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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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研究会への参加

教育関係の集まりにも世間同様に三種類ある。

 

一つは、会議。昨日の集まりがそれ。合間の雑談や情報交換があるが、組織運営が主目的で必須ではあるがあまり面白いというわけにはいかない。

 

二つが、講習会。私は、これには原則参加しない。主催する側から言えば、普及が目的。ちょっと知っておきたいパソコン講座のような技術情報知を目的とした類いのものなどをイメージしてもらえばいい。教えてあげるから有り難がって受け取れという会。商業化しているものがかなりあって、感じの悪さは表のにこやかさと裏腹に極まっているセミナーが氾濫している。

 

三つが、研究会。参加者に問いかけがあり、応答を含めて探求がそこにあるもの。これに参加してきたつもり。

私の場合、テーマと報告者がまず決めてとなって参加候補の会を選ぶ。これに自分の都合を勘案する。テーマとその趣旨は最も重要だ。報告者は著名がどうかより、報告者の問題意識が重要だ。講習会講師的意識で参加してくる場合には期待できない。問いかけが重要なのに、「受け取れ」が構えだから研究にならないからだ。

参加してきたから参加する研究会もあるが、参加したことがない主催者による研究会にも参加してみようかという意志が大事だなと思う。

 

毎週末には研究会が開かれていることが多い。重なることが多いのだが、迷うことは滅多にない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:41 | comments(0) | - |
考えさせない考え方

高校学習指導要領案をようやく半分まで読んだ。

現行と対照させる作業の前段階だが、すべての教科の記し方に共通する形式と傾向がある。

1)目標を記すときに、「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力」、「学びに向かう力」の三つが並べられていること。

2)従来高校は科目の内容の多くは「知識・技能」の羅列だったが、現行のB科目に対応する科目はさほど変わらないが、それ以外の新科目には「知識・技能」の位置が相対的に低下し、思考方法・スキルが増加しているように見える。そうした科目ほど形式主義化すると推測される。

3)「探求」することや「課題研究」的な活動が各科目で奨励されているが、「竹島や北方領土が我が国の固有の領土であることなど,我が国の領域をめぐる問題も取り上げるようにすること。その際,尖閣諸島については我が国の固有の領土であり,領土問題は存在しないことも扱うこと。」などと、考える余地がない記述があり、矛盾している。考えるとは、対象がわからないから考えるか、複数の見解がある場合に可能となる。このように決めてかかっては話にならない。そもそも、近代における領土問題で「固有の領土」という概念は成立しない。「領土問題がない」と言いながら、「固有の領土」と主張すること自体が領土問題があることの証明となっているわけで、近年の政治の奇妙さを継承している。

これでは高校生に考える高校生になるなと言っているに等しい。

 

「総合的な学習の時間」が「総合的な探求の時間」になったが、理数科をおく進学校はその時間を最小単位時間にするだろう。探求系科目が所定の時間できびしいと考える高校は、連動させる方向に動くだろう。それ以外の時間は、進路指導にいくらか時間を配置することになると推測される。すると、この時間の意義は相対的にさらに低下したと見ることができる。独自の意義は限りなく小さくなるからである。旧来の行事対応時間にしていた学校は、それへの対応の変更が求められることになろう。

 

他の各科目の気づきはTwitterを参照のほどお願いします。さらなる各論は、折に触れて記すかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:18 | comments(0) | - |
公共の第一読解

高校学習指導要領の新科目「公共」について限りなく「道徳科」に接近しているというのが第一印象だ。

 

教科としての公民の全体目標は、すべての教科と同じ形式で記されているが、この形式がこの教科の所にはまると違和感はひどくなる。

(1) 選択・判断の手掛かりとなる概念や理論及び倫理,政治,経済などに関わる現代の諸課題について理解するとともに,諸資料から様々な情報を適切かつ効果的に調べまとめる技能を身に付けるようにする。
(2) 現代の諸課題について,事実を基に概念などを活用して多面的・多角的に考察したり,解決に向けて公正に判断したりする力や,合意形成や社会参画を視野に入れながら構想したことを議論する力を養う。
(3) よりよい社会の実現を視野に,現代の諸課題を主体的に解決しようとする態度を養うとともに,多面的・多角的な考察や深い理解を通して涵養される,人間としての在り方生き方についての自覚や,国民主権を担う公民として,自国を愛し,その平和と繁栄を図ることや,各国が相互に主権を尊重し,各国民が協力し合うことの大切さについての自覚などを深める

 

(1)は知識と技能、(2)思考力・判断力、(3)主体的なんとか。全部このパターンで記されている。(3)に「人間としての在り方生き方」と各所に出てくる。この言葉自体はずっと前から使用されてきたのだが、教科の学習で生きる方向が目標として決まっているのは誠に押しつけがましい。その中身はその言葉に続く内容と連動していることは明らかだ。そうなると違和感そのものとなる。人としての生き方は、国民主権、愛国心、「平和と繁栄」等々をどう考え、行動するかと深いつながりがある。そこで想定されている国民主権論は、かなり偏りがあると見ないわけにいかない。それらの近代主義的な把握とは異なる見方もあるはずなのだが、それは想定されていない。

 

「公共」の目標は公民の目標ときわめて類似している。(1)が異なるだけだ。

「公共」はA 公共の扉、B 自立した主体としてよりよい社会の形成に参画する私たち、C 持続可能な社会づくりの主体となる私たち、の三つの柱からなる。特に「道徳科」と近いのはAである。身につけるべき中身を次のように並べる。

(ア) 自らの体験などを振り返ることを通して,自らを成長させる人間としての在り方生き方について理解すること。
(イ) 人間は,個人として相互に尊重されるべき存在であるとともに,対話を通して互いの様々な立場を理解し高め合うことのできる社会的な存在であること,伝統や文化,先人の取組や知恵に触れたりすることなどを通して,自らの価値観を形成するとともに他者の価値観を尊重することができるようになる存在であることについて理解すること。
(ウ) 自分自身が,自主的によりよい公共的な空間を作り出していこうとする自立した主体になることが,自らのキャリア形成とともによりよい社会の形成に結び付くことについて理解すること

知識や技能に関わる項目なので、最後は「理解すること」と終わるが、途中の文章は「自らの価値観を形成するとともに他者の価値観を尊重することができるようになる存在」などと特定の見方が並ぶ。

「道徳科」との類似性を読み取れないだろうか。

また、この論法はBやCにもみられる。その上、BやCを学ぶ際にもAが基礎だという趣旨のことを述べている。

 

かろうじてBやCに社会制度や理論が取り上げられているが、その枠組みも一部分的だ。環境論にそれを見ることができよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:05 | comments(1) | - |
高等学校学習指導要領案の教科構成について

昨日、高等学校学習指導要領案が公表されて、パブリックコメント期間に入った。

http://search.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000170358

 

前文と総則の基本の文章が昨年の小中学校の学習指導要領と基本的に同一。「児童」が「生徒」になっていたり、「教科」が「教科に属する科目」となっている程度の違いしかない。

問題は、だから、資質・能力ベースなどの小中学校の学習指導要領と同じ諸問題を抱えている。

他方、独自の問題は、二つある。一つは、各科目の内容の変更点である。これについては順次検討したいと思う。

もう一つは、新しい科目の設定とそれらの必修と選択に関わる科目構成の点である。

 

名称の変更以上の違いが顕著なものとして、国語に古典探求、地歴に地理総合・地理探究・歴史総合・日本史探究・世界史探究、公民に公共、理数に理数探究基礎・理数探究が科目として並んだ点にある。

また、小中学校は従来通り「総合的な学習の時間」だが、高校は「総合的な探究の時間」となった。

科目構成においては、「総合」と「探求」がキーワードとなっている。

科目の内容ではなくて、ねらいの性格で科目を設置することは可能なのかどうか、検討する必要がある。興味深い実践も登場するだろうが、形骸化の危険性も高いと思われる。

 

必修と選択科目の配置にも注目する必要がある。国語は国語総合が現代の国語と言語文化に、世界史が歴史総合に、地理総合が新たに必修化され、公民に公共が必修化された。この必修化には一つの傾向がある。グローバル化の反対、ナショナリズムの台頭である。言語文化は古典に比重がかかり、世界史必修が歴史総合と日本からのまなざしがきつくなり、公共は限りなく道徳に接近しした。

 

「グローバル化や人工知能(AI)の発達に対応する力を育てる目的でアクティブ・ラーニングが導入されるなど、改定案は思考力を重視する内容となった。」と読売新聞は書いているが、ここには裏がある。アクティブ・ラーニングの定義によっていかようにもその実現形態は変わるだけでなく、ナショナリズムの涵養というゴール(正解)の決まったアクティブ・ラーニングという性格がそこにあると見なければならない。

 

必修と選択の構成は、進学校とそうでない学校とでも上記の性格を微妙に変えると推測される。

3月の研究会における参加者の反応がどうなるか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:00 | comments(1) | - |
論理と内容

野矢茂樹『論理トレーニング101題』産業図書というよく読まれている本がある。

この本には、論理は接続詞に注目すればいいとか、文の構造や論証の筋道のことなのだということが例題付きで解説されている。

例題は、説明用に鮮明なものが選ばれている。しかし、面白いものとそうでもないもの、解答が易しいものとかなり考えてしまうものとがある。例えば、接続詞の問題は比較的易しいが、逆とか裏とか待遇の問題は少々難しい。

 

問93の以下のような文章のおかしさに気がつかない人は多いのではないか。

「子どもの作文のためのマニュアル本はたくさん出されています。ところが、作文ほどマニュアルのないもの、マニュアルとは相容れないものもないはずです。マニュアル通り書かれた作文なんて普通の人間なら気持ちが悪くて読む気も起こらないでしょう。なぜなら、それらは、ともすれば現在の大人の価値観で評価されることを目的にして書かれているからです。あるいは、考えることよりも、表現することを重視しているからです。そこから出てくる子どもらしさを装った作文、あるいは、既に大人の評価にへつらうことを知った「うけねらい」の作文なんて見るだけで気分が悪くなります。」136頁(出典は工藤順一『国語のできる子どもを育てる』講談社現代新書)

 

野矢は、「優等生的に書いちゃだめだ」というマニュアルもあり得るとか、「どんなマニュアルもダメ」ということかとか、「自分の感じを大事に」というマニュアルもあり得るけど、それもダメということか、などと論理の欠陥を指摘する。あるいは、好き勝手に書いた作文がいいのか?など訳のわからない文章だと指摘していく。

論理を検討すると確かに欠陥が見えることがある。その意味で、論理を意識して行くことは有益なことである。だが、工藤のような主張は、子どもを理想化して捉えるよくある主張ということを知っていると、その批判もできてしまう。芸術分野の議論によくあるパターンなのである。その意味では、論理に関する知見と共に内容に関する知見から批判することもできる。

 

もう一つ例を挙げると、問18には、日本人が集団の規範に従う傾向があって、秩序指向性が鬱病になりやすい性格を形成し、それで日本人には鬱病が多いなどという文章が挙げられている。問題自体は、この文章中の不適切な接続表現を指摘するように求めているだけで、確かに不適切な接続詞がある。だが、例題文の日本人論には内容的に妥当性を欠く点もある。例えば成人期以降に鬱病が多いのはその通りなのだが、日本人に限ったことではない。人の性格によって鬱病になりやすい性格があるとしているが、性格が原因であるかのような表現だが、それは原因のレベルをどこに求めるかで専門家の間でも見解が分かれる部分があったりする。これは論理の問題ではなくて、事実の問題である。

 

だから、論理と事実は車の両輪として捉える必要がある。

論理と内容と共に吟味する必要がある。そうでないと、論理的だが内容が間違っていることが発生しうる。

 

なぜ、これを主張したかと言えば、汎用的スキルに過剰に期待する主張を批判したいためである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:40 | comments(0) | - |
矛盾をなぜ放置できるのか

京都の研究会における報告は、興味深いものであった。

詳細は、ご本人からそのうちどこかに発表されるに違いない。

9条の改憲案をめぐって、3項に自衛隊を位置づける案が自民党筋で検討されている。実践はこれをめぐって、論点を調べ、各政党に質問し、生徒による立ち会い演説会(生徒が調べた内容を報告)を開催し、模擬国民投票を行った実践が報告された。

 

詳しく学ぶ前の高校生の意見分布では、3項に自衛隊を位置づける案に賛成がかなりあったという。これは、現在の自衛隊をそのまま追認するだけの把握らしい。それは、次の理由からであるらしい。

厳密に考えると現状は違憲かもしれないが、災害時には必要だし、安保法が成立しているとは言え他国の戦争に本格的に巻き込まれていないし、北朝鮮のミサイルは心配だからいいんじゃないか、そういう把握らしい。

 

しかし、予想される自民党案をまじめに検討すると、戦力と実力組織とは両立するのか?等々、数々の疑問が発生するので、模擬投票の結果では、3項を追加する案への賛成は減少するようだ。だが、それでも模擬投票の結果は、過半数には届かないものの高い支持率であったという。

そこで、私には疑問が残った。

戦力不保持と実力組織の両立は論理的にありえないと思いながら、なお3項追加論を支持できてしまう高校生が相当数いることである。他にも論理的に一貫しない把握が多々ある。論理的に一貫した判断をするなら、9条を維持するか、9条を廃止するかのどちらかでなければおかしい。だが、高校生の相当数が論理的一貫性を放置できてしまう。なぜ放置できてしまうのか?そういう疑問である。

 

事実を探求し、論理的に物事を考える力を育てることが市民教育には欠かせない。そうでないと、世論操作が行われると、それにすぐ乗ってしまうことになる。恐ろしい事態はすでに発生しているのではないかと思われる今日、論理的矛盾に気づく知性を育てることは、焦眉の課題、そう思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:17 | comments(0) | - |
科学の体系性の意味

NHKが金印の真偽をめぐるシンポの話題をアップしていた。

金印の偽物説の根拠をよく知らなかったので、短い記事だが参考になった。

 

所で、歴史に限らず、未確定もしくは異説のある事柄は多々ある。確立しているとされる説も多々ある。確立しているとされる説を真理として位置づけるが、時にそれが真理の座から滑り落ちることがある。完全に偽となる場合と、条件付きとなる場合とがある。ニュートン力学は条件付きで真理の座に今も就いている。

 

いろんな科学論があるので、真理の基準は色々ある。例えば、反復性とか再現可能性は欠かせない一つ。それらの一つに体系性ということがある。真理は孤立して存在しない。周辺の事柄との関連をいつもつけることになる。周辺の事柄と整合的な関係を持つ。逆に持たせるように事柄を把握するということも起こる。関連づけの見方自身が一変するようなことも時々起こる。これをパラダイム転換などという。こうしたことを含めて科学の体系性という。

 

科学が体系的というのは、興味深いことだ。一つの事実の把握の違いが体系を変えることもある。他方で、未確定の事実を抱えながらも一応、仮に、体系として成り立っていることも暫定的に認知しようということでもある。このパラグラフの中に無数の論争が入り込む。まことに興味深いことである。

 

ここを単純化する議論は恐ろしい事態を招く。昨日の権威主義や委員会を重視する見方などなど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:53 | comments(0) | - |
国語と算数のテストの差

「算数は授業で取り上げたものと全く同じ問題は出題されないが、国語は全く同じ問題が出る。」

 

これは、日常の授業におけるテストのことを指している。

また、算数が違うというのは、数字を変えたり、応用問題の状況をいくらか変えてあることを指している。

 

話者は、この違いで、国語の方も変えたらというつもりで話していた。

 

授業における単元終了時のテストは、基本的に授業の理解度確認を目的とするから、授業中と同じ教材・問題例が出題されて当然だ。変えすぎる方が間違いと言っていい。ただ、すべて同じでなければならないこともない。算数のように単元の目標や内容との関連で異なる問題が出題されてもいっこうにかまわない。

では国語はどうか。話者は、国語も教材を変えてもと思っているようだが、そこには問題がある。国語の教材は作品の固有性が主題や登場人物の性格などにはある。これに関しては取り替えが不可能だ。この辺りが理解されていないように思われた。

ただし、抽象化された論理や言葉の意味や用法例などはいくらでも変えられる。

 

テストの目的に規定されることを踏まえないと、今後、問題が発生するだろうと思われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:32 | comments(0) | - |
人工知能と人間社会に関する懇談会報告書から

内閣府に置かれた懇談会の報告書が興味深い。

昨年の3月24日に公表されている。

AIに注目が集まり、一部の分野では人の力を越えていることが確認されている。

AIが人の力を越え、人をアシストするようになると考えられている。今のところは、車の自動運転などだが、多くの分野に進出することが見込まれている。この報告書は、ALが社会に広まっていくときに発生する問題に関する論点をとりまとめたものだ。

 

教育の分野についても短いがこれからの教育の方向について論じている。

サマリーの部分を引用しておく。(プロテクトがかかっていて、カットアンドペーストがすぐにはできない)

「教育的論点:現状の人工知能技術の限界を把握し、協働して創造的活動ができるための能力を身に着けることが望ましい。人の能力を人工知能技術と最大限に差異化し、人にしかできない能力を伸長する教育カリキュラム、従来通り行うべき教育内容の検討などの政策が必要である。」2頁

 

現状の人工知能技術の限界は、本文にいろいろ書いてあるが、要するに自律的に判断ができない。事実の組み合わせからあり得る選択肢を並べることができるが、それらの価値判断が囲碁や将棋のような単純な勝敗確率で済まない領域になると、選べないらしい。

他方、AIがアシストするようになると何が人の行ったことかそうでないかの境界が不明となる。他方で、AIが支援するものを人ができる必要はないということになる。やってくれるものは任せて人は別のことを、というわけである。その別の能力に傾注すべきだし、他方で必要な場合には従来通り残る教育内容と合わせたカリキュラムにすべきだということになる。

 

先日、とある地域の当面の学校教育政策を聞いた。今は全国学テの平均点アップ対策だそうだが、これがうまくいっていないのでどうするかという文脈だったが、そういう方向は将来を見通すと時代錯誤の可能性が高いということが、先の報告書を参照して、それが信頼ができると見れば、そう言える。

また、もう一つ興味深いことは、AIの時代にも残るのは教育内容であるということ。ただし、今のすべてが残るわけではないと見込まれていること。さしあたりのICT化ですます話しではないと思われるところが、私の関心を寄せるゆえんである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:37 | comments(1) | - |
研究集会ー高校における探究科目の導入と課題

公式発表となったので再度の案内。

 

日本カリキュラム学会研究集会のお知らせ

テーマ: 高校における探究科目の導入と課題

趣旨: 2018年3月に高校学習指導要領の答申が発表され「考え判断する教育」への転換の一環として、「理数探究」「日本史探究」「世界史探究」「総合的な探究の時間」など、探究をキーワードとした科目が導入される。それらの科目をカリキュラムにどう位置づけるのか、各探究科目の内容や指導方法、生徒に意味ある探究学習は何かなど、課題が山積している。導入に向けての課題を整理し、探究科目に関する考え方や、実施している高校での実践内容・工夫・課題を聞きながら、カリキュラム創造の方向を考え合うことを目的に研究会を開催する。

 

日時: 2018年3月18日(日)14時~17時(受付 13時30分~)

場所: お茶の水女子大学 共通講義棟1号館301室  

報告者: 
石川 久美氏(名古屋大学教育学部附属中・高等学校)
  「SSH課題研究を通して他者と共同して探究し続ける生徒を育てる」 
坂井 俊樹氏(開智国際大学教育学部)
  「『歴史総合』の検討を中心にして(仮)」
玉谷 直子氏(お茶の水女子大学附属高校)
  「SGHにおける探究活動」
林 尚子氏(和光学園高校)
  「選択科目『農と地域』における生徒の探究と体験(仮)」

 

趣旨説明: 高橋 亜希子 (南山大学)

司会: 子安 潤   (中部大学)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:03 | comments(0) | - |
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