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教育学会で

昨日の夕立、というより雷雨の後の虹。

栄方向に見えた。

日本教育学会大会が8月25日から桜美林大学ではじまります。

3年間の科研のまとめをここで報告します。

 

私たちの発表は、8月26日(土)の午前中10時30分から桜美林大学 太平館というところらしい。
発表順に、三石初雄、坂井俊樹、山田綾、子安潤の4名。

学会員でないと聴けませんが、参加費が必要ですが臨時会員制度があります。

臨時会員の参加費は5000円。公開シンポだけなら500円。

 

公開シンポは以下。

15:15 ~ 18:15 太平館 A200 レクチャーホール
シンポジウムI(公開・国際シンポジウム)
American Educational Landscape and Emerging Resistance
司会者

鈴木 大裕(NPO 法人 SOMA 副代表理事/コロンビア大学大学院) 世取山洋介(新潟大学)
報告者

Dr. Bareter Taubman(ニューヨーク市立大学ブルックリン校教育学部教授)

Dr. Barbara Madeloni(マサチューセッツ州教員組合委員長)
指定討論者:佐藤  学(学習院大学)
鈴木 大裕(NPO 法人 SOMA 副代表理事/コロンビア大学大学院)

 

 

その他は学会のHPを参照ください。

http://www.jera76.jp/common/pdf/program.pdf

 

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| 暮らし | 06:31 | comments(1) | - |
伊達市の副読本の問題点

伊達市の放射線教育の副読本の問題についてこちらにもしつこく記しておきたい。

副読本の本文を読んでもらえるように、関連するところを引用して問題点を記しておきます。
伊達は福島市の東隣の市。現在も時間当たり伊達市の計測数値では0,75〜1マイクロシーベルトの地点が二カ所あります。これは市役所のHPのデータです。高いところの数値は、一応の基準の目安とされる0,23マイクロシーベルト時の3倍から4倍の数値です。また、計測の仕方が地上から高い計測であることを問題という人もいます。さらに、山林など除染をしていないところは、もっと数値の高いところもあるという報告がある地域です。
さて副読本の件。
副読本の問題点は、100ミリシーベルト以下なら安全と言ってしまっている点が一つ。
日本人は、生涯のあいだに約半数ががんになり、そのまた半分くらいの人は、がんが原因で亡なくなります。放射線も遺伝子を傷つける原因の一つです。放射線の量が少ない場合には、放射線でがんが増えたかどうかわかりませんが、広島や長崎で原爆の放射線を受けた人たちを調べると、100mSvより多くの原爆放射線を受けた人たちでは、がんになる人が少し増ふえることが分かりました。伊達市に住んでいる人たちは、一生住み続つづけたとしても、放射性セシウムから100mSvを越こえる放射線を受けることはありませんから、伊達市に住む人にがんが増えることはないでしょう。」10頁
 
これだと低線量被曝の放射線の影響に関するリニアモデルが否定されてしまっていて、閾値モデルが採用されたことになっています。しかし日本政府採用のICRPの見解とも異なっています。生涯にわたって低い方がいいと言っており、100ミリシーベルト以下でも数値に比例すると考えることになります。
二つ目の問題は、原発由来の放射線量が排除されている点です。
「この図にある1年間に受ける放射線の量は、世界中の平均の値です。チベットやアンデスのような、標高の高い地方では、宇宙から来る放射線は4倍くらいになります。大地から受ける放射線も、その土地の岩石や土の性質で大きく変化し、地球上にはこの平均値の5倍や10倍ある地方もあります。日本国内でも、花崗岩の多い西日本は、東日本に比べて大地からの放射線が 1.5 倍くらいあります。また、空気から受ける放射線は、住んでいる建物の材質などで大きく変わります。」9頁
この説明とその前の図には、放射線の総量が年間2.39ミリシーベルトを自然界から受けているとあります。
しかし、世界一般の話しで、被爆線量の年間数値に福島原発等からの放射線量が加算されておらず、伊達の計測値とも違ってしまうことになっています。宇宙からや地球内部からの放射線被曝の数値は間違っていませんが、正しさで嘘を言っていることになります。

除染の効能について、一度実施するともう大丈夫と読めるように記されていますが、そんなことはありません。
その代表的なものが除染活動です。除染とは、放射性物質のそうじのことで、家の周囲の地面などに降ふり積つもった放射性物を、 集めて、閉とじ込こめて二度と散らばらないように管理します。みなさんが 部屋をそうじするのと同じです。
しかし、山林は除染していないなどの理由から除染後にまた数値が高くなるのであり、今もF1から出ている等の問題が無視された表現となっています。

以上少なくとも事実をめぐって三つの問題点があると私は読みました。
安全と恣意的に思わせる副読本になっています。
現実を認め、危険性があるからこそ安全への取り組みが重要なことを解き明かす副読本にすることが期待されます。
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| 教育 | 07:09 | comments(0) | - |
時代遅れの子どもの見方

学校の規則や慣行について朝日新聞が「地毛証明書」「無言給食」などを例に学校のルールを考える記事を掲載している。

 

http://www.asahi.com/articles/ASK815T7FK81UTIL04X.html?iref=comtop_8_08

 

どの事例にも共通する変さは子どもを見るまなざしが管理統制・拘束するまなざしばかりの規則・慣行で、それが批判の対象となっていること。他の意図が感じられない規則だ。

地毛の色に統制し、地毛の色をしていれば善の証明になると思っている。

無言給食に無言清掃も統制の意味しかない。

万引きしない宣言に到っては都教委の子どもを見る目が犯罪者扱いになっている。

統制のまなざしばかりが見える。

 

そのまなざしは、まなざす者に返ってくる。

強制・監視する者として子どもに見られることになる。

 

こうして指導は成立しなくなる。子ども自身に意欲的に取り組んでほしいという願いは永遠に成立しなくなる。

強制する者からの誘いは、裏があると考えるようにならざるを得ない。

今の時代は、そういう子どもの見方の変化を期待しているのだろう。

 

新聞記事で唯一説得力のある反論は、「学校だけを責めるな。社会が要求している」というものだ。この反論の発言者は、学校のおかしさを容認させたいのだろうが、論理としてはそういう反論にはなっていない。おかしな社会の側も変えようという議論にもなるからだ。

例えば、いつの頃からかリクルートルックが黒ずくめの服装となった。それにあわせた対応で埋まっている。しかし、ほんの少し前の時代にはなかった服装だ。黒い服装をしていればよいと見ているのは社会の側だが、黒い服装をしていても多くは採用されない。

 

これだけ批判的まなざしが発生している学校の慣行は、すでに時代遅れとなっていることを記事が証明している。

慣行は変えられる運命にある。

現在の慣行を普遍的なもので後生大事に守らせるなどと言う馬鹿げた位置づけをしないことだ。

必ず変わる。

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| 社会 | 07:16 | comments(0) | - |
ローサは密告された

麻薬と警察の腐敗を描いたフィリピン映画。ローサは、子ども4人と夫婦2人で雑貨店を営みながら麻薬も売っている。

警察に摘発され、警察署に連れて行かれる。だが警察署の玄関からではなく横から地下へとつながる部屋に連れて行かれる。そこでは、奇妙なことが起こる。押収された麻薬の一部が警官らしき人物に分けられたり、押収された現金が警官のポケットに入っていく。

さらに現金を持ってくれば釈放するという。払えなければ売人を密告するように言われる。こうして一人の売人を密告し、さらに5万ペソ(日本円にして約10万円)を警官に要求されてかき集めてくる話し。

ローサも密告するが、同じ事情でローサも密告されて捕まったのだ。

ドゥテルテ大統領の麻薬撲滅政策で警官が何千人も殺害しているというニュースの構造がやっと飲み込めた。

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警察の腐敗も麻薬同様に変える必要があるが、貧困が腐敗を生んでいると映画解説にはある。その腐敗の上にドゥテルテ大統領が誕生してしまう構造があるようだ。勉強になった。

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映画はドキュメントスタイルなので、最初から最後まで突き放して見ることになる。
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| 映画 | 08:13 | comments(0) | - |
ドングリの落ちるところ

散歩ジョグの公園に団栗が落ちる時季になった。

京都に団栗橋というところがあったことを思い出した。そこには団栗を落としそうな木はなかったが、かつてはそこに大きな団栗の木があったという。今はなくても、団栗と名乗ってもいい気がする。
先日、書店で高校数学のアクティブ・ラーニングを「売り」にした本が並んでいるのをみかけた。実践を提供した人はいろんな困難の中で取り組んだんだろうと思う。
しかし、実践をALを「売り」にしてしまうと外れであった。手にとってすぐにわかった。団栗の落ちるべきところに銀杏の実を落とした本となっていた。この本は、このタイトルで刊行されるべきではなかった。
ALというほどのこともなく、数学の内容的吟味もない。論旨はすでに刊行されている本の三番煎じ。
その向かいには、コンピテンシーを形成する技法が羅列されていると思わせるタイトルの本があった。これまた中身は看板に偽りありという構成であった。もう言い尽くされたような技法が概説されていた。
他方で、注文した本が郵送されてきた。こちらは、これまでに稔らせた実を集めただけでなく、どう育てたかを想像させる本となっていた。山本政俊『高校生と考えた憲法・平和の授業』である。
団栗は落ちるところに落ちてこそ
| 暮らし | 07:34 | comments(0) | - |
桃太郎裁判

法教育の一貫で、今、桃太郎の模擬裁判が話題だ。

こうした取り組みは広がっていいと考える。
何よりも現実の諸問題を取りあげることに接近するという点でいい。
おとぎ話だが現実の問題から遠いようできわめて近い。
奇妙な道徳科の話しよりずっといい。
ただ、二つ検討が必要だ。
一つは、判決をつくるなら、刑法に関する知識が必要となる。小学校の子どもにそれは難しい。子どもたちに刑法を適用させて判決をつくらせるとなると、中学から高校生だろう。
二つは、中高生に行う場合、自分たちで調べる時間が必要だ。自分たちで調べて判決を出したとして、その判決が妥当かどうか専門家による評価が必要だ。適当な議論で判決が決定されていいわけがない。政治家の国会答弁のような水準でいいわけがないことは教えなければならない。
| 教育 | 07:37 | comments(0) | - |
自分を関与させる

家並みに「それぞれの人の暮らしがあるんだろうな」と視線が知らない街の先に動く。

ニュースのトランプは「ひどい」が、それを理由として大統領の諮問機関を辞任する人が米国にはいるんだ。さて日本では?だれだろう?首相や大臣発言を理由として政府委員を辞めた人いるのだろうか。
オバマ演説が評判だという。元を探してみた。
No one is born hating another person because of the color of his skin or his background or his religion...""People must learn to hate, and if they can learn to hate, they can be taught to love..."For love comes more naturally to the human heart than its opposite." - Nelson Mandela
と三回に分けてツイートされていた。
ほぼマンデラの引用だった。主張の趣旨はトランプと違っていい。
だが、憎しみより愛が自然かどうかはわからないと思う。感情としては正反対だが同じメカニズムのものだったはずだから、自然かどうかわからないと考える。
支持の意味の拡散がたくさんなされている。すごい数だ。社会的にはささやかだが意味はあるだろうと思う。
ここで、自分を関与させるとは何かということを考える。時々考える。
かつて批判していた人の別の発言で天まで持ち上げたり、その反対をみることがある。そんな時、持ち上げたり下げたりする人を「信用できないな」と思ってしまうことがある。状況が違うし、全否定じゃなかったんだろうと念おうとするが、そう思いにくい場合がときどきある。
自分を関与させずに賛成したり反対したりしたことなんだろうと思ってしまう。人にはいつも誰にもあることだと思う。だが、その関与させていないことが彼我を彼岸此岸におくことになって、信頼度を下げてしまう。
これは事柄の社会的な意味での重大さと関係なく発生する。
自分を関与させてものをみる。そうありたいと時々思う。
| 暮らし | 07:35 | comments(2) | - |
どっちでもどっちも

公式には8月末が締めきりの原稿を書く意思が固まらない。

言葉の詮索や枠組みを示すことが課題というハンドブックとなるからだ。

 

中身は「生徒指導」と「生活指導」。英語では同一の単語guidanceとされる。

ただ、生活指導という言葉は、英語の訳語から始まったわけではないとされる。

戦前の教科の一つだった綴方科の中で使われ出したらしいという指摘があるが、誰が最初なのかは不明。

 

戦後は、文部省も学習指導要領などでも生活指導の言葉を使っていた。

 

生徒指導という言葉は戦後になって中高生を対象にした通達などで使用された。文部省によるこの言葉の一番古い使用としては「初等中等教育局の所掌事務として「生徒指導」が規定された」としている。だが事務仕事の範囲に用いただけの話しで、意義があるとは思えない。1950年代半ばには文科省が「生活指導研究協議会」を開催したりしている。

 

文部省が明示的に「生徒指導」の言葉を使うようになるのは、1964年からで、1965年には生徒指導資料第1集「生徒指導の手引き」を作成して配布する。生活指導ではなくて、生徒指導という言葉を使うようになった。ただその対象は、先の手引きの配布先が中学と高校に限られていたように、中高生だった。

 

これがおかしなことに生徒指導を「機能」と規定したものだがら、小学校も「生徒指導」という言葉で包含させたくなったが、小学生に生徒という言葉を当てる慣行はなじまず、小学校には広がらなかった。

その後改訂版を出して、さらに「生徒指導提要」を2010年に刊行し、生徒指導という言葉の拡大と普及を図っている。法令的に児童生徒という言葉が先に使われ、言葉の使用慣行もあるので、生徒指導をすべての子どもを対象に使用するのは無理がある。

 

学問用語としては、生徒指導は生活指導の実践と理念とで違いもある。これは、生徒指導が米国流のガイダンス理論を最初受け入れた歴史と関わる。その後の展開はゼロトレランスなどの動向を文科筋系の人はすぐにインフル感染するので、そういう強面系とガイダンス系が混在した枠組みで「生徒」に向き合う手法を語る傾向がある。

たいして「生活指導」は、乳幼児から高齢者までを対象とし、とらえ方は「生徒指導」の用語にこだわる人々よりずっと多様な把握がある。
以上のような話しを多少文献的引用か参照を付して書かないといけない。だいたい事実の普通のとらえ方を並べただけなので、それ以上踏み込むつもりはないせいもあって、執筆意欲に今ひとつ欠ける。どっちの言葉でもいいとは思わないのだが、どっちも触れないわけに行かない。これが見出しの理由。
どこかに執筆の意義を探し中。
| 暮らし | 07:38 | comments(2) | - |
日韓の授業計画の差

12日に日韓教育実践研究会と慶南歴史教師の会の交流会が早稲田で開催された。

本筋のテーマではなくて、細かな周辺的などうでもいいことかもしれない事柄を記しておきたい。そういえば、今日は「終戦記念日」と日本では呼び、韓国では光復節と呼ぶ日。二つの言葉のトーンに大きな違いがあり、この大きな違いを理解することとは関連がないと言っていいほどの違いなのだが、以下に取りあげる違いに私は、日本の教師と韓国の教師の置かれた差を見ている。

 

日本からの実践報告の目標と授業の計画は次のように記されていた。

「江戸図屏風」や「朝鮮人来朝行列図」の中に描かれている朝鮮通信使を中心に、当時の日本と朝鮮とのつながりについて調べ、理解を深める。

1「江戸図屏風を見て、気づいたことをまとめる」、2「国立歴史博物館へ行き、自分が立てた課題について調べる」、(途中省略)8「なぜ、たくさんのお金や人を使って朝鮮通信使を招いたのかを考える」

ここにはある特徴がある。

 

韓国からの実践報告の授業計画には次のようにある。(1と3の細目は省略)

1.第二次世界大戦の内容分析、2.第二次世界大戦を詳しく見る、(ドイツが主導したヨーロッパ戦争、日本が主導したアジア太平洋戦争、世界地図に戦争の内容を記録する)3.考えを広げる。

ここだけでははっきりしないかもしれないが、韓国の報告資料には教科書の見出しが記されており、「全体主義国家の出現」など項目や内容のとらえ方がその文言から読み取れる。それらとつなげると違いを感じることができよう。

 

それぞれ一つだけの事例で日韓を代表させてしまうのは手続き的に問題含みなのだが、私は代表させて問題がないと考える。

日本の目標記述や授業計画には、理解の内容が登場しない。子どもの活動が文字通り記され続ける。

韓国の計画の場合には、子どもの行う活動を記す点で同じなのだが、内容のとらえ方が日本よりは見える。

この違いが気になっているのである。

 

日本の指導案はもう20年以上は少なくともたつと思うのだが、内容に関する事項を計画の部分に記さない傾向を強めたように思う。

今回の日本側報告者は、普段の授業計画の書き方に合わせただけで、内容に関する理解を持っていなかったわけではないのだが、直接に聞いてみないとどのような理解であったのかはわからない書き方なのである。

 

どうして内容に関する分析の記述が希薄で、子どもの活動ばかりが記される授業計画なのか。

それは、日本の教師たちの方が内容統制が厳しく、内容理解を画一的なものとして前提にしているからではないか。もしくは明確に示さない対応でやり過ごす知恵なのではないか。そう思うのである。

 

日本の教育の不幸をそこに見ることができるように思う。前にも記したことがあるが、日本と比べればあくまでも相対的にだが、韓国の学校と教師の方がずっとのびのびと教育活動を行っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 教育 | 08:17 | comments(0) | - |
15歳の戦争

西村京太郎、集英社、760円と税金。

陸軍幼年学校に昭和二十年四月に入学して八月に敗戦を迎えた著者の戦争体験と小説家となるまで及び日本軍の弱さを分析した本。

西村の体験と文献調査によれば、前近代的な戦法、精神主義、兵站の無視、生の軽視、個人の自律性の敵視が日本軍の弱さであったと記している。(日本軍や当時の政治家がすばらしかったという三浦なんとかはこの本ぐらいは読んだ方がいい。)

 

では何故弱かったのかへと考察が続くとさらにいいかなと読んだ。

 

無責任体制にも触れてあって、部下に任せる親分肌が自己の責任を取らない仕組みだと言う。なるほどね、「まかせた」とはおまえが一人で責任を取れということだね。

 

他方で兵士は絶対服従の教育であったから、日本は時代に合わない弱い軍を訓練して作っていたことになる。これに郷愁を感じる人たちは事実を知らないと言うべき、ということなのであろう。

 

 

 

 

 

 

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