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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
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忠誠競争と自律性

アメフト会見を視聴して思い起こしたのは、日本の組織における忠誠競争の腐敗を論じた丸山真男。

丸山の議論を参照したと思われる城丸章夫の軍隊教育論。

少ししてから関連があるかなと思ったのが加藤周一の形論。

 

指導者が被指導者を精神的に追い込み、服従を強いる。

服従を習慣化し、自律的に思考する習慣を奪う。

疑問の発生を奪った後に、行動を指示・命令して部品のごとく操る。

 

こうして人の自律性を奪う。自律性を奪われると、行動の基準は奪った人間の意志と同一であるか近似しているかどうかだけが重要となる。こうして下僕となる。

 

会見は、自律性の重要さ、疑問・問いかけの重要さと、相互に問いかけあえる関係の重要さを示している。

その関係は、自律性を土台として、決定への平等な権利とそれを保障するシステムの必要を教えている。

 

多くの人が気づいているが、ウソを並べる官僚と官僚にウソを言わせる安倍政権に相似の関係を見て取ることができる。

 

そしてPDCAにもこの関係が結びついている/く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:29 | comments(0) | - |
人が足らないのに定員削減?

過日は、国立大学の教育学部定員削減の検討が話題となっていた。

今日また、医学部の入学定員の削減が話題となっていた。
これが私には理解できない。
どちらも過労死が問題となる長時間労働のブラック職業の双璧だ。
過労死ラインの残業を続ける医師・教員はきわめて多い。
月に80時間の残業をしているということは、そういう人が二人いたとすれば、もう一人を雇用してようやく残業が0となる。
残業をなしにするにはあと何人の医師・教員が必要となるとカウントしているのか?
現状の人数で足りているという前提の計算をしているのではないか?
医師の需給数の検討をしている審議会のデータがある。
これをみると、週当たり56,6時間が現状で、将来を53,9時間と見込んでいる。
月当たり約60時間あまりの残業を予定していてあまり減らすつもりがないことがわかる。
教員の長時間労働対策も小手先ばかりの対策が示されている。人の増員は棚上げ。
理解できない政策動向だ。
| - | 06:50 | comments(0) | - |
授業時数の問題

あと10日で、次の〆切り。

 

時間の問題を考えたい。

教員の長時間労働の問題にもかかわる。

 

小学校高学年の年間授業時数は、標準で980時間(45分/1授業時)だった。

今年度と来年度は、995時間となる。15時間は総合の時間から振り替えることができるから980時間に据え置くことができなくはない。

しかし、その次の2020年度からは1015時間になる。35時間増となる。

 

現行の980時間となるときも大変だったのに、さらに増える。

これ以上入れるところがない。それを15分ずつ三回で一時間分にカウントしても良いよと、数あわせのことしか考えないCM系のひとが言う。それできちんとした授業ができるはずがない。落ち着いて考える間もなく始めたら終わる。

 

35時間増をだれが負担するか問題がある。長時間労働に時間増という考えられない方策。文科予算には1000人分小学校英語要員を増やすとあるが、全国の公立小学校は約20000校ある。20校に一人の増員で足りるはずがない。

 

こうした増は、子どもにも波及する。学校内時間が少なくとも多忙化する。

 

教師にはもう一つ別の授業時間問題が発生する。

それは、教える内容と教え方変更問題とが連動する。今回の改訂で内容の削減はなかった。移動と増加はある。

他方で、学習のさせ方が変更になる。ALなどを行えとある。

普通にこれを行うと時間が足りない問題が発生する。

この問題は、実は深刻だ。

結果として何が発生する?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:42 | comments(0) | - |
マルクス・エンゲルス

マルクスとエンゲルスの伝記映画。

二人の著作の有名な文言がたくさん散りばめられている。

映画の基調は、プルードンのような観念的な無政府主義批判をする中で、労働者階級の組織化という方向を見いだすというもの。

 

ただ、ストーリー重視の私としては今ひとつ。

伝記として描くなら、意見の対立がもっとはっきり見えるように描かないと何を言いあっているのかが分かりにくい。

 

帰りに書店に寄ったら、京大の人が本の出張販売をしているようだった。いつかは書道家の人の実演販売。

ここは、私の分野の専門書の並べ方は良いものがなくてだめ。同一の系列では名古屋駅前の方が良いが、新書の並べ方はよくない。ちょっと荒れてる。駅前では別系列の書店の方が私の分野はダメだが、わずかによい。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 映画 | 07:08 | comments(0) | - |
教員養成に関するOECD TALIS ナショナル・シンポ

OECD TALISのナショナル・シンポジウムがある。

案内によれば、「OECD TALIS調査(教員指導環境調査)のオプション調査である初期教員準備調査(OECD Initial Teacher Preparation study: ITP)の第1回調査総括会議」で、教員養成等に関する研究者・専門家等が集まるという。


「ITP調査に基づく教員の養成、採用、初任者研修等に関する最新の各国データや実践事例について紹介するとともに、教員養成等に関する政策決定や実践の場、また研究の場において、各国が当該データをエビデンスとしてどのように活用しているのか、またエビデンスの信頼性保証や活用に向けた具体的なあり方や方法について議論」するという。

 

関心を持ったのは、内容についてはまずまずで、そっちよりもその開き方。わが国のシンポジウムでよくあるやり方と違うという。

「テーマに基づいてパネリストとファシリテーターとが議論をする様式をと」るとあった。

さてどうかなという感じ。

 

推奨だが事前申込が必要らしい。


テーマ:「教員の養成・採用・研修をめぐるエビデンスと研究の活用」
日程: 6月3日(日)12:30?16:15
場所: ベルサール御成門タワー4階ホール(JR/浜松町駅・浅草線/大門駅・三田線/御成門駅)
対象: 教員養成・教師教育に関する大学関係者(学生を含む)、教育委員会関係者、その他教育関係者等
主催: 独立行政法人教職員支援機構
※日英同時通訳システムを使用します

プログラム
12:30: オープニング・リマークス
12:45: Karine Tremblay,OECD教員指導環境調査(TALIS)プロジェクト・マネージャーの挨拶
13:00: 第1部: 教育政策と実践におけるエビデンスとは何か
14:30: 第2部: エビデンスに基づく教師教育改革をどのように展開するか
15:45: クロージング・リマークス

詳細はこちら
OECD初期教員準備調査に関するナショナルシンポジウム
http://www.nits.go.jp/training/seminar/007.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| - | 07:02 | comments(0) | - |
第21回研究集会案内

あと1ヶ月を切ったので、広報。

教育方法学会の研究推進委員長としての業務。

教育実践研究をテーマに開催する。

実践そのものが示されなくなっているが、実践そのものこそデータの源泉。しかし、源泉を並べるだけでは研究ではない。意識的問いかけと切断が必要。そこに報告者の三人がそれぞれにアプローチすると面白いんじゃないかという着想。

以下は、案内のHPからのコピペ。

 

日本教育方法学会第21回研究集会

教育実践研究におけるデータとは何か
−データの収集と考察の現在−

教育方法学にとって、授業実践や教育実践という総合的営みのどこに焦点を合わせて、いかなるデータをとるかは研究の成否を分ける基本問題です。臨床的な研究にとって、研究課題の設定とそれにふさわしい実践データの収集と分析は、基礎的作業です。地道な作業ですが、この分野にも理論研究からの影響であったり、データ収集の新たなアプローチが試みられたりするようになってきております。
そこで、意欲的に研究データの開発とアプローチの革新を試みている会員に報告をお願いし、それぞれのアプローチを交流・検討することを通じて、教育方法学研究の新たな前進や実践の従来の見方の革新につながることを期待してこの研究集会を企画いたしました。このことを通じてベテランにとっても若手にとっても研究データを取り扱う作法を振り返る契機にしたいと考えました。多くの会員の参加を期待いたしております。

 

日時:2018年6月10日(日)13:30〜16:30(受付:13:00〜)

場所:大阪教育大学天王寺キャンパス 西館1階第一講義室

司会者:池野範男(日本体育大学) 西岡加名恵(京都大学)

提案者:
坂本將暢(名古屋大学)
「工学的アプローチによる教育実践データの分析と意義」
中坪史典(広島大学)
「映像や写真を介して教師(保育者)の多声的な語りを収集する:文化を反映する教育(保育)実践を描き出す試み」
八田幸恵(大阪教育大学)
「生徒のノート・作品・成果物を公刊し授業研究への多様な人々の参加を促す:教室における目標と評価の豊穣化のために」

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:41 | comments(0) | - |
授業の起源

教育学研究を眺めていて授業という言葉の起源に論及する下りがあった。

古之學者必有師。師者,所以傳道、受業、解惑也。

韓愈(中国の8世紀から9世紀頃の文人)の言葉で院生の頃に先生が話題にしていたことがあったことを思い出した。

師は道を伝え、生業を授け、惑いを解くというわけだ。

この三つの中身を何と考えるか。当時の意味は専門家でない私にはよく分からないが、解釈はしてみたくなる言葉である。当時の記憶では、生業が真ん中に入っていることが重要なのではないかというニュアンスで語られたと思う。

道を説くその道はしばしば問題の多い道。

生業を授けるというのは、小手先の技術だけではだめで、生活を成り立たせていく位置をもっている必要があるというわけである。

今の動向でいえば、マニュアルマスター的面接対策、マニュアル仕様書の習得とは根本的に異なるということであった。

 

さて、そういう授業とはどんな授業だろう。そう問いかけてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 07:35 | comments(0) | - |
学内投票所

勤務先に期日前投票所が設置されていた。昨日と今日の二日間だけ設置されるらしい。

 

18歳選挙権に制度変更された頃からいくつかの大学が設置しはじめた。

勤務先の学生の関心は今ひとつのようだ。

市長選と市議補選だから、春日井に住民票がないと投票権がない。市外の学生の方が多い所為もあろう。

つまらない道徳用読み物教材を取り上げているより、候補者に意見を聞いたり、質問を出す話し合いをする方がずっといいだろうと思う。

 

ところで、近所で投票できてよい制度だという見方もあるが、保守化した学生の票を集めたい制度だという意見もあるようだ。私は、悪くはないと思う。

 

それよりも選挙をやっているんだかやっていないだかわからない選挙運動の規制を廃止した方がよいだろう。宣伝や戸別訪問に規制をかけ過ぎで、宣伝カーの姿形を見たことがない。これでは投票に行こうという気にならない。

 

大学の地下はリニア新幹線が通るらしいのに何の反応も聞かない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 暮らし | 06:44 | comments(0) | - |
道徳物語教材の批判の観点

道徳の時間用の教材の一つのタイプは、物語もしくは伝記である。

多様に考える道徳といいながら、多様でない把握が大量に生まれている。それは、取り上げられた物語や伝記それ自体に偏りやできの悪さがある。それでも多様に考える展開にする道がある。

 

物語教材の場合、読みのセオリーであるクライマックスと結末を論理的もしくは批判的に考察することである。

 

手品師の場合、電話がかかってきて大劇場に出演するチャンスを断る場面を考察すれば、クライマックス場面の検討となる。ラストの手品をやって見せている場面なら結末の批判となる。手品師の判断基準の批判をする。約束が思い浮かんで、電話をくれた友人との友情を裏切り幸福追求権を放棄し先約だからと簡単に断ってしまう知性のなさ、現実の大人なら選択しない非現実性、などなど思い至っただろうか。

 

中学用3年の「スイッチ」では、部活で練習内容を考えようともせず、信念を貫けば良いかのような、迷わず突き進むことにしてしまう結末の批判が上記の観点からの検討だ。練習の中身が本当に良いのか考えようともせず、慣行だとしか説明しないキャプテンこれでは強くなりようがない。といった風にだ。

 

伝記の類いは、史実との対応が必須だ。道徳用教材は脚色され、ウソが混じり、不都合を隠してあることがある。検定の過程からもわかっているように、杉原千畝の物語は創作が入っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:35 | comments(0) | - |
カリマネの可能性

学習指導要領には、カリキュラム・マネジメント(以後時々CMという)を学校で行い、教育課程の実施がうまく行われるようにという記述が新規に入った。

この実施の問題点、克服の可能性をめぐって土日に若干の意見交換を行った。

 

まずどう書かれているかを学習指導要領総則から引用する。

「ア 各学校においては,校長の方針の下に,校務分掌に基づき教職員が適切に役割を分担しつつ,相互に連携しながら,各学校の特色を生かしたカリキュラム・マネジメントを行うよう努めるものとする。また,各学校が行う学校評価については,教育課程の編成,実施,改善が教育活動や学校運営の中核となることを踏まえ,カリキュラム・マネジメントと関連付けながら実施するよう留意するものとする。」

 

一般的に教育課程がうまく運営されるように取り組むというだけなら、いままでも、そしてこれからも必要なことで、学習指導要領に書くような事柄ではない。

しかし、そうではない。CMは、「学校評価」の一環として実施されるものである。学校評価は、教育基本計画に組み込まれた各地の計画に拘束されている。権力に拘束されている。

しかもこの取り組みは、「校長の方針の下に」実施される。この二つが特質だ。

 

個々の改善提案の中にはよいものもあるだろうが、全体としては期待できない。

基本目標自体を改善する方向には機能しない。PDCAのサイクルに位置づけられているために、目標自体を変更する議論にならない。改善提案はいつも目標を達成する提案だけが生き残る。その方向の取り組みだけが評価される。こうした欠陥を抱え続ける。

「校長の方針」は新旧の独裁を生む。一方的な独裁、意見を聞いた振りをする独裁の二つだ。二つを下請けに出すかもしれない。

下請けが組み替える可能性があるかないか意見交換がなされた。

 

私見によれば、拘束されたCMは、そのまま実施すると自分の首を絞める。

企業で先に失敗した手法だ。

下請けに出された場合、個々の教員の奮闘によっては変えられるかもしれないという見方と否定的な見方とがありうる。

制度上、目標自体の変更を想定していない。いつだって、先に決まったものを後生大事にどう実現するかという方向を向いている。

仮に、方向自体の転換の可能性が個別のCM実践にあったとしても、全体としてはそうならない。日本の学校の癖は、いつも細部まで全体に合わせる方向に動く。

跛行的事例は生まれるだろうが、CMは上位のCMによって絶えず破壊される。CMは自治ではない。

だからCMの組み替えではなく、CMをかいくぐって、もしくはCMの無力化を通じて、真っ当な実践を追求することになるというのが現在の見通し。

かいくぐることと無力化は生活綴り方運動以来、得意な分野であり、それらこそが教育を真っ当なものに組み替える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:52 | comments(0) | - |
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