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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
岩垣 攝,子安 潤,久田 敏彦
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発見のメモ

昨日は発見の多い一日だった。

3つもあった。メモをしておかないと忘れてしまう。

以下不親切なメモ。

 

仮説実験授業の科学史へのまなざしは、ただただ珍しい実験と論理探しではなかった。今の人間を見ていたということ。

近代科学の原則とそこに付着した科学主義に拘束されたよさと限界を中心に見ていたが、もう一つの側面を見つけた。

 

人や自分を振り返るのは、時々で十分だ。教育主義が蔓延すると欺瞞と拘束でしかない。自己・他者評価活動の制度化がチーム学校の取り組みとして導入されているらしい。その結果、教師が自分を演技するようになったときいた。構成主義的エンカウンターの転用による害悪もそこに見えた。

 

三つ目。日本じゃダブル・サークル・マップというのはネット上ではヒットしない。

類似の言葉も検索したが、別物だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:47 | comments(0) | - |
教育方法学会公開シンポの案内

日本教育方法学会第53回大会の公開シンポの案内です。

私がコーディネーターの一人なのでCMです。

 

期日: 2017年10月7日(土)15時50分〜18時20分
場所: 千葉大学(西千葉キャンパス)教育学部2101教室
参加費:シンポだけなら無料(他の課題研究などに参加すると4000円)
 

シンポジウム:テーマ
学習指導要領にどう向き合うか ―その批判的検討―

企画趣旨
昨年末の中教審答申を受けて3月に新学習指導要領が告示されました。教科の新設があり、科目構成にも変化があったほか、従来の目標と内容を中心とした記述から「資質・能力」を含んだ記述に大きく変わりました。さらに学び方に関する記述も増大しました。学校ではそれらの先取り的取り組みも始まっています。
そこで、今回の学習指導要領の特質を国や産業界の動向の中に位置づけて求められている能力・人間像を読み解くとともに、教科教育学的な視野からの検討を交差させ、教育方法学研究と教育実践の課題を探りたいと考えます。

 

司会
遠藤貴広(福井大学)
子安 潤(中部大学)

 

シンポジスト
梅原利夫(和光大学)縛りの体制から解き放たれ創造的実践研究の道へ
大田邦郎(千葉大学)踊りまわる活動主義と暗記主義の合体
本田由紀(東京大学)「資質・能力」が意味するもの

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:28 | comments(0) | - |
掃除と心の無関係

教師の多忙の低減策として、仕事の仕分けをしているらしい。

仕事の仕分けも一つの方策であるが、誰が見ても本業の部分の過重労働に関する議論が脇に置かれているらしいことが気になる。

授業の持ち時間の削減が、まず議論されるべきだ。

 

仕分けの議論にはつぎのようなこともあったらしい。

「清掃活動が(子どもの)心の育成の手段」となると有識であるはずの中教審の委員の一人が述べたようだ。

まことに安倍政権下の各種審議会の委員には「有識者」が多い。横やりを入れて送り込まれているだけのことはある。

これは、一部仏教の修行活動の一つを学校に持ち込んで無言清掃などと言って、思考させない従順のトレーニングを日本全体に広める活動を意識しての発言と想像される。

まことに「有識」なことである。

 

更に願わくば、識っておいていただくといいことは、学校で掃除をしないことが圧倒的に多いキリスト教が支配的な西欧諸国では「心が育成されない」と断じることになってしまう。そういう論理と主張だということ。

また、殊の外力を入れて無言清掃という宗教教育の禁止規定に抵触する可能性のある教育活動を行っている学校や地域の犯罪率が低いとか、逆に人に優しい人が多いというデータをまだ見たことがない。

市をあげて実施しているところがあるが、愛知県内の警察署別の各種事件認知件数は、人口と所轄範囲とおおむね比例している。

また、少年事件についていうと、少年事件の認知件数はこのところ減少してきているが、掃除による影響という原因論はきいたことがない。子どもの人口減ならきいたことがある。

 

ともかく、意味ある議論を期待したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:13 | comments(0) | - |
『教師教育研究ハンドブック』刊行

日本教師教育学会編『教師教育研究ハンドブック』学文社が刊行され、昨日到着しました。

 
B5版448頁、ということで大きめ。かつ厚い本となっています。

よって、定価6,480円(6,000円+税)と一般の本の二倍くらいの値段。

会員価格で、10月20日までに申し込んでいただけると5460円税込み・送料込み価格だそうです。教師教育学会のHPhttp://www.gakkai.ne.jp/jssteから申し込んでください。

会員でないと割引にならないそうです。

構成は以下の通りで、包括的です。

第一部 教師教育の基本問題と基本概念

第二部 教師教育の研究方法

第三部 日本と諸外国の教師教育ー歴史と現在

第四部 教師教育の構造と実践

第五部 教師教育の改革

学会創立二五周年記念事業の一つで、ハンドブック編集委員会委員長佐藤学さん他総勢99名で執筆とあります。

 

わたしは、第五部の第一章「教員養成カリキュラムの改革」という項目を書いています。

これは、今のコアカリキュラムのことも書いていますが、明治期中盤以降の改革から主なところを拾い出して書いています。各論は、その後の章節の方々。

 

一年くらい前に書いていた記憶。通常言われる程度のことは知っていたのですが、師範学校のカリキュラムの水準とか、どんな中身が当時教えられていたのかなど担当したおかげでそこそこに知ることができました。旧制の中学水準かそれ以下から始まった師範学校は、その高度化が戦前から悲願だったこと、養成分野間の対立も当時からあったこと、教師となる抜け道が色々あって高度化にとっては障害となる側面もあったことなどもわかりました。

 

調べていて一番印象に残ったのは、戦争が始まると、教育が重要と言いながら、真っ先に師範学校等が休止となって教育をやめていったこと。なしとなって半年もたたずに敗戦を迎えた。

教育は重視されたことがないなあと調べながら思ったものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:53 | comments(0) | - |
改訂桜は本当に美しいのか

水原紫苑、平凡社、1300円と税金。

江戸期までは、花と言えば梅、明治となって以後に花と言えば桜をイメージするようになった程度のことは文学の知識として知っている人も多いだろう。

私は、ソメイヨシノの桜の風景が、明治中期以後に全国的に展開させられていったことを、佐藤俊樹の『桜が創った『日本』』岩波で知った。以後、ソメイヨシノと靖国神社という不穏な結託が私にはイメージされることとなった。

 

今回の水原の本書は、私の認識に欠けていた短歌、詩作の分野に同様の問題群があることを教えてくれた。

 

冒頭、在原業平の歌で始まる。

世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし

続く小野小町の「花の色はうつりに」もどちらも高校の古典で取りあげられた記憶がある。

これら古典から、いきものがかり、宇多田ヒカルの曲まで取りあげられている。

途中の大半は、古今や新古今を創った人たちの矛盾や歴史の創作(改作)が作品に即して示されていく。

 

水原は、「非情こそ自然の本来の相である。自然は人間のために存在するわけではない」だから、そこに勝手な思いを込めるなと分析していく。「桜ソングが個人の顔を無くすとき、先に見えるのは、行方を知らない落花の道である」と。悲劇と茶番を実行に移したい大根役者たちを舞台から引きずり下ろさなければならないと終える。

 

名指しはしないが、大根役者は誰かと言えば、戦争に駆り立てる安倍・日本会議的な政治家、それらを支持していく蒙昧の人々ということだろう。

 

痛快な文体が続く。これはとりあえずおすすめ。

 

 

 

 

 

 

 

| | 07:06 | comments(0) | - |
ネットで読めるあやうさ

各大学とその図書館は、紀要や研究報告書の類いを急速にネットで読めるようにしている。

学会紀要も多くの学会が同様にネット上に公開を順次行っている。学会紀要の場合、たいてい一年遅れの公開だが、かなり読めるようになってきた。無料公開のところも多くある。
国立国会図書館も著作権の切れた本が順次公開されている。古い著名な人の本が読めるのは誠にありがたい。地方にいると希少本や会員でない学会誌を読むことに労力とお金がかかったが、容易になった。
また大学のイベント企画のようなものの報告書の中に、まれに参考となる議論が紹介されていることがあって、そうした資料を見つけやすくなった。
他方で、大いに語弊があるだろうが、見つからない方がよい水準の資料もネットに上がってしまう可能性も拡大した。入門したての人は、そういう区別がつかない時期には、だまされる可能性も高くなったと言えよう。誤解の多い論文に遭遇する頻度も高くなった。
良い論文、良くない論文と渉猟する人には便利なのだが、一つ二つでわかった気になりたい人々には、ほんとうは沢山資料があるのに、目にしやすいものに左右されて終わってしまう。良くない論文に出会う可能性もずっと高まっているので、誤謬や不正確な把握も拡散しやすくなっている。時が経てば問題点の指摘が生まれるのは学問研究の性格上仕方がない側面がある。欠陥はあろうとも、その時なりにきちんと主張している論文もしかしある。自分の論文は、当然、欠陥の多い側に属するが、修正を重ねていきたいと思う。
リポジトリーで公開された論文を読む作法として、執筆者が誰か、各学問分野でどこに位置付いている人かぐらいは確認しておく必要がある。
| 暮らし | 00:31 | comments(1) | - |
それに付き合うの?

実践記録の中に、次のような場面が記してあった。

 

教室をしばしば抜け出す子と教師の会話。(趣旨がわかるように短縮変形)

子「俺の席は廊下にしたい」

教師「ぎりぎり廊下に一番近いところ」

子「ジャンケンで決めよう」

ジャンケンで教師が勝つが、その子はそう決した後も「いやだ」となんだかんだ。

 

ジャンケンに教師が負けたらどういうつもりだったんだろう?

私ならジャンケンなどと言う子どもの話しに乗らない。なぜ乗れたのか書いてないが、必ず勝つ保証がないとまずいことになる。子どもが言い出したとしても認めたら学習権の侵害になるからだ。

私なら子どもが納得するかどうかはともかく、その話を子にはする。そういう世界があるのだ、ということを言う。席の位置に関する権限は誰にあるのかをはっきりさせるだろう。

 

もう一つ。

中学生。クラスがうるさすぎて授業に集中できないと苦情を言ってくる。

こちらの教師は、担任頼みの傾向にそれを引き受けるのではなく、子どもたちで解決する方針を立てている。方針は正しい気がするが、なかなか実現は大変そうだ。一般的には正しいとされるだろう。授業に集中できない問題は誰の問題かを考えさせる方針と思われるからだ。そういう風に捉えられてきた。

 

実践の評価ではなくて、ここで述べたいことは、子どもがそういうことを教師に言ってくることについて。

こういう類いの苦情を言ってくる子どもに階層がありそうな気がした。

上位層は、こういうタイプの苦情は言ってこない。

クラス内的には下位に位置づけられる子が言ってくるような印象だ。

教師に期待している側面はあるのだが、展望や見通しの持ち方がなんか違う。上位層は、そういう問題を抱えないか、抱えても自分で何とかしてしまう、そう思う。「学級で解決」で終わらせると話しとして記録は完結するが、そういうことではなくて、何か別の問題が子どもたちの間にある気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:00 | comments(1) | - |
教科書の絶対化をやめよう

「教科書を使わせたい」ただそれだけで「道徳の教科化」に突っ走った。

教科にすれば教科書をつくって、それを使わせれば、教える内容と教え方を統制できるということだった。この回路には、教科書を経典のように扱うものの見方がある。回路づくりは権力的統制だが、その回路を成立させるには権力だけでうまくは行かない。

その回路を支持し、その回路を機能させてしまう権力に迎合する人と意識が必要だ。

その一つが教科書を絶対化する信仰だ。

 

しかし、教科書などというものは、統制以外には単に便宜のためだけだ。

考えて見ればすぐわかるように、教えている内容としての自然や社会や芸術は、教科書の中にあるわけではない。

自然は自然の中に、社会は社会の中に、芸術は芸術の創作と作品そのものの中にある。

 

教科書を教えるよりも重要なことは、自然と対し、自然と向き合ったときの知や技ではないか。社会と向き合ったときに操作された出来合いの観念に馴化することではなくて、自ら判断できることではないか。

この当たり前のことが忘れられている。

 

教科書の絶対化をやめよう。

教師も子どもも親も、そして権力者もそんなものを絶対化するのはやめよう。

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:03 | comments(0) | - |
遠山啓の教材研究

教育方法学のテキストの編集を行っている。

月末が締め切りで、自分の担当部分の原稿を早めに一つは書き上げておきたいと思っている。そこにどうしても遠山啓を取りあげて位置づけたい。戦後の教材研究方法論として欠かせない一人だろう。

「水道方式」の解説本や「数学入門」のような代表的本は学生の頃から読んでいたが、エッセーのようなものは雑誌に挟まって目にしてしまったものを除いて読んだことがなかった。そこで、『教育の蘇生をもとめて 遠山啓との対話』やら『遠山啓』を読んだりしている。『教育の蘇生をもとめて 遠山啓との対話』は初版ではなくて、太郎次郎社が再版した版のものなので、新しいが初版のコピーを原板にしている。書体や印字が今とは違う。

友兼清治編著という『遠山啓』の方は、友兼による伝記のような本で、遠山の文章がそのまま時に要約されてつながれている。遠山の生まれから始まっているという意味では伝記の定番だが、水道方式前後の数学研究との関連で記されていたり、その後の仕事についても数学教育に関わる主張の理論的枠組みがそれぞれの時期の論争との関連づけて書かれていたりして、背景や周辺の人や議論との関連が見える本となっている。

伝記的な関心を私は持ってこなかったので、インチョンで生まれたとか、東工大で学長候補になって「当選したらどうしよう」などとホントに思った瞬間があったなどということは知らなかった。当然皆さんご存じのように落選。しかし、一瞬でもそんなことを思ってしまう性格だったのだななどと読んだ。

伝記的な関心がなかったので遠山の亡くなった日が9.11というのも知らなかったし、戒名を無着成恭が送ったというのも知らなかった。いや戒名の話しはどこかで見た気がするが、忘れていた。

以上は、原稿と関係がないのだが、「数学入門」がなぜああいう構成なのかは、よく分かった。研究の経過とかかわっていたんだ。

私の原稿にはせいぜい一頁にもならない取りあげ方になるのだろうが、学史は教材研究の視角として欠かせないことは断言できることはわかった。遠山の学の系統性論は一部正しくはない気がするところもある気がする。忘れてしまうので記しておくと、学も不均等発展をするので、系統性として必ずしも括れない領域が島のように浮上することがあるのではないかということ。

また、生活単元学習論の全体性論の思考停止批判は正しいとしても、全体性あるいは総合性という視角は分析と総合という論理の適用では説明できていないと読んだ。

 

続きは、またずっと後になる見込み。

今日はないがしろにされてフラフラ移動する敬老の日。祝日らしいが今日から勤務先は秋学期の開始日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:16 | comments(0) | - |
忘れられて残る暮らし

がっかりはしても、むなしさで満たさないでほしいものです。

「太平洋戦争末期の沖縄戦で住民83人が集団自決した沖縄県読谷(よみたん)村の自然壕(ごう)「チビチリガマ」が荒らされた事件で、器物損壊容疑で逮捕された沖縄本島中部に住む16〜19歳の少年が「心霊スポットに行こうと思った」などと供述していることに対し、沖縄では怒りやむなしさが広がった。」と毎日新聞。

 

チビチリガマには30年近く前に行ったことがあります。懐中電灯をもって入ると、小さな遺骨がなお散在している一画もありました。

前にも一度触れたことがありますが、初めて沖縄を訪れたこの時(1990年頃)、学習会を行っている近くで高校生が暴力団に射殺される事件が起きた時でした。

そんな争いをしている場合じゃないだろうにと思った記憶があります。その後も、こうした遺跡が破壊される事件は何度も起こっています。

 

いつもささやかなきっかけで失敗するのが人。人やものとの交わり方を知らなすぎたための行為。

どんな交わり方が期待されるのか、示し続けて行くしかないのが継承の事業というもの。とりわけ記憶という忘れ去られる社会法則が一方に存在する問題領域であれば、諦めと空しさこそ乗り越えていくべき最大の課題としていく必要がありましょう。

 

忘れられてなお残るものを編み出していくのが暮らしというものでしょう。私は、派手なイベントに期待していません。記憶の澱の一つにはなるかもしれませんが(そういう澱のつくり方にあまり賛成ではないのです)、ささやかな暮らしの振る舞いに織り込まれていくことの方に期待を寄せたいとおもいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 07:38 | comments(1) | - |
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