
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