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おかしな計算
昨日の読売に、おかしな計算問題が紹介されていた。
この類似問題を以前にもどこかで見た記憶がある。

馬17頭をABCの3人で分ける。
Aは、2分の1。
Bは、3分の1。
Cは、9分の1。

馬を解体しちゃいけないという条件が付いているので、端数がでて、17頭だとうまく分けられない。

そこに一頭の馬に乗ったDがやってきて、自分のやせ馬を足す。

すると、Aは9頭、Bは6頭、Cは2頭に分けられ、余った1頭はDに、うまく分けられました。この不思議について説明を求めていた。

その解説が分母と分子が最後は1にならないといけないという趣旨で記してあった。
要するに、最初、2分の1+3分の1+9分の1が1とならないところに問題があった。そこに1頭連れてきたからつまり18分の1が加わったので、1になって分けられた。そういう説明だった。

しかし、これは、まだおかしい。
最初の分数もおかしい。自分の残した馬の数を数えられない者が、分数を使って遺言を残す等というのも不自然。合計が1となるようにしていない。
そして、1とならないことを知っていたなら、余る部分の指定を書いていないことがおかしい。
また、最後に馬を持ってきた人が自分の馬を3人にあげたのにまた返してもらうことにするのもおかしい。Dがとっていい理由はかならずしもない。

納得のいかない説明と問題の前提だ。
この不自然を受け入れてしまう人もいるだろうけれど、おかしいと思う人のほうが信じられる気がする。



| 暮らし | 06:59 | comments(0) | - |
私の知らない「わたし」たち
私は、沢山いる。
今日の記事で言う意味は、私の知っている私ではない。
私の知らないところに私が「わたし」として沢山いるという意味だ。

昨日来報道されている事例がその典型だ。
米南部フロリダ州で、1歳半のリヤナちゃんが「テロリスト」として搭乗禁止名簿に記載されていると航空機から降ろされたと報道されている。
単なる、航空会社の登録ミスもしくは3人とも米国生まれのアラブ系米国人だそうだから偏見によるミスというニュアンスで報道されている。
しかし、そうではなくて、個人の情報がかように集められ、集められた情報によって「テロリスト」というアイデンティティを構築されていたわけだ。
ミスによって人が、テロリストと非テロリストに区分されていることが明らかになった。私は、ミスがなければ、たぶん非テロリストに区分されているはずだ。

これは一例にすぎない。
私がどこで何を買い、何をしたか、ネット上で何を書いたか、そこに公開された私の情報が収集されている。
フェイスブックは、画面の右にCMが表示される。いくらか記事と関連のあるCMが表示される仕掛けのようだ。キーワードとCMが連結され、それに関心のある人物としてアイデンティティが作られていく。そのCMの表示を消すと、消した理由を問われる。それに応えるとまた情報が集められアイデンティティが構築される。
こうして、私の知らないところで、「わたし」が構築される。
この「わたし」の困ったことは、私が知らない(気づかない)ところで構築され、その変更を私はできないことにある。

抵抗として、自分の真意とはことなるCM非表示理由を選択してみたり。
ここにこのように記してみたりする。

ところで、こうした事態は、キャラを演じる等という議論がかつて存在したが、その妥当性を示していると解することもできる。しかし、それはあまりに楽観的もののとらえ方だということを示してもいる。

私には私の知らない「わたし」たちがいる。




| 社会 | 06:33 | comments(0) | - |
病因論
『リスク学入門4』岩波書店の中で美馬達哉が面白いことを書いていた。
疾病の原因とは何かに関する議論を病因論というらしい。これが、近代医学では、「一つの疾病には単一の原因が存在すると想定する『特定病因論』という思想」だったという。
これは、19世紀後半に相次いだ病原菌の発見、コッホの結核菌など、をモデルにしており、20世紀の抗生物質の発見と応用で確認されたという。

ところが、特定病因論が有効と言えない病気であるガン・心臓病・脳卒中など慢性病があり、それらに対しては1970年代頃から確率論的病因論が登場するという。
多因子的に確率的に病気が引き起こされるというわけだ。確かに、こっちのとらえ方がかなり幅をきかせるようになっている気がする。
「ほっておくと大変なことになりますよ」と言われることになったわけだ。

この二つの考え方の現状をメタボリック・シンドロームをめぐる論争の例を検討する中で、美馬は興味深い結論を引き出している。
確率論的病因論が個人のライフスタイルを問題にする傾向を強めてくると、社会環境に由来するリスクも個人のライフスタイルに関するリスクだけを問題にする傾向を強めるという。つまり、自分じゃどうしようもないことも個人責任にしてしまう傾向が強まっているというわけだ。いわゆる「健康増進法」を見れば確かにそうだ。

そんなことはないという声もありそうだ。
公共の場の喫煙の禁止やたばこ産業への高額賠償は、社会的なリスクへの圧力に見える。しかし、どうも別の意図もそこにあるように私には思われた。すなわち、それこそ、自己選択による自己責任をせまる仕掛けとしてあるということだ。政策的・社会的にはここまでしているんだから後は自己責任だ、というイデオロギーがそこにあるように見える。
原発とその放射能のことをここでも想定した。

美馬の議論はリスクとの抱擁の方向かも知れないが、病因の会話の枠組みがちょっと見えた気がする。
今後さらに検討したい。



| 社会 | 06:27 | comments(0) | - |
実践の記録化と研究
昨日は、教育学会中部地区研究会。
主にお二人の教師に実践を何のためにどのように実践記録にしていっているかを報告いただいた。
その時の話題の一部。

実践そのものを映像や音声に記録することと、それを文字に起こすこととはまったく異なる作業だということを宮澤教諭は述べた。だから、映像の文字記録化が機械的に行われるようになっても、文字化の作業を続けるだろうという。
これはおそらく、生活綴り方と同じで、その作業の過程で実践の捉え直しが行われていくからだろう。
ところで、この報告の時、「ごんぎつね」の授業の一場面が実践の事例として紹介され、そこで一人の子どもが、こっそりとゴンが持っていくことが重要だと教師の予想に反して主張した。教師は、いたずら好きなゴンとその子をダブらせて捉えていたようだが、子どもが注目した点が違ったようだ。これは、教師の主題把握が異なっていたからだと私はみた。
罪を犯したときに、人はいかにすると赦されるかがより中心的な主題で、子どもはそちらで考えていたが、教師はそうではなかった。そういうズレがそこにあったのではないかと思われた。
ところでこの点こそが、教師が実践記録を書く意味であり、集団的に研究する意味を現しているように思われる。また、記録を書くというとき、そこには教育の構造をどう捉えるかがポイントとなることを示している。例えば、構造の一つとしての教科内容研究の重要なことを示しているだろう。

もう一つ別の話題。
文字記録を実践記録に変換するレベルがある。このところで実践を書けない教師が居るという話題が出た。
このレベルは、教師が実践を意味づけ分析することになる。たしかに、事実の羅列までは形が決まればそれなりに可能だが、その先はそう簡単ではない。
この段階での営みは、鬼頭教諭の報告が貴重な指摘を行っていた。
実践に書けること、書けないこと、実践の事実を織り込むことと実践に対するその時の教師の向き合い方を書き込むことなど。昨日の資料は、別の形で報告集となるのでそちらを参照。

ところで、鬼頭さんの報告途中で、写真のような動くオモチャが紹介されていた。
作ったら楽しい。
手たたきサル、というのだそうだ。
もう一枚の写真を見ると、その構造が見えて、作り方も分かるだろう。

ストローの中の棒を引っ張ると、一円玉が山折りと谷折りの組み合わせで、曲がって、打ち付け合うことになるオモチャだ。

下の緑のテープでストローとサルの本体を固定する。
上の緑のテープで竹ひごの棒を固定する。
テープで留められた間の胴体の部分は谷折りにする。
腕の部分は、山折りにする。
谷折りと山折りの接合部分は、斜めにおる。
すると、腕が前に折れる。
そして、棒を引っ張ると動くというわけだ。
「たたきざる」の出典は「ものづくりハンドブック 3」(仮説社)に載っています、というメールをもらった。ということでそちら参照。ちなみに、その雑誌研究室にある。

何となく楽しい。
なぜ楽しい?







| 教育 | 06:13 | comments(0) | - |
わが母の記
井上靖の自伝の映画化だそうな。
小説家の伊上洪作は、父・隼人(三國連太郎だそうだが、誰が演じているか最初分からなかった)の見舞いに湯ヶ島に行って、そこで手を握るとその手を突き放される。親が子を突き放すということがあるものだろうか、そういう冒頭の問いかけだ。

井上靖というのは、映画の通りだったとすれば、かなり横暴でパターナリズムを身体化していた人のようだ。
そういうエピソードが積み重ねられる。
それを「愛と奉仕」と口癖のように言っていたようだ。
愛に対する奉仕として伊上の本の検印を押すことが課せられていた。それで、誰かのセリフに「愛も奉仕も強制されると」というのがあった。

母親八重の記憶は、どんどん薄れていく。

伊上が5 歳の時から8年間、伊豆の山奥の土蔵で曾祖父の妾・おぬいに育てられる。
伊上は、この記憶を母に捨てられたと考えている。
他方、母は、普段は、おぬいに息子を奪われたと言っている。そのことを伊上が母に「息子さんを郷里に置き去りにしたんですよね」と問いつめる。すると、母の八重から預けることになった事情が語られ、伊上の屈託が解かれるという映画。

親が子を捨てたり突き放したり、そういうことがあるのかないのかというと、映画はないと回答している。しかし、もう一歩踏み込んで見れば、仮にそうだとしても、当該の家族にとっては捨てられたり、横暴だとしか思えない出来事がそこに積み重なっていくものだということを描いたと理解することもできる。
そして、そういう積み重なりの中には、理解可能な事情がそこにあることもあるということかもしれない。

それにしても、井上といい、志賀直哉といい、太宰といい、家族関係的屈託がその生活と小説を強く規定しているものだとあらためて思う。

樹木希林の間と視線の演技がいい。



| 映画 | 06:21 | comments(0) | - |
原稿『教育』に掲載
『教育』の6月号が発刊され、そこに私の文章が掲載されました。
来週の土曜日に対応したかのような内容となっています。お読みいただければ幸いです。

原発と放射線の危険性について対立的な見解が社会的に存在します。そんな場合、教育ではどう考えていくのか、そこを検討しました。

調べ上げて、本当はどうなのかと真理真実を確かめ、それを教えると考えたい所です。しかし、そう単純にはいきません。
そこを場合によって分けてみました。
事実と価値をめぐる問題に分けました。
さらに、事実をめぐる場合を二つに分けました。
事実をめぐって、一つは、明らかに、すなわち社会的にも合意が成立している場合。そんな場合は、教え方はともかく、これが事実として提出。
事実をめぐって、複数の見地がある場合、それぞれを解として提出。

価値をめぐる場合は、異なる見方をそれぞれ提出し、判断は子ども自身。

単純化すると、そういう分類。
従来の教育と科学の関係に修正を求めた部分があると思っています。
また、今の政治が教育に粗野に介入してくることへの批判を念頭に置いて書いたりしました。
さらに、リスクに関する研究をごく一部参照して見たりしました。

ページ数を気にして最後だいぶ削ったところがあって読みにくいところがあるなあ、と気にしてます。



| 教育 | 06:32 | comments(0) | - |
読みの人物主義に
このところ取り上げている田中の文学とその読みに関する本の気になる論点の一つについてのメモ。

『文学が教育にできること』には気になる叙述がいくつもある。
作品の解釈そのものについてはすでに一部記した。
田中の第三項理論について、私はそのまま妥当だと思っていないのだが、田中が物語と語り手の自己表出を読むとしている構想は重要だと見ている。

本日は、丸山義昭がこの本に執筆していることについて。
羅生門の読みを書いているのだが、その読みよりも、読み研の中心メンバーとして活動してきた丸山が、主人物を中心とした人物主義にとどまっていたと記している部分が注目だ。
これは、丸山自身の読みについて記した文章だ。しかし、私には、読み研の読みを問題にしていると思われる。もう一度断っておくが、丸山は読み研の読みとは断定していない。
だが、私にはそうは思われない。この本の巻末に田中による各執筆者への応答があるのだが、そこでも田中が「読み研の固定的な実体論の限界を打破している」と書いている。そして読み研にとって事件だとも書いている。
私もそう思う。
読み研の人物の形象を読むという枠組み、読みにおける批評性の弱さを突いているように思われる。ここは議論が進むことになるだろう。いやすでに進んでいるのだろうか。

ついでに少年の日の思い出に関わって、竹内常一の解釈への応答が二カ所あって、『読むことの教育』を再読しておこうかなと思った。

元の本を読んでいないと分からない記事で、「どうも」という感じ。





| 教育 | 05:57 | comments(0) | - |
マニュアル本と実践記録
今度の土曜日にウインク愛知で教育学会中部地区の研究会を開催する。
そのテーマが教育実践記録の問題だ。
そこでこの研究会のテーマの趣旨を話すことになっている。
それで、ちょっと調べてみたのが、教育書の発刊点数。
全部は無理なので、教育書大手の明治図書の国語教育書籍を調べてみた。
同社のサイトには、年次別分野別に発刊書籍がおよそ10年分検索できるようになっている。

これを見て分かることは、いわゆる実践記録と呼ぶに値するものの刊行が大変少ないことだ。私の視点から分類すると、実践記録を含む授業論的なもので1割5分程度だ。残りはマニュアル本と言っていいだろう。
10年前は、授業実践論的なものがその倍近い比率であった。

出版社のカラーがあるからこのデータだけで普遍的というわけではないのだが、傾向としては妥当性が高いだろう。

マニュアル本と実践記録本の違いは、どこにあるか。
見ればすぐ分かるのだが、その区分を言語化して示そうとするとちょっとどこかなと考え込む。簡単に決めがたい所がある。本として両方の要素を持つものがあるだけではない

私は、固有の教師の息づかいが消去されているものがマニュアル本かなと、とりあえず区分してみた。マニュアルにもいいものと悪いものがあるだろうから、そこには作成した人の教育観が反映しているが、息づかいを消去するように作成してあるような気がしたが、いかがだろう。

そんな判断基準を暫定的にでも示したのは、実践記録の固有の価値が教師の息づかいにあると思っているからなのだが。

まあ、土曜日に。


| 教育 | 06:09 | comments(0) | - |
5.19原子力教育シンポ
最新版のチラシが届きました。

一部では、対立する立場のお二人の話を聞きます。

二部はそれぞれの見地からの教育の試み。
私は指定討論者ということになりました。

何を話すかを来週になったら考えよう。

今週は、実践記録論のテーマ設定趣旨を冒頭に話さないといけない。
これも何を発言するか検討中。
でだしだから、踏み込みすぎないようにしないといけない。





| 教育 | 13:27 | comments(0) | - |
市場至上主義の三大新聞
朝日、読売、毎日とどの新聞社説も市場至上主義の社説を掲載した。

フランス大統領選挙の結果を受けて、オランドが勝利したことが三大新聞とその支援者の意にそまなかったようだ。

朝日5月8日社説
「大きな政府」による解決が最善とは思えない。成長戦略が必要だとしても、財政健全化を遠ざけ、独仏連携を揺るがすような要求なら、たちまち金融市場の逆襲を受けるだろう。

読売5月8日社説
大衆迎合的な政策は、市場の信認を一層低下させる可能性がある。

毎日5月8日社説
選挙戦でオランド氏が掲げた政策には、公務員の増加や年金支給開始年齢の引き下げなど、財政悪化につながる人気取り的なものが多い。欧州中央銀行に積極緩和の政治圧力をかける同氏の姿勢もドイツは容認すべきでない。

一様に、市場の動向を気にし、そこに従うべきだと金融資本第一主義を掲げている。日本にもフランス等の世論が高まり波及することを危惧していることが分かる。

これでは新聞の使命が果たせない。僕なんだから。
原子力委員会が原子力村の相変わらず僕だというニュースを毎日は流しているが、僕同士?
かいならされてる気がした。
逸脱からやがていつの日か普通の批判精神が恢復する日を期待したい。





| 社会 | 05:54 | comments(0) | - |
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