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教室で教えるということ
教室で教えるということ (JUGEMレビュー »)
岩垣 攝,子安 潤,久田 敏彦
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取り締まり型教師批判

「締めるところは締めなきゃ」というベルトのような非教育論がある。

若い教師に多い言い方だと「子どもに舐められないように!」などと言う人もいる。

そういう行動と心性の非教育論がある。

 

非教育論の主張者は、たいていひどかった体験を持っていて、強固な信念を形成している。指導が子どもに入らなくなった教室で困った経験や、そういう教室で子どもとして存在して被害に遭っていたりする。

 

厳しい教師の統制があれば、そういう悲惨な状況にならず、その被害にあう子どもも出現しないと思うようだ。

こういう悲しい信念を正面から批判することも時々しておく必要がある。

 

同じことを三つくらいの言い方で批判できるだろう。

一つは、指導に乗ってこない荒れる子どもはなぜ乗ってこないのか、その理由を把握しようとする見識がない。

二つは、教師が弱いと見るや傍若無人に振る舞ったり、厳しいと見るや従った顔する行動スタイルを幼い行動スタイルと見ることができない。

三つは、子どもを教師に従属させる存在としか見ない。

 

教えるということは従わせることではない。行く道を本人が知を持って選べるようにすることだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:14 | comments(0) | - |
左利きは訴える

左利きはどんなことに不便かを伝える授業を考えた左利きの学生が持ってきた左利きにも配慮したシスコーンのビニル容器。

開封する際の切れ込みが左右どちらにもついている。向かって右側に切れ込みがないと開けにくいというのである。たいていは、左側にしか切れ込みがないが、これは両方についている。

左利き用のハサミは有名で、それは知っていたが、これは知らなかった。

 

もっと深刻な左利きの不利はないのか?と聞くと、「板書!」だという。右利きはチョークで線を引くと文字を書けるが、左利きは押さないといけなくて、文字を書きにくかったという。

左利きの教師はたくさんいるので、皆困っているのかというと、そういう人もいるだろうが、黒板に向き合う角度を変えていたような記憶がある。

どうだったか?

 

左利きの不利はものすごく深刻ではなさそうだったが、ちょっとずついつも損らしい。

 

 

 

 

 

 

 


 

| 暮らし | 06:08 | comments(0) | - |
二つの会の案内

二つの集まりで新学習指導要領関連の話しをします。

 

一つは、7月21日(土)長野県教文会議主催、第3回総合研究集会です。ビレッジ安曇野というところで開催されます。この場所には前にも行ったことがあります。途中の風景が学生の頃を思い起こさせます。合宿で大糸線を北上した頃のことが思い浮かんでしまいます。私の登壇は、午後1時から3時まで、「膨張する資質・能力論と探究学習を教材研究ベースに」と題して、『教育』8月号や『生活教育』7月号に書いた内容を柱にお話しさせていただきます。

 

もう一つは、7月28日(土)14時から中部大学名古屋キャンパス(鶴舞駅からすぐ)で開催されます。

憲法の理念を生かし、子どもと教育を守る愛知の会という長い名前の集まり。

「改訂学習指導要領の中での主権者教育」という題。

18歳選挙権が実施された後の学習指導要領という状況をどう読むかということだと理解していますが、こちらはまだ資料の作成がまったくできていません。

 

8月にも三重で近いテーマの話しをする予定です。

中学校の道徳の教科書採択などの行われる今年の夏、じっくりと資料を読みたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:55 | comments(0) | - |
知識の4分類

『体育科教育』大修館8月号を眺めていると、知識の4分類を持ち出して、使える状態の知識を説明しようとする文章があった。答申が検討されている時期から持ち出されていたのだが、知識の分類は、科学哲学や心理学で試みられてきた。

私は、自分の修士論文でLompsherの4分類(事実知識、方法知識、規範知識、価値知識)を取り上げている。対象や対象が何であるかが事実知識、心理学でいう宣言的知識に相当する。客体と関係する場合の方法と技術に関する知識が方法知識、心理学でいう手続き的知識。規範知識は、社会的共同生活に関する規範に関する知識、社会的関係知識といってもいい。価値知識は、物事の社会的意義に関する知識のことである。

およそ、世の中の知識は、これらに分類できるというわけである。名付けは人によって微妙に異なるが、かなり近似している。

個別の知識について検討するとすぐわかるが、中には、微妙で、二つや三つにまたがっているものもある。

 

こうした分類が汎用的スキルにもつながるのではないかと期待されていることもあって、機械的暗記に流れる学習に対して一定の有効な把握と見なされているようだ。

 

しかし、ここで述べたいのは、それらの知識自体の正しさ、妥当性の問題が前提にある。

正しいかどうか、妥当かどうかを問う必要がある。これを問い直さずに4分類を意識させた授業構成をしても意味はないということである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:05 | comments(0) | - |
読めばなっとく日本語文法

児童言語研究会編、子どもの未来社、1300円と税金。

 

日本語文法の本は、意外と少ない。専門書はかなりある。特定品詞や用法、それらの解釈をめぐる論争を取り上げたものなどは探すとたくさんヒットする。しかし、コンパクトに全体を記そうとした本は少ない。

今日紹介するこの本は、コンパクトで小中学校の教師が書いているので易しい言葉で説明されている。

例えば、「文の種類」は、次のように説明される。

「文の述語となることばのはたらきによって、3つの種類にわけることができます。

(ア)おじさんが 働く。    (ドウスル文)

(イ)おじさんが やさしい。おじさんは 元気だ。(ドンナダ文)

(ウ)おじさんは パイロットだ。 (ナンダ文)

用例付きで、規定の仕方が平易だ。」

 

この本を読みながら思ったことは、私は、いわゆる「国語」でここに記されている文法をあまり学ばなかったなという記憶である。私は、それを英語やドイツ語を学習した時に意識したなという印象である。客観的事実としては、少しずつ「国語」の時間に学んだに違いないのだろうが、小出しにされすぎて、体系化する作業はそこでは果たされなかったのだと思う。

 

ともかく、文の仕組みの分析図や、品詞の分類表などを見ながら、これを人に易しく伝える言葉が本書にはあふれている。学校教師はもっていると便利だ。本書によれば、小学校高学年以上の子どもが読んでわかるように書いたとあるが、読める子は多いだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

| | 07:08 | comments(0) | - |
体育科教育8月号に掲載

大修館書店から刊行されている『体育科教育』8月号が発刊され、そこに私の論文「資質・能力と教材研究ベースの配置転換」が掲載されました。

 

特集は、「保健体育の「知識」を見つめ直す」で、資質・能力論ベースへと変化した理由とその問題点、その下でどのような変化が授業に起こっているのかその特徴を三点で記し、教職員支援機構にある体育の実践報告で例証し、そうなる確率がこの構想における教材研究の位置づけの弱さにあると主張した。また、内容分析とリンクしないALで「資質・能力」は形成されないこと、そうではなくて、探索的真似、学問的見地の違いを直接討論の俎上にのせた授業にすることが期待されると記してみた。

 

この号には、おそらく私と見方の異なる論文が掲載されている。おそらくとあるのは、まだ読んでないからだ。

知識は位置づいていると記した論調もあると思われる。

だが、「資質・能力」論における知識は、脳内的な知識であって、客観的知識、学問の成果としての知識ではない。この区別をつけて論じているかどうかは雑誌が届いたら確認したいと思う。予想を裏切ってくれるとありがたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| | 06:58 | comments(0) | - |
顔色をみるAL

山口二郎のツイートに、ALは「顔色伺い」じゃないかという論評への賛同が記されていた。

元の文章を書いた野口雅弘という方を知らないが引用しておく。

「近年、教員の一方的な知識提供ではなく、学生の主体的な学びを重視する「アクティブ・ラーニング」が広がっている。基本的には肯定的に捉えてよいだろう。しかし、ここで行われるグループ・ワークは、メンバーの顔色、そしてその後ろにいる教員の顔色をうかがうことを強いる同調的なコミュニケーションを促進しているのではないかと思うこともある。」現代ビジネス(講談社)

 

この元の論評は、コミュ力重視の風潮がコミュ力を嫌いにさせるという見方を提示したものである。一部の階層に劣等感を生んでいるという意味ではそうだろうが、全体にあてはまるかどうかはわからない。また、ALを肯定的にとらえてよいかどうかには疑義がある。これらの指摘には訳あって賛同しないが、引用箇所の後半については、そういう場合があるという指摘は賛同しておきたい。

どの手法を採用しても、そこに顔色を見るという要素があると踏まえておくべきなのだ。

 

工学部の学生が傾斜地の測量の実習をしていた。測量地点に機材をハンマーで打ち込み、距離や斜度を計測している。師匠と弟子のように指示に従っている。きっと測量ができるようになるに違いない。課題が明確で行うべきことが決まっているとき、学生はそこに参加してくる。しかしこんな場合にも、顔色を見ると言うことがそこにあると押さえておいて間違いない。

 

ALは、参加を強いる手法となっていることがある。中には「自主的に」特定の結論へ誘導する手法であることを踏まえる必要がある。前に書いたように「暗闇のワークショップ」やエンカウンターの活動のいくつかは危険そのものという性格を持っていると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 暮らし | 06:20 | comments(0) | - |
聖火リレーは何を願うべきか

右写真は本日付朝日新聞の聖火リレーの順路図です。

同紙記事によれば「2020年東京五輪の聖火リレーの概要が12日、決まった。東日本大震災からの復興五輪を印象づけるため、同年3月26日に福島県からスタート」するという。

 

記事を読む数時間前に、だがこれとは対照的な誠に興味深い情報を得た。

 

一つは、1964年の東京五輪の時のアジアの聖火リレーが日本の戦争を謝罪する意味で実施されたことである。これが史実であることを私は知りませんでした。

 

二つは、上記の意味であったことが東京都教委の作成したDVDに収められているので、利用ができるという情報でした。そこには以下のようにナレーションが入っているそうです。

「聖火は日本に到着する前、アジアの12の国ぐにを回りました。第二次世界大戦での戦禍にさらされたアジアの国ぐにに、戦争の謝罪と共に『日本は平和国家への道を歩む』というメッセージを伝えたのです」

都教委は東京オリンピック・パラリンピックを教えるよう強要しているようですが、その資料の一部はたしかに利用ができるかもしれません。

 

そして、今回です。

朝日は政府方針の「復興五輪」とそのまま記していますが、復興は果てしなく先のことではないでしょうか。なお放射能が流出し、事故処理は目処がついていない。この事実は隠せない。とすれば、聖火リレーは本当はそこに何を願うべきなのでしょうか。

そもそも聖火リレーになんであれ特定の意味を持たせるべきでないとも考えられます。まして、教育にそれを押しつけるべきではないのです。敢えて私が願うとすれば、自由と民主主義でしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 社会 | 07:26 | comments(1) | - |
ミスター・ヌードル

道徳科教科書検討シリーズその4?

 

廣済堂あかつきの中学校教科書1年用に「ミスター・ヌードルー安藤百福」の成功物語が取り上げられ、「真理を愛し、新しいものを創造することについて考える」ことが目的となっている。

NHKの連ドラにも取り上げられるようだが、戦後の食糧難の時を過ぎ、一文無しの時にインスタント・ラーメンの製造を思い立ち、研究を続け、天ぷらをあげている様子から世界初の即席麺を完成させたという紹介文だ。

艱難辛苦を克服して成功を収めた話しになっているのだが、これは面白いだろうか?

事業に失敗して一文無しの状態の時に、ラーメンづくりの研究に没頭するというのはどうなの?と考える子がいて不思議ではない。

 

連ドラはもう少し安藤百福の人生をリアルに描くだろうが(?)、この短い紹介文では「頑張って発明をした」としか受け取れない。創造が何に由来するのかを汲み取ることはできない。一文無しでどうして研究材料を確保できたのかもわからない。

「新しいものを創造することに必要なものは何か」と考える情報はこの文章にはほとんどない。

 

短い文書の成功物語は無意味教材と言っていい。安藤百福の人生が無意味と言っているのではない。こんな取りあげられ方をされても安藤を理解することにはならない。

各社にそういう教材が配置されている。子どもだって忙しいのに時間の無駄としか思えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:53 | comments(0) | - |
類型化の罪

道徳科教科書シリーズのその3。

学校図書の1年生用に灰谷健次郎の「誰も知らない」がある。

まりこは特別支援学校の6年生、2百メートルを歩くのに40分かかる。言葉を正確に発音できない。その歩く姿を見て通りかかりの人が「何を楽しみに生きているのか」などと言う。だが、まりこは猫や蜂や松葉ボタンの不思議と交流する。その間、色んな人々が通り過ぎていく、と記して終わる物語だ。

これに問いの例がつけられている。まりこが気がついていることは私たちはきづかないことなのだろうか、まりこに聞かせたくない言葉を吐く人と、声をかけてくれる人たちはどんな気持ちでまりこをみているのかなど。

一つ目の問いの方がまだよりよいと思うが、人の見え方を決めてかかる問題点を浮上させるお話しに位置づけられている。

 

ところが、このお話しに続くのが面白いことに、「日本人の自覚 言葉の壁は「日本舞踊」で乗り越えた」という麻生菜穂美の文である。そこでは日本について説明できることが重要とされ、「「人を思いやる心」。私たちがとった行動は世界中から称賛されました。」(p.18)とある。そして、「伝統文化」を誇りに思えといって、大切したいものを書かせることになっている。

まるで、「日本人」だけが、人を思いやる国籍の人のようだ。例示された踊りや風景が日本にだけあるかのようだ。「誰も知らない」では偏見のかたまりだったのではないか。

 

類型化してとらえさせる物語は、欠陥を露呈させる。

ここにはものの見方の強制が露骨に存在している。

日本舞踊というと古代から営々と続いてきたかのような錯覚に陥るが、近代の創作で、源流といっても歌舞伎から生まれたとされる。だから400年足らずの踊りの一部に過ぎない。

事実の歪みとともに、一部が全部にすり替えられている。虚偽を含むと言えなくもない。

 

二つのお話しが矛盾するとも言える。麻生のように思い込んでいる人も確かにいる。だから、誰も知らないに登場する偏見の塊の人も確かにいる。二つを対比して検討すると、社会の問題点が浮上するように思われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 06:53 | comments(1) | - |
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